谷川俊太郎『からだに従う』(集英社文庫、2024年06月25日発行)
谷川俊太郎『からだに従う』には「ベストエッセイ集」というサブタイトルがついている。谷川俊太郎のベトトエッセイなのか、ベストエッセイ集というシリーズの一冊なのか、よくわからないが、まあ、エッセイ集である。
読み始めてすぐ、「文体が固い(若い)」と感じた。最初の「失恋とは恋を失うことではない」はいつ書かれたものか。次の「青年という獣」には(「新潮」1955年6月号)と初出が明記されている。やく70年前だから、まあ、文体が若くて当然なのだが、その文体の若さは、(当時の)詩の若さよりも、もっと若く感じられる。
失恋のすべてを通じて確かなことは、僕らはどんな失恋をするにしろそれは恋を失うことではないということです。
どこが「固い」のか。何かしら、そう感じる。「すべてを」「確かなことは」という言い回しだろうか。何か、思っていることを「すべて」「確かなこと」として書かなければならないという緊張感がある。「それは」と言い直し「ということです」と締めくくる。
詩ならば、こんなリズムにはならないだろうなあ。もっと「開放」された形で書かれるだろうなあと思った。「閉ざされた」印象、「閉じた」印象がある。それは谷川が谷川だけを見つめているということかもしれない。
次の段落で、谷川は
僕の友達の一人に失恋について奇妙な誤解を抱いていた奴がいました。
と語り始めるが、「友達」を語りながら、だんだん友達をはなれ、谷川自身をみつめていく。そして、自分のなかに見つけ出したものを「普遍」のように借り始める。
恋は、愛ではなく、恋は本質的に孤独なものなのではないでしょうか。
ここにはもう「友達」はいない。「奇妙な誤解」もない。
そうした「論理の整理の仕方」のなかに、私は「若さ」を感じた。そして、なんとなく安心もした。
最近の写真を見ると、ぼくの顔もだんだん人間に似てきたようだ。つい先頃まではぼくも青年というれっきとした獣だったのだが。
「だんだん」「つい先頃まで」という「時間の論理性」を踏まえて「れっきとした」ということばで「ようだ」を推定ではなく断定にかえる、そのことばの動き。ここには、やはり、若者特有の「固さ」があると私は感じた。そして、やっぱり安心したのである。
どんな「安心」か。まあ、言わないことにする。
「女*果てしなき夢」に、こういう文章を見つける。
女について書くことのできるのは、シモーヌ・ド・なにがし女史のような女自身か、でなければ宦官くらいのものだろう。
「シモーヌ・ド・なにがし女史」も、若さゆえの「固さ」だろうなあ。ボーボワールと書いたって、何の問題もない。でも、そう書きたくない。そういう「固さ」があったのだ。谷川の「若い」ときには。
で、私は、そういうこととは別に。
そうだなあ、と思う。「女自身」というよりも、女について書くことができるのは、ボーボワールしかいなかった、と私は感じる。『招かれた女』とか『アメリカその日その日』とか。そこには確かに女が生きている。多くの女の作家がいるが、そのなかからボーボワールを引き出しているところに、私は、とても共感した。
「共感」を書いたので、今度は、反論も書いておこう。
「沈黙のまわり」の次の文章。
初めに沈黙があった。言葉はその後で来た。今でもその順序に変りはない。言葉はあとから来るものだ。
たしかに「言葉はあとから来る」と言いたいときがある。しかし、そのとき「先」にあるのは「沈黙」ではなく、「ことばにならない(できごと)」だと私は感じている。ことばのあとに沈黙が来る。その沈黙がことばを飲み込んでしまうときもある。そうしたできごとのあとで、「言葉はあとから来る」(言葉は遅れてやって来る)という印象が生まれることがある。けれども、いつも、ことばが先にあると思う。「沈黙はあとからやって来て」、次の「新しいことば」を誘うのである。「新しいことば」を誘うためには「沈黙」が必要なのだ。
ことばの先に何が存在するかを考えたとき、そこには「無」、あるいは「空」がある。そして、そさは「沈黙」と違って、とても豊かな何かのように感じられる。それは「沈黙」とは違って、ことばを「生み出す」。「生み出す」と「誘い出す」は違うと、私は感じている。
「反論」と先に書いたが、これは「反論」ではないかもしれない。
谷川のことばを読んだ瞬間に、このことだけは書いておきたい、と突然思ったのである。私が書いたことばは、谷川によって誘い出されたことばなのである。まだエッセイを読み始めたばかりだが、そのことを書いておきたいと思ったので書いている。
谷川の書いていることばのなかの沈黙(あるいは、ことばの「余白」か)が、私のことばを誘い出している。誘い出されるままに、あるいは、その誘いに「従って」私は書いたことになる。
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