詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

中井久夫訳カヴァフィスを読む(84)

2014-06-14 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(84)          

 時間の凝縮、反復による時間の隔たりの消滅--は「隣のテーブル」でも指摘できるだろう。

ほら、あの子。どう見ても二十二歳かそこらだろ。
だけど私はおよそそれくらい前にあの子の身体を
味わったよ、たしかに。

 これは、カヴァフィスが二十二歳くらいのときに味わった官能を思い出している。ここには「あの子の身体を/味わったよ」と書かれているが、それは逆かもしれない。つまり、二十二歳のときに自分が味わった官能を、いま、二十二歳の青年を見ることで思い出しているということ。
 官能というのは不思議だ。誰かに導かれて「味わわされた」ものであっても、それは「受け身」のままでは終わらない。「味わう」という「能動」にかわってしまう。自分で味わってこそ、よろこびになる。
 「味わわされる(受け身)/味わう(能動)」は「ひとつ」になる。「同じ」になる。「ひとつ」になってこそ、よろこびである。
 だから、

あの身体だ。同じものだ、私が味わったのは。

 と「同じ」ということばが出で来る。「あの子の身体」を味わったのではなく、あの子の身体が味わうのと同じものを、二十二歳のカヴァフィスは味わったのだ。

どのしぐさにも覚えがある。
そして服を透して、裸が、私の愛した肢体が今一度見える。

 その「幻」は、カヴァフィスが「肉体」で覚えているからこそ見えるのである。
 「覚えがある」は「見覚えがある」ではない。
 途中に、

場所は思い出せないけれど、
それ一つだけの記憶喪失じゃ問題にならんだろ。

 という二行があるが、「場所」は関係がない。「肉体」という「現場」はいつでも「私自身」に属している。「肉体」という現場のなかで、時間は、その肉体を垂直に貫く形で噴出する。
 「時間」は消え、「体験」がいっそう濃密になってゆく。



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