長嶋南子「あき地で」(「zero」6、2016年12月28日発行)
長嶋南子「あき地で」は「家族史」かもしれない。
かつて家があった場所は「あき地」になっている。「あき地」に来て、かつての家族を思い出している。何が起きるか知らずに(あたりまえだが)、生きている。生きてみると、たとえば弟は妻と別れる。生まれたばかりの娘は、妻と再婚した(たぶん)男に育てられる。そうなることを、
もちろん知らない。何が起きるか知らずに生きている。それが人間である。
「歴史」を「こんなことがあった」と語るのではなく、「こんなことが起きる、それを知ってた?」と語り直すとき、妙に切ない。そうか、人間は、何が起きるか知らずに生きるのか。起きてから、何が起きたのかを知るのか。
あたりまえなんだけれどね。
人間は意地悪だねえ。やり込められたら、やり込め返す。姉さんだって何も知らずに、何の手だて(?)もせずに生きているだけじゃないか。
さて。
こんなふうに「きょうだい喧嘩」になったら、どうすればいいんだろう。
「知ってた?」と聞かれたら「知らない」と答える。
それでおしまい?
いや、そうじゃない。
もちろん、そうなることは知らないさ。けれど、「覚えている」。忘れない。弟が庭先で寝ている。そのときの「だだのこねかた(?)」は、ままごと遊びで弟が「学校へ行きたくない」と「大の字になって寝ている」姿にそっくり。あんたは、いつでもそうだったねえ。
それは「知っている」こと、だから書かないのだが。
弟が奥さんと別れたこと、娘が別の男に育てられたことを、「知っている」だけではなく、自分のことのように「覚えている」。夫が先立ったこと、子どもが引きこもりになったことも「覚えている」。それは「忘れられない」。そして、それは「現在形」だ。
この書かれていない「現在形」が、きっと、
という「過去形」を引っぱりだすのである。
ひとは誰でも「現在形」で生きている。「未来」のあるとき、また「知ってた?」とこれから先に起きることを聞くかもしれない。
でも、起きたことは「忘れない」。「覚えている」。
草むら(あき地)やムシは人間ではないので、人間の、そういう面倒くさい「感情」なんか気にしていない。何にも知らないくせに「知ってる知ってる」と言い立てる。
そうだよなあ。
誰かが「知っている」。それは「自分」のなかの「予感」かもしれない。なんとなく、「わかっている」。だから、それを受け入れて生き続けるのかもしれない。
この詩には「知っている/知らない」(知る)という動詞しかつかわれていないのだが、どこかで「おぼえている」「わかっている」ということばが動いている。
弟の「思い」は「わかっている」、姉の「思い」も「わかっている」。「わかっている」もの同士の集まりが家族。家族はいろんなことを言い合う。減らず口をたたきあう。でも、それは「わかっている」から。
そうやって「家族」がつづいていく。
は、「家族があった」であり、「家族があった」の「あった」は決して過去形にはならずに「ある」という形でつづいていく。
長嶋の詩にはいつも「ある」を受け入れる力が強く動いている。
長嶋南子「あき地で」は「家族史」かもしれない。
草ぼうぼうのあき地に立っている
ここに家があった
庭先で酔った弟が大の字になって寝ている
もう少ししたら奥さんと別れることになる 知ってた?
生まれたばかりの娘は別の男に育てられる
知ってた?
かつて家があった場所は「あき地」になっている。「あき地」に来て、かつての家族を思い出している。何が起きるか知らずに(あたりまえだが)、生きている。生きてみると、たとえば弟は妻と別れる。生まれたばかりの娘は、妻と再婚した(たぶん)男に育てられる。そうなることを、
知ってた?
もちろん知らない。何が起きるか知らずに生きている。それが人間である。
「歴史」を「こんなことがあった」と語るのではなく、「こんなことが起きる、それを知ってた?」と語り直すとき、妙に切ない。そうか、人間は、何が起きるか知らずに生きるのか。起きてから、何が起きたのかを知るのか。
あたりまえなんだけれどね。
そんなところで寝てないで
奥さんと娘さんのことろへ早く行きなよ
弟はろれつが回らないことばで
姉さん 早く夫に先立たれること知ってた?
こどもが引きこもりになること
知ってた?
人間は意地悪だねえ。やり込められたら、やり込め返す。姉さんだって何も知らずに、何の手だて(?)もせずに生きているだけじゃないか。
さて。
こんなふうに「きょうだい喧嘩」になったら、どうすればいいんだろう。
知らない 知らない
弟がいたことも子どもがいたことも
おかっぱ頭のわたしはあき地でままごとしている
子ども役の弟に
早く学校に行きなさいといっている
行きたくないと子ども役の弟は
大の字になって寝ている
草むらでムシが
知ってる知っている と鳴いている
家があった
「知ってた?」と聞かれたら「知らない」と答える。
それでおしまい?
いや、そうじゃない。
もちろん、そうなることは知らないさ。けれど、「覚えている」。忘れない。弟が庭先で寝ている。そのときの「だだのこねかた(?)」は、ままごと遊びで弟が「学校へ行きたくない」と「大の字になって寝ている」姿にそっくり。あんたは、いつでもそうだったねえ。
それは「知っている」こと、だから書かないのだが。
弟が奥さんと別れたこと、娘が別の男に育てられたことを、「知っている」だけではなく、自分のことのように「覚えている」。夫が先立ったこと、子どもが引きこもりになったことも「覚えている」。それは「忘れられない」。そして、それは「現在形」だ。
この書かれていない「現在形」が、きっと、
知ってた?
という「過去形」を引っぱりだすのである。
ひとは誰でも「現在形」で生きている。「未来」のあるとき、また「知ってた?」とこれから先に起きることを聞くかもしれない。
知らない 知らない
でも、起きたことは「忘れない」。「覚えている」。
草むら(あき地)やムシは人間ではないので、人間の、そういう面倒くさい「感情」なんか気にしていない。何にも知らないくせに「知ってる知ってる」と言い立てる。
そうだよなあ。
誰かが「知っている」。それは「自分」のなかの「予感」かもしれない。なんとなく、「わかっている」。だから、それを受け入れて生き続けるのかもしれない。
この詩には「知っている/知らない」(知る)という動詞しかつかわれていないのだが、どこかで「おぼえている」「わかっている」ということばが動いている。
弟の「思い」は「わかっている」、姉の「思い」も「わかっている」。「わかっている」もの同士の集まりが家族。家族はいろんなことを言い合う。減らず口をたたきあう。でも、それは「わかっている」から。
そうやって「家族」がつづいていく。
家があった
は、「家族があった」であり、「家族があった」の「あった」は決して過去形にはならずに「ある」という形でつづいていく。
長嶋の詩にはいつも「ある」を受け入れる力が強く動いている。
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