小田桐生「鉄橋」(「トーキョーローズ」創刊号、2013年09月10日発行)
小田桐生「鉄橋」は少し古い作品。01月17日発行の「トーキョーローズ」2にも作品が掲載されているが、創刊号の「鉄橋」の方がおもしろい。と、書きながら、どこがおもしろいか説明しようとするとわからない。読み返す。
あ、この5行目--これだね。こで私は立ちどまり、おもしろいと思ったのだ。書いてあることが「事実」ではないからだ。「事実」ではなく、じゃあ何かというと、まあ、詩なんだろう。
詩は、嘘なんだね。
それは前の行と比べるとわかる。ほんとうにあったことかどうかわからないが、列車が橋を渡るということはある。左側もある。女が座っていて、ため息をつくということもある。セミの抜け殻を靴底でくだくこともある。
でも、
こういうことはありえない。「川の名前」「水の重み」「やわらかく」「傾いだ」ひとつひとつは「わかる」が「川の名前」が「傾ぐ」というのがわからないね。「名前」というのは「傾い」だりしない。「事実」としてはありえない。ありうるとすれば、それはことばのなかだけで起きることである。
と、書きながら、私は「傾ぐ」のつかい方に、あ、そうか、名前が傾ぐのかと引き込まれる。「傾ぐ」という動詞が、肉体のなかでよみがえり、それが名前に作用して、名前が何か変化する--「川の名前」が川から離れて別なものの上に倒れこむような感じがする。
あ、世界がずれた、
という感じなのだ。
これは、すべて、ことばのなかのできごととして起きる。
だから、「事実」ではなく、ことばをみていく。みていかなければならない。
「傾ぐ」の前に出てくる動詞「渡る」「座る」、ため息を「つく」「踏みくだく」が肉体にすんなり伝わってくるので、(肉体で簡単に再現できる、肉体の動きとして思い出すことができるので)、つられて「傾ぐ」という動詞でも肉体が先に動いてしまうんだろうなあ。「頭」が「川の名前」は「傾がない」という前に、肉体が「傾いで」、そのあとで「主語」が傾ぐはずがないものだと知って、あ、ではいま感じたことはなんだったのだろうと自分の感覚を再点検する。
そんなことをせずに、「この文章は日本語としておかしいよ」と批判する人もいるだろうけれど、私は「日本語としておかしいよ」と思う前に、「日本語としておもしろいよ」と感じる。そして、それから、そのおもしろさを「詩」と呼んで、それからさらにごちゃごちゃと「感想」をでっちあげるのである。でっちあげたくなるのである。でっちあげることで、そのことばを「詩」にしてしまうのだ。
そのあと、
ことばがだんだん抽象化してくる。こうなると、「おもしろい」がだんだん「おもろくない」に変わる。私はすぐに気が変わるのである。
「寝そべる」は肉体で再現できるが、「水に映す」がむずかしい。「ぬるむ」が変形(活用?)した「ぬるんだ時間」が、うーん、むずかしい。「ぬるむ」というのは肉体の「運動」ではなく、触覚で感じ取る「感覚」だから、どうも「わかる」といいにくい。でも、そのあとの「真似る」はいいねえ。そうか、「真似る」にはこういうつかい方があるのか。
でも、最初に引用した5行に比べると、あまりにも抽象的すぎるなあ。
この二つの動詞のつかい方が「抽象」に拍車を書けるのかもしれない。連体形(で、いいのかな?)+名詞--それが抽象を複雑にしてしまうのかも。
前の5行と「音楽」が違ってきたような感じがする。--これは私の「感覚の意見」であって、うまく説明できないんだけれど。
この抽象化は行が進むにしたがって強くなるから、抽象的であることが小田の個性なのかもしれないけれど、このあたりから最初に感じた「おもしろい」が消えていく。消えていく、ということが私の肉体のなかではっきりしてくる。
ただの「現代詩」(きざったらしいことばの結びつき)になっていく。
という部分では、「おびえる」という「動詞」が肉体に働きかける前に、かってに、おびえる「ように」と比喩になってしまっている。それまでの動詞のように肉体に直接さようしなくなる。これは、つまらないね。
あ、最初は「おもしろい」と書いていたのに、だんだん「おもしろくない」の方が多くなってしまったなあ。
2号に掲載されている「部屋」にも、
という魅力的な行があるのだけれど、その行がもっている「詩」が持続しない。ことばを「頭」で動かしすぎるのかな? わからない。
小田桐生「鉄橋」は少し古い作品。01月17日発行の「トーキョーローズ」2にも作品が掲載されているが、創刊号の「鉄橋」の方がおもしろい。と、書きながら、どこがおもしろいか説明しようとするとわからない。読み返す。
列車が橋を渡る度に
左側に座る女はため息をついた
靴底でセミのぬけがらばかりを踏みくだく季節
橋の下で
川の名前が水の重みにやわらかく傾いだ
あ、この5行目--これだね。こで私は立ちどまり、おもしろいと思ったのだ。書いてあることが「事実」ではないからだ。「事実」ではなく、じゃあ何かというと、まあ、詩なんだろう。
詩は、嘘なんだね。
それは前の行と比べるとわかる。ほんとうにあったことかどうかわからないが、列車が橋を渡るということはある。左側もある。女が座っていて、ため息をつくということもある。セミの抜け殻を靴底でくだくこともある。
でも、
川の名前が水の重みにやわらかく傾いだ
こういうことはありえない。「川の名前」「水の重み」「やわらかく」「傾いだ」ひとつひとつは「わかる」が「川の名前」が「傾ぐ」というのがわからないね。「名前」というのは「傾い」だりしない。「事実」としてはありえない。ありうるとすれば、それはことばのなかだけで起きることである。
と、書きながら、私は「傾ぐ」のつかい方に、あ、そうか、名前が傾ぐのかと引き込まれる。「傾ぐ」という動詞が、肉体のなかでよみがえり、それが名前に作用して、名前が何か変化する--「川の名前」が川から離れて別なものの上に倒れこむような感じがする。
あ、世界がずれた、
という感じなのだ。
これは、すべて、ことばのなかのできごととして起きる。
だから、「事実」ではなく、ことばをみていく。みていかなければならない。
「傾ぐ」の前に出てくる動詞「渡る」「座る」、ため息を「つく」「踏みくだく」が肉体にすんなり伝わってくるので、(肉体で簡単に再現できる、肉体の動きとして思い出すことができるので)、つられて「傾ぐ」という動詞でも肉体が先に動いてしまうんだろうなあ。「頭」が「川の名前」は「傾がない」という前に、肉体が「傾いで」、そのあとで「主語」が傾ぐはずがないものだと知って、あ、ではいま感じたことはなんだったのだろうと自分の感覚を再点検する。
そんなことをせずに、「この文章は日本語としておかしいよ」と批判する人もいるだろうけれど、私は「日本語としておかしいよ」と思う前に、「日本語としておもしろいよ」と感じる。そして、それから、そのおもしろさを「詩」と呼んで、それからさらにごちゃごちゃと「感想」をでっちあげるのである。でっちあげたくなるのである。でっちあげることで、そのことばを「詩」にしてしまうのだ。
そのあと、
濡れた髪のこどもたちは
土手に寝そべり
美術教師の後ろ姿を水に映す
水槽のぬるんだ時間が
水彩画に描かれた朝を真似る
ことばがだんだん抽象化してくる。こうなると、「おもしろい」がだんだん「おもろくない」に変わる。私はすぐに気が変わるのである。
「寝そべる」は肉体で再現できるが、「水に映す」がむずかしい。「ぬるむ」が変形(活用?)した「ぬるんだ時間」が、うーん、むずかしい。「ぬるむ」というのは肉体の「運動」ではなく、触覚で感じ取る「感覚」だから、どうも「わかる」といいにくい。でも、そのあとの「真似る」はいいねえ。そうか、「真似る」にはこういうつかい方があるのか。
でも、最初に引用した5行に比べると、あまりにも抽象的すぎるなあ。
「ぬるんだ」時間
「描かれた」朝
この二つの動詞のつかい方が「抽象」に拍車を書けるのかもしれない。連体形(で、いいのかな?)+名詞--それが抽象を複雑にしてしまうのかも。
前の5行と「音楽」が違ってきたような感じがする。--これは私の「感覚の意見」であって、うまく説明できないんだけれど。
この抽象化は行が進むにしたがって強くなるから、抽象的であることが小田の個性なのかもしれないけれど、このあたりから最初に感じた「おもしろい」が消えていく。消えていく、ということが私の肉体のなかではっきりしてくる。
ただの「現代詩」(きざったらしいことばの結びつき)になっていく。
おびえるように
ただ、おびえるように
顔のない季節が
こどもたちの声に沈む
という部分では、「おびえる」という「動詞」が肉体に働きかける前に、かってに、おびえる「ように」と比喩になってしまっている。それまでの動詞のように肉体に直接さようしなくなる。これは、つまらないね。
あ、最初は「おもしろい」と書いていたのに、だんだん「おもしろくない」の方が多くなってしまったなあ。
2号に掲載されている「部屋」にも、
玄関に置かれた水槽の中
魚たちの時間が早くも転倒している
という魅力的な行があるのだけれど、その行がもっている「詩」が持続しない。ことばを「頭」で動かしすぎるのかな? わからない。
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谷内 修三 | |
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