秋亜綺羅「H氏賞選評」(「現代詩」2021、2021年06月15日発行)
秋亜綺羅「H氏賞選評」に、こういう部分がある。
『針葉樹林』には、わたしは最初から票を入れることはなかった。あまりにも古い手法だからだ。直喩の意味を成さない直喩の連発も、若い詩人たちに真似をしてほしくない。文法を齧って食べてしまった分は、自分で補わなければ詩ではない。五十年前にはこういった模索は氾濫していた。それでもロジックはあった。
私は、秋亜綺羅の考え方には反発を感じることが多いのだが、同時に共感することも多い。
この『針葉樹林』に関する批評については、完全に共感する。
けちをつけるような詩集ではない。でも「あまりにも古い手法」である。この「古い」は、私の年代にはなじみがある、ということである。そして、私の年代になじみがあるからといって、いま活躍している多くの若い人になじみがあるとはかぎらない。若い人には「新しい手法」に見えるかもしれない。ここに、おおきな問題がある。
ぼんやりとした記憶で言うのだが、H氏賞の作品には「新しい手法」の詩集もあるにはあるが、「古い手法」「あまりにも古い手法」の詩集が選ばれることが頻繁にある。
たぶん「古い手法」「あまりにも古い手法」の作品を選んだ方が、「選考基準」を「他人」にまかせることができるからだと思う。自分で、なぜこの作品を選んだかを説明するのは「新しい手法」の場合、とても手間がかかる。「古い手法」「あまりに古い手法」の場合、「安定している」「完成している」と言えば、半分以上説明したことになる。「安定している」「完成している」は「私にはよくわかる」(私が読んできたもの、愛読してきたものに近い)ということである。そこには作品の「肯定」(支持)以上に、自分自身への「肯定(支持)」がある。つまり、その作品を選ぶことによって、自分が自分でなくなってしまうという危険性が少ないのである。「古い手法」「あまりにも古い手法」の作品を選んでいる限りは。
それでは、おもしろくない。
「文学」というのは恋愛と同じで、このままこのことばについていったらどうなってしまうのかなあと不安を抱えながら、そのことばについていくことである。自分が自分でなくなってもかまわない、という覚悟で、目の前にあらわれてことばの運動についていくことである。
「古い作品」「あまりにも古い作品」を選ぶ限りは、それは恋愛ではなく、父母への寄りかかりのようなものである。父母というのはどういうときも最終的に「よく帰って来たね」と受け入れてくれる存在である。それに寄りかかっていては、せっかく身体をわけて生んでくれた父母に対して、私なんかは、何か申し訳ない気がする。やっぱり、生まれたら最後、あとは「帰らない」という覚悟が必要だと思う。
「古い手法」「あまりに古い手法」と「文法」のくだりは、一見、矛盾するように見えるかもしれないが、私はそうは思わない。「文法」を破壊したという自覚があるなら、破壊しているという批判に対して答えられるだけの「文法」を明示しないといけない。ロジックということばが象徴的だが(私から見ると、秋亜綺羅はあくまでもロジックの詩人である。言いなおすと「文法」の詩人である)、五十年前のことばの運動の背後には、それぞれに「文法意識」が感じられた。その「文法」に与するかどうかは別問題として。一番わかりやすい例に鈴木志郎康の「プアプア」があげられるが。「プアプア」というのは、それだけでは何の意味もなさない。しかし、それをさまざまなことばのなかで展開していくとき、「プアプア語(文法)」が構築されてくる。それを理解する(翻訳する?)には読者は苦労しなければならない。でも、「翻訳」しなくても、そのことばに接し続ければ、当然のことながら「プアプア語(鈴木文法)」と「日本語」の「バイリンガル」になることができる。詩は、いわば「プアプア語(鈴木文法)」のような独自の言語の確立なのである。多くの詩人は、それぞれに「〇〇語」を生きているのであって、「日本語」で詩を書いているのではない。「日本語」に見えるが、それは「日本語」ではない。詩をつかむためには「マルチリンガル」ならないといけないのである。「マルチリンガル」になる過程で、ときどき「母国語」を喪失するときもある。他人の言語に(たとえば鈴木の言語に)自分の言語が乗っ取られるのである。つまり、「自己喪失」の危険性と向き合いながら、ことばと向き合うのが「詩を読む」ということである。「詩を読む」のは、だから、じぶんのことばの肉体を鍛えなおすということでもある。乗っ取られたら、乗っ取りかえせ、ということだ。
『針葉樹林』を否定するわけではないが、『針葉樹林』には、そういう「危険な罠/罠にはまってしまう」という誘惑がない、と私は思う。闘う喜びがない、と私は感じる。
秋亜綺羅の言いたいこととは違うかもしれないが、秋亜綺羅のことばに誘われて、私はそう考えた。
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