論理というものはいいかげんなものだと私は思っている。ことばをつないでいけば、どんな論理にでもなる。そして、それがいいかげんなものだからこそ、そこには必ず矛盾が入る余地がある。この矛盾を、非論理的なこと、無意味ととらえるか、それとも
詩
ととらえるか……。
逆の言い方をしてみる。何かを論理的に考えつづける。そうすると、論理が論理自身を裏切るときがある。この逸脱を偶然ととらえるか、必然ととらえるか。矛盾ととらえるか、詩、ととらえるか。
谷川は、きっと、詩というに違いない。
谷川の詩は、いつでも「論理」を含んでいる。そして、その論理が破れるときをぱっと取り出す。詩にする。
「孤独」も、そういう作品だ。
「孤独」といいながら、「孤独」を感じるためには「孤独」ではない状態が必要。これは「論理」の矛盾である。
「孤独」を邪魔されたくない。でも、こうして「孤独」でいられるのは、私が孤独でいることを許してくれるひとがいるからである。支えてくれるひとがいるからである。たとえばサラリーマンだったら、平日の午後にひとりで森の中にいることはほとんど不可能。平日にひとりで森にいることができるとしたら、代わりに誰かが仕事をしている。--俗なたとえだけれど。
そして、この「論理」は矛盾しているけれど、「論理」と考えるから矛盾なのであって、「感情の運動」と考えれば矛盾ではない。感情というのは、もともと勝手気ままなのである。「論理」とは相いれないものなのである。「感情」に「論理」があるとすれば、それは「動く(変わる)」という「真実(真理)」というものである。「変わる(変わりつづける)」ということ(運動)が「普遍」なのである。
普通は変わらないものを普遍というが、変わりつづけるということが変わらないとき(運動しつづけるとき)、変わる(運動する/動く)が「普遍」になる。
「孤独」とは「ひとりでいること」である。けれど谷川は「孤独はひとりではない」という。そして、そのことを私たちは「感情の論理」として受け止める。
「頭の論理」が破綻し、それを突き破って「感情の論理」があらわれるとき、「頭の意味」が破られ「感情の論理」が新しい「意味」として噴出してくる瞬間が詩なのである。
「頭の論理」から「感情の論理」へのワープ。それが詩。
谷川が「頭の論理(流通論理/流通言語)」を多用するのは、それを否定し、打ち破り、「感情の論理」を噴出させれば詩になると知っているからである。「感情の論理」は「頭」を経由せず、直接感情に触れる。
この接触は、ちょっと大げさに言えば、神に直接触れるのに似ている。その接触は「理不尽」というか「超論理」である。「頭」で「論理」を積み重ねても神には触れることができない。「頭」を否定し「こころ」で直接、触れるしかない。
詩
ととらえるか……。
逆の言い方をしてみる。何かを論理的に考えつづける。そうすると、論理が論理自身を裏切るときがある。この逸脱を偶然ととらえるか、必然ととらえるか。矛盾ととらえるか、詩、ととらえるか。
谷川は、きっと、詩というに違いない。
谷川の詩は、いつでも「論理」を含んでいる。そして、その論理が破れるときをぱっと取り出す。詩にする。
「孤独」も、そういう作品だ。
この孤独は誰にも
邪魔されたくない
と思った森の中のひとりの午後
そのひとときを支えてくれる
いくつもの顔が浮かんだ
今ここにいて欲しくない
でもいつもそこにいて欲しい
「孤独」といいながら、「孤独」を感じるためには「孤独」ではない状態が必要。これは「論理」の矛盾である。
「孤独」を邪魔されたくない。でも、こうして「孤独」でいられるのは、私が孤独でいることを許してくれるひとがいるからである。支えてくれるひとがいるからである。たとえばサラリーマンだったら、平日の午後にひとりで森の中にいることはほとんど不可能。平日にひとりで森にいることができるとしたら、代わりに誰かが仕事をしている。--俗なたとえだけれど。
そして、この「論理」は矛盾しているけれど、「論理」と考えるから矛盾なのであって、「感情の運動」と考えれば矛盾ではない。感情というのは、もともと勝手気ままなのである。「論理」とは相いれないものなのである。「感情」に「論理」があるとすれば、それは「動く(変わる)」という「真実(真理)」というものである。「変わる(変わりつづける)」ということ(運動)が「普遍」なのである。
普通は変わらないものを普遍というが、変わりつづけるということが変わらないとき(運動しつづけるとき)、変わる(運動する/動く)が「普遍」になる。
嫌われているとしても
嫌われることでひとりでない
忘れられているとしても
私は忘れない
孤独はひとりではない
「孤独」とは「ひとりでいること」である。けれど谷川は「孤独はひとりではない」という。そして、そのことを私たちは「感情の論理」として受け止める。
「頭の論理」が破綻し、それを突き破って「感情の論理」があらわれるとき、「頭の意味」が破られ「感情の論理」が新しい「意味」として噴出してくる瞬間が詩なのである。
「頭の論理」から「感情の論理」へのワープ。それが詩。
谷川が「頭の論理(流通論理/流通言語)」を多用するのは、それを否定し、打ち破り、「感情の論理」を噴出させれば詩になると知っているからである。「感情の論理」は「頭」を経由せず、直接感情に触れる。
この接触は、ちょっと大げさに言えば、神に直接触れるのに似ている。その接触は「理不尽」というか「超論理」である。「頭」で「論理」を積み重ねても神には触れることができない。「頭」を否定し「こころ」で直接、触れるしかない。
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