穂村弘「葡萄の種と梅干の種」、東直子「詩と短歌」(「短歌と詩、その相似と相違について」日本現代詩人会ゼミナールin福岡、2015年03月21日)
2015年03月21日、日本現代詩人会ゼミナールin福岡「短歌と詩、その相似と相違について」があった。穂村弘、東直子、北川朱実、私の4人(司会・田島安江)の座談形式で「短歌と詩、その相似と相違について」語った。その座談とは別に、それぞれの考えの「要旨」の冊子がある。座談のなかでもそれは再現されたのだけれど、その「要旨」の方をもとにして、そのとき感じたこと(うまく語れなかったこと)を書いておきたい。
穂村弘「葡萄の種と梅干の種」は葡萄の種、梅干の種ということばを含んだ短歌を例にひきながら、短歌の世界では「ほとんど全ての語彙に関してイメージの細かい共有があり、それを前提に互いの作品を読み合う」という「特性」がある。それに反して現代詩には、イメージの共有がない(あるいは、共有されているイメージがわかりにくい)ので読み方がわからないと感じる、と書いている。
イメージの共有について、短歌の引用と「改悪例」を示しながら語った。
二つの歌には「葡萄の種」に関するイメージの共有がある。二つの歌は、ともに「青春性」を表現している。
さらに「梅干の種」を含むいい短歌と「改悪例」を比較している。
ここでは「感覚の共有」という表現がつかわれているが、「イメージの共有」と類似の表現と、私は理解した。
そして思ったのは、ここに書かれている「葡萄の種」「梅干の種」の例は、たぶん現代詩でも同じように言われるだろうと思う。「青春の抒情」や「日常の愛(庶民的な愛)」を美しく書くなら、穂村の書いている例は現代詩にもあてはまる。ただし、現代詩の場合は、あえて「改悪例」のようなことばを書き、その動きを引き継いで次の行を展開し、世界を押し広げていくということがあるかもしれない。
それよりも、私が注目したのは、穂村が「イメージの共有」「感覚の共有」ということばをつかうときに、「葡萄の種」「梅干の種」という「名詞(もの)」を主語(主役)にして考えているが、ことばには「名詞」のほかに「動詞」がある。そのことが、もしかしたら穂村の意識から欠けているかもしれない、と感じた。
種と結びつく「動詞」には「吐く/吐き出す」のほかに「かみくだく」「なめる」「まく」「ころがす」「数える」など、いろいろある。そして、その「動詞」は「名詞」が変わればそれにつられて変わることがある。「動詞」を固定したまま「名詞」だけを入れ換えて「イメージのズレ」を指摘しても、それは「ズレ」を語ったことにならないのではないだろうか。
たとえば、
届かないものはどうして美しい君がぶどうの種なめている
届かないものはどうして美しい君がぶどうの種蒔いている
届かないものはどうして美しい君がぶどうの種噛み砕きおる
届かないものはどうして美しい君がぶどうの種数えている
こんな「改悪例」は、どうなるのだろう。「イメージ」「感覚」というのは「もの/対象」だけの問題ではなく「対象」とかかわる「肉体」の記憶と関係していると思う。「動詞」にも「共通感覚(共有される感覚)というものがあるのではないだろうか。
私はあらゆることばの「理解」の基本は「肉体」にあると思う。自分の肉体で受け入れることができるかどうか(することができるかどうか)を基本にして世界を把握しているように考えている。
だから、「動詞」にふれないまま、「イメージの共有」と言われても、何か、はぐらかされた気持ちになる。ことば全体を「肉体の運動」ととらえると、どうなるのだろう。
それは、たとえば
という表現に隠れている問題でもある。ここには「数える」ということばは書かれていないが、「一粒に一粒」という部分に「数える」が隠れている。意識は、その「隠れた動詞」を通過している。その「通過」がはやすぎるために「数える」という「動作」がなかったかのようにみせかけている。
ことばを鑑賞するときに、こういう「無意識の動詞」を、どこまで掘り下げるか。どこまで「共有」と呼ぶか。
これは、うーん、むずかしい。
*
東直子「詩と短歌」では、次の部分に考えさせられた。中家菜津子の短歌と「扉」という詩を引用して書いている。(短歌は省略する。)
この詩について、東は書く。
「討議」にまでは至らなかったのだが、私は最初の二行は美しいと思った。扉は閉じたり開いたりする。これは「肉体」を通して(肉体を動かして)私たちが知っていること。その「開く/閉じる」の「動詞」を共有しているものに「瞼」がある。扉から瞼への移行には「動詞(肉体)」がきちんと動いている。だから、わかりやすい。
ところが3行目以降は、この「動詞」の連絡がつかみにくい。人は大事なことは何度も言いなおすものである。「扉は順接の接続詞」では「肉体」に「意味」が伝わらない。だから、それを「開く/閉じる」「瞼」という具合に語り直すのだが、3行目から、かなり無理がある。
「開く/閉じる」その繰り返しを「縮絨(する)」という動詞が引き継ぎ(「縮絨」は繰り返しの作業)、「玉結び」の「結ぶ」(これは、「閉じる」に通じる)へとつながり、そのあとに出て来る「降り(降る)」は「縮絨」でつかう液体(水)を呼び寄せながら、「水に浸った」の「浸る」へと動いていく。
これに「求めず」「匂い(匂う)」という、どうつながるのかわからない「動詞」が紛れ込んでいる。ここに書かれている「動詞」を「肉体」をくぐりぬけさせ、味わうことは、複雑すぎて私にはできない。「肉体」がばらばらにされる。無理矢理できないことをさせられる。そして、その無理矢理は、たとえば百メートルを9秒台で走るひとの「肉体」を見たときのように美しく感じられない。
東は「脳のなかに情報を」と書いているが、私は、これは「頭」で書いただけのことばと思ってしまう。
谷川俊太郎の「短歌」作品も取り上げられている。そのなかから2首。
「建物」の歌は、穂村が「建物は実にかすかにゆれている/そのことだけに気がついている」という二行になる。引用しなかったほかの短歌も同じ。ただし、「枝々も」の歌は「盛り上がっていく」感じが短歌になっている、というようなことを語った。
「枝々も」の歌に対する「評価(?)」が高い印象だったが、私は、ちょっと違うことを考えた。
その歌を印象づけているのは途中に「時の白紙」という抽象的なことば(ただし、中家の詩にあったような辞書をひかないとわからないような難解なことばではない)をはさみ「刷る」というだれでもつかう(つかったことのある)「動詞」をくぐりぬけて、「刷る」という「動詞」と結びつきの強い「版画」ですっきり押さえているからだ。「動詞」がしっかりと「肉体」に食い込んできて、その「肉体感覚」が前半の名詞を「ひとつ」にする。ひとつながりにするからだ。
でも、現代詩の読者として言うなら、これは「ずるい」。レトリックになりすぎていて、「発見」という感じがしない。「刷る」という動詞が出てくるが、頭でことばを動かしている。
私は、「建物」の歌の方が好きである。
「揺れている」「気がついている」と「二つ」の動詞がある。ふたつあるのだけれど、あとの方の「気づいている」の「主語」は何だろう。「建物」か、それとも「私」か。みんなは気づいていないが作者の谷川(私)だけが気づいている、か。
私は「建物」が「気づいている」と読む。穂村は「二行」に分割できると言ったが、そうではなく、「建物は揺れ」「建物は気づく」と「建物」という「主語」で統一されて「分割不能」の「世界」になる。「建物は気づいている」と書くその「建物」のなかに「私」がのみこまれ、「私」が「建物」になる。どちらかというと、「俳句」の世界である。この不思議な接続の形が、私には「短歌」というよりも「和歌(古典)」の感じで迫ってくる。
分割不能、と言えば……。
この短歌がおもしろい。私は「届かないものはどうして美しい(のだろう、と思う)/(美しい)君がぶどうの種吐いている」と言う具合に、「美しい」を往復させて読んでしまう。そのとき最初の「美しいのだろう」と「思う」の「主語/私」と、「美しい/君」がかたく結びつく。「美しい」と思う「私」が「君」を「美しく」する。「思う」と「する」が合体する。
「美しい」は「形容詞」であって「動詞」ではないが、「用言」とくくれば、やはり「動き」に関係している。
私は詩も短歌も俳句も小説も、まったく区別せずに「ことば」として読む。そこに書かれていることばが、どんなふうにして自分の「肉体」の可能性を開いてくれるかについて考える。そのとき、「動詞」が手がかりになる。
「動詞」をどんなふうにして他者と共有できるか、そういうことを短歌を書いている人と話してみたかったが、そう思ったころには時間がなかった。それで、こんな文章を書いた。
2015年03月21日、日本現代詩人会ゼミナールin福岡「短歌と詩、その相似と相違について」があった。穂村弘、東直子、北川朱実、私の4人(司会・田島安江)の座談形式で「短歌と詩、その相似と相違について」語った。その座談とは別に、それぞれの考えの「要旨」の冊子がある。座談のなかでもそれは再現されたのだけれど、その「要旨」の方をもとにして、そのとき感じたこと(うまく語れなかったこと)を書いておきたい。
穂村弘「葡萄の種と梅干の種」は葡萄の種、梅干の種ということばを含んだ短歌を例にひきながら、短歌の世界では「ほとんど全ての語彙に関してイメージの細かい共有があり、それを前提に互いの作品を読み合う」という「特性」がある。それに反して現代詩には、イメージの共有がない(あるいは、共有されているイメージがわかりにくい)ので読み方がわからないと感じる、と書いている。
イメージの共有について、短歌の引用と「改悪例」を示しながら語った。
だしぬけに葡萄の種を吐き出せば葡萄の影が遅れる 木下龍也
届かないものはどうして美しい君がぶどうの種吐いている 服部真里子
二つの歌には「葡萄の種」に関するイメージの共有がある。二つの歌は、ともに「青春性」を表現している。
もしも、これが次のようだったら、どうだろう。
届かないものはどうして美しい君がうめぼしの種吐いている 改悪例
どうも合わない。「届かないものはどうして美しい」を支えるには、やはり「ぶどうの種」がいいようだ。
さらに「梅干の種」を含むいい短歌と「改悪例」を比較している。
茶碗の底に梅干の種二つ並びおるああこれが愛というものだ 山崎方代
茶碗の底に葡萄の種二つ並びおるああこれが愛というものだ 改悪例
これでは駄目だ。イメージのズレもさることながら、「梅干」と違って「葡萄」の「種」は一粒に一つとは限らないところが「愛」を支える上でマイナスになる。
ことばで書くと長いのだが、以上のような感覚が短歌の世界では共有されていると思う。つまり、二つの「改悪例」のような作品は決して作られない。そのことは見方によっては短歌というジャンルの限界を示しているとも云える。
ここでは「感覚の共有」という表現がつかわれているが、「イメージの共有」と類似の表現と、私は理解した。
そして思ったのは、ここに書かれている「葡萄の種」「梅干の種」の例は、たぶん現代詩でも同じように言われるだろうと思う。「青春の抒情」や「日常の愛(庶民的な愛)」を美しく書くなら、穂村の書いている例は現代詩にもあてはまる。ただし、現代詩の場合は、あえて「改悪例」のようなことばを書き、その動きを引き継いで次の行を展開し、世界を押し広げていくということがあるかもしれない。
それよりも、私が注目したのは、穂村が「イメージの共有」「感覚の共有」ということばをつかうときに、「葡萄の種」「梅干の種」という「名詞(もの)」を主語(主役)にして考えているが、ことばには「名詞」のほかに「動詞」がある。そのことが、もしかしたら穂村の意識から欠けているかもしれない、と感じた。
種と結びつく「動詞」には「吐く/吐き出す」のほかに「かみくだく」「なめる」「まく」「ころがす」「数える」など、いろいろある。そして、その「動詞」は「名詞」が変わればそれにつられて変わることがある。「動詞」を固定したまま「名詞」だけを入れ換えて「イメージのズレ」を指摘しても、それは「ズレ」を語ったことにならないのではないだろうか。
たとえば、
届かないものはどうして美しい君がぶどうの種なめている
届かないものはどうして美しい君がぶどうの種蒔いている
届かないものはどうして美しい君がぶどうの種噛み砕きおる
届かないものはどうして美しい君がぶどうの種数えている
こんな「改悪例」は、どうなるのだろう。「イメージ」「感覚」というのは「もの/対象」だけの問題ではなく「対象」とかかわる「肉体」の記憶と関係していると思う。「動詞」にも「共通感覚(共有される感覚)というものがあるのではないだろうか。
私はあらゆることばの「理解」の基本は「肉体」にあると思う。自分の肉体で受け入れることができるかどうか(することができるかどうか)を基本にして世界を把握しているように考えている。
だから、「動詞」にふれないまま、「イメージの共有」と言われても、何か、はぐらかされた気持ちになる。ことば全体を「肉体の運動」ととらえると、どうなるのだろう。
それは、たとえば
「梅干」と違って「葡萄」の「種」は一粒に一つとは限らない
という表現に隠れている問題でもある。ここには「数える」ということばは書かれていないが、「一粒に一粒」という部分に「数える」が隠れている。意識は、その「隠れた動詞」を通過している。その「通過」がはやすぎるために「数える」という「動作」がなかったかのようにみせかけている。
ことばを鑑賞するときに、こういう「無意識の動詞」を、どこまで掘り下げるか。どこまで「共有」と呼ぶか。
これは、うーん、むずかしい。
*
東直子「詩と短歌」では、次の部分に考えさせられた。中家菜津子の短歌と「扉」という詩を引用して書いている。(短歌は省略する。)
扉は順接の接続詞
開くために閉じている瞼の最果てを
距離も時間も求めずに縮絨させたフェルトの夜
鍵穴からはマルメロの匂いが玉結びで降りつづけ
踵までが水に浸った
この詩について、東は書く。
少し観念的で、脳の中の情報を一度ぎゅっと詰め込んだあと解答するように、理解に時間差が生じる。他の人はどのように受け止めるか、討議してみたい。
「討議」にまでは至らなかったのだが、私は最初の二行は美しいと思った。扉は閉じたり開いたりする。これは「肉体」を通して(肉体を動かして)私たちが知っていること。その「開く/閉じる」の「動詞」を共有しているものに「瞼」がある。扉から瞼への移行には「動詞(肉体)」がきちんと動いている。だから、わかりやすい。
ところが3行目以降は、この「動詞」の連絡がつかみにくい。人は大事なことは何度も言いなおすものである。「扉は順接の接続詞」では「肉体」に「意味」が伝わらない。だから、それを「開く/閉じる」「瞼」という具合に語り直すのだが、3行目から、かなり無理がある。
「開く/閉じる」その繰り返しを「縮絨(する)」という動詞が引き継ぎ(「縮絨」は繰り返しの作業)、「玉結び」の「結ぶ」(これは、「閉じる」に通じる)へとつながり、そのあとに出て来る「降り(降る)」は「縮絨」でつかう液体(水)を呼び寄せながら、「水に浸った」の「浸る」へと動いていく。
これに「求めず」「匂い(匂う)」という、どうつながるのかわからない「動詞」が紛れ込んでいる。ここに書かれている「動詞」を「肉体」をくぐりぬけさせ、味わうことは、複雑すぎて私にはできない。「肉体」がばらばらにされる。無理矢理できないことをさせられる。そして、その無理矢理は、たとえば百メートルを9秒台で走るひとの「肉体」を見たときのように美しく感じられない。
東は「脳のなかに情報を」と書いているが、私は、これは「頭」で書いただけのことばと思ってしまう。
谷川俊太郎の「短歌」作品も取り上げられている。そのなかから2首。
建物は実にかすかに揺れているそのことだけに気がついている
枝々も雲も私もハイドンも時の白紙に刷られる版画
「建物」の歌は、穂村が「建物は実にかすかにゆれている/そのことだけに気がついている」という二行になる。引用しなかったほかの短歌も同じ。ただし、「枝々も」の歌は「盛り上がっていく」感じが短歌になっている、というようなことを語った。
「枝々も」の歌に対する「評価(?)」が高い印象だったが、私は、ちょっと違うことを考えた。
その歌を印象づけているのは途中に「時の白紙」という抽象的なことば(ただし、中家の詩にあったような辞書をひかないとわからないような難解なことばではない)をはさみ「刷る」というだれでもつかう(つかったことのある)「動詞」をくぐりぬけて、「刷る」という「動詞」と結びつきの強い「版画」ですっきり押さえているからだ。「動詞」がしっかりと「肉体」に食い込んできて、その「肉体感覚」が前半の名詞を「ひとつ」にする。ひとつながりにするからだ。
でも、現代詩の読者として言うなら、これは「ずるい」。レトリックになりすぎていて、「発見」という感じがしない。「刷る」という動詞が出てくるが、頭でことばを動かしている。
私は、「建物」の歌の方が好きである。
「揺れている」「気がついている」と「二つ」の動詞がある。ふたつあるのだけれど、あとの方の「気づいている」の「主語」は何だろう。「建物」か、それとも「私」か。みんなは気づいていないが作者の谷川(私)だけが気づいている、か。
私は「建物」が「気づいている」と読む。穂村は「二行」に分割できると言ったが、そうではなく、「建物は揺れ」「建物は気づく」と「建物」という「主語」で統一されて「分割不能」の「世界」になる。「建物は気づいている」と書くその「建物」のなかに「私」がのみこまれ、「私」が「建物」になる。どちらかというと、「俳句」の世界である。この不思議な接続の形が、私には「短歌」というよりも「和歌(古典)」の感じで迫ってくる。
分割不能、と言えば……。
届かないものはどうして美しい君がぶどうの種吐いている
この短歌がおもしろい。私は「届かないものはどうして美しい(のだろう、と思う)/(美しい)君がぶどうの種吐いている」と言う具合に、「美しい」を往復させて読んでしまう。そのとき最初の「美しいのだろう」と「思う」の「主語/私」と、「美しい/君」がかたく結びつく。「美しい」と思う「私」が「君」を「美しく」する。「思う」と「する」が合体する。
「美しい」は「形容詞」であって「動詞」ではないが、「用言」とくくれば、やはり「動き」に関係している。
私は詩も短歌も俳句も小説も、まったく区別せずに「ことば」として読む。そこに書かれていることばが、どんなふうにして自分の「肉体」の可能性を開いてくれるかについて考える。そのとき、「動詞」が手がかりになる。
「動詞」をどんなふうにして他者と共有できるか、そういうことを短歌を書いている人と話してみたかったが、そう思ったころには時間がなかった。それで、こんな文章を書いた。
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