詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

柴田康弘『海辺のまちの小さなカンタータ』

2015-03-21 10:29:23 | 詩集
柴田康弘『海辺のまちの小さなカンタータ』(書肆侃侃房、2015年03月17日発行)

 柴田康弘『海辺のまちの小さなカンタータ』は、帯にも引用されている「海辺にて」の書き出しがとても美しい。

夕陽のきらめく波の破片を
水鳥たちがついばんでいく
その白い翼が抱く
一瞬の闇を
きみは見ただろうか

 ここに書かれている「一瞬の闇」を実際に見ることのできるひとは少ないかもしれない。私は眼が悪いので、もちろん、そんなものは見えない。見えないけれど、「見た」ように錯覚してしまう。「きらめく」「白い」という輝きとの対比が鮮やかなので、想像してしまうのである。「ない」ものさえ、そこに存在させてしまう力がことばにはある。
 このあとが、むずかしい。

その暗闇の中に
ぼくらの生活でいえば
アパートの階段の夕べの陰翳や
朝のテーブルのサラダの明るさなどの
さまざまな光彩の変化がはぐくまれて
つぎつぎに春の岩場に産卵されていくのだ

 ことばが突然重くなる。説明になってしまう。「ぼくらの生活でいえば」が理屈っぽい。この一行はなくても「意味」は同じ--だけれど、この一行をこそ、柴田は書きたかったのだろう。
 ある情景がある。それを「ぼくらの生活」と関係づける。「自分」をそのなかに折り込む。「ぼくの」ではなく「ぼくらの」なのは、そこに「きみ」を引き込みたいからである。そして、「ぼくときみ」という「関係」を思い出したいからである。
 書き出しは抒情だが、こうなると、その抒情はセンチメンタルの押しつけになって、私は読みたくなくなる。「陰翳」や「光彩の変化」ということばは「意味」が強すぎて、少しも具体的に感じられない。「明るさなど」の「など」は弁解である。詩に「など」はいらない。具体的なもの以外はいらない。
 一連目の「一瞬の闇」は「一瞬」だから、読者を錯覚させる。それを見たような気持ちにさせる。その「一瞬」を、こんなに長々と引き延ばしてしまっては、すべてが「未練」になってしまう。
 抒情というより「演歌」。
 さらに、

その内部にそっと
青い鼓動を数えているのは
あの岩礁に打ち寄せる波の響きだ

 一生懸命なのはわかるが、わかるのはその「一生懸命」だけであって、ここまで書かれると誰も「情景」を思い浮かべなくだろう。

どこにも僕らの生きる意味を繋留する
まぶしいブイなどありはしないのに

 またしても「など」が登場するが、「僕らの生きる意味」なんて自己陶酔が激しすぎる。

半島がかすかに
秋の光をかんじさせる海風につつまれはじめている
きみは彼方の波濤へ向かって
遠く去っていく鳥たちを見送るまなざしで
何かを叫んでいるのだけれども
ぼくにそれが聞きとれない                     (「秋」)

 「遠く去っていく鳥たちを見送るまなざしで」と書きたい気持ちがわからないではないが、次の行の「叫ぶ」が弱くなる。「何かを叫んでいるのだけれども/ぼくにそれが聞きとれない」という聴覚の「矛盾」のなかに詩があるのだから、その結びつきをじゃまする視覚につながることばは削ってしまえばいいのだと思う。
 柴田は視覚と聴覚を融合させ(さらに、叫ぶ、声を出すという肉体の動きを融合させ)、そこに人間の形を浮き彫りにしようとしているのかもしれないが、そうであるなら「まなざし」が「見える」ように、「叫び」も「見える」という動詞のなかに統一しないと融合にはならない。「まなざし」よりも「口の形」の方がはっきり見えるはずである。「まなざし」の動きは瞬間的で小さいが、ひとが叫ぶときの「口の形」は持続的で、かつ大きい。「音」が聞こえなくても「口の形」が見えれば「声」は聞こえる。
 ある瞬間を取り出して、「意味」をつけくわえるのでは、「意味」が「おしつけ」になる。「意味」ではなく、もっと「肉体」の動きを具体的に描き、読者の「肉体」を誘い込まないとおもしろくない。「意味」は読者にまかせてしまえば、軽く、鮮やかに、そして強くなるだろうなあ。
 柴田は「意味」を明確にしたいのかもしれないが、「意味」は読者の方に充分あまっている。読者は「意味」を捨てたくて詩を読むのだ。
 「意味」を捨てるためには、たとえば「短歌」のような「形式」をことばに押しつけて、ことば数を減らす、ことばを捨てるふうにすればおもしろくなるのかもしれない。

詩集 海辺のまちの小さなカンタータ
柴田康弘
書肆侃侃房

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