詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

藤井貞和『よく聞きなさい、すぐにここを出るのです。』

2022-08-21 11:46:56 | 詩集

藤井貞和『よく聞きなさい、すぐにここを出るのです。』(思潮社、2022年07月31日発行)

 藤井貞和『よく聞きなさい、すぐにここを出るのです。』を読んで「残す」という動詞が印象に残った。私が気づいたのは「汚職」という詩を読んだときだ。読み直して、点検したわけではないので、不確かだが、それは他の詩にも出てくるかもしれない。ほかのことばで「同じ意味」をもっていることばが動いているかもしれない。詩集を貫く「ことば」として響いてくる。
 「汚職」では、「のこす」という表記で、こうつかわれている。

「汚職で、逮捕されるまえに」と、
父は言いのこし、『詩集』を一冊、
家族の元に書き置いて、

きょう、帰らない旅に出ると言って、
それきり、帰って来ません。

新聞にはだれもが悪く言い立てるけれども、
私には汚職が、父ののこしたしごとなら、
非難をしにくいのです。

 一連目にすでに「言いのこす」という形でつかわれているのだが、私は、それには気がつかなかった。(だからこそ、他の詩でも「残す」、あるいは、その意味のことばがつかわれているかもしれないと想像する。「書き置いて」の「置く」も「のこす」に通じるから。だが、確認はしない。そういうことをしていると、印象が違ってきてしまうから。)
 私が三連目で「のこす」という動詞に気づいたのは、それが「仕事」といっしょにつかわれ、さらに「非難をしにくい」と「非難」ということばといっしょにつかわれているからだ。
 「のこす」は「のこる」である。そして、「のこったもの」は「受け継がれる(残されたものが、受け継ぐ)」。もし非難の対象になれば、受け継がれることはないかもしれない。
 もちろん、非難しながら、受け継ぐということもある。
 だから、私が感じたのは、「のこす」のなかにある、何かしらの「接続/継承/つながり」を含んだ動きである。それは「のこす」がなければ、存在しない。「のこす」という「意思」を感じないときもあるかもしれないが、きっとこの世界にあるものは、だれかが「のこした」ものなのである。そうであるなら、それは、ときとして単に「受け継ぐ」のではなく、「見つけ出し、受け継ぐ、生きなおす」ということになるかもしれない。
 詩は、こうつづいていく。

詩を書くことが、汚れたしごとなら、
汚れた言葉を『詩集』にまとめることが、
この世から見捨てられる人の、
さいごの証しなら、

 「のこす」のは「さいごの証し」。それがないなら、人は完全に「見捨てられる。」消えるのか。ということを考えると、かなりめんどうになる。
 私は「のこす」が「まとめる」と言い直されていることに、なんとなく、こころを動かされた。「のこす」ためには、なんらかの作業が必要なのだ。あるものは、単純に「のこる」わけではない。「のこす」と「のこる」は違うのだ。

怒りで汚れたこころを、
ぼくだって、うたうだろうと思います。

汚い言葉で、書いたらまとめたくなる。
それが汚職なら、
あなたのこころに従いました。

 いいなあ。「のこす」を引き継ぐことを「こころに従う」と言い直している。「従う」がいい。「継承」は「受け継ぐ」のではなく、「従う」のだ。
 では、そのときの「こころ」とは?
 「文法の夢」という詩を、私は思い出す。最後の方に、こんな二行がある。

それでも係り結びは、結ぶことよりも大切な、
思いを託して文末を解き放つのです。

 「思い」が「こころ」だろう。「終わり」はない、ただ「係り結び」という「構造」がある。託された「思い」がある。書いた人(語った人)は「結末」を書かない、言わない。読んだ人、聞いた人が、その「解き放たれたまま」(見完結のままの)ことば受け止め、その運動に「従う」のである。
 「係り結び」は「結末」は書かれていないが、たいてい、「予測」されている。その「予測」に従うのである。
 えっ、でも、それで、どうなる?
 「予測」が正しいかどうかは、だれが判断する?
 そんなものは、だれも判断しない。
「物語りするバクーニン」の末尾に、こう書いてある。

そのあとはどうなるかだって?
古典なんか、なかったのです。
現代語だけがあったのです。

 「現代」だけがある、ということだ。「受け止め、従う」という運動があるだけ。そして、その「受け止め方、従い方」は、それぞれ自由だから、可能性としてどこまでも広がっていく。そういう運動があるだけだ。
 だから「汚い」を受け止め、従ったとしても、それは「美しい」にかわってしまうかもしれない。もっと汚くなるかどうかは、従ってみないと、わからない。
 で、思うのだ。
 「物語」ということばにふれて、私は唐突に思うのだ。
 「のこす」のは「物語(構造)」だろうか、「うた(歌/詩/音楽)」だろうか。「のこる」のは「物語」だろうか、「うた」だろうか。
 物語は詩の容器、散文は詩の容器だと思う。
 詩は物語の構造を破壊し、破片として、残る。それを集め、まとめるとき、また新しい物語が生まれる。あるいは、生まれてしまい、それに抵抗するようにして、内部から詩が爆発し、物語を壊してしまう。
 「係り結び」は完結しない。永遠に運動し続ける。でも、それは「物語」? それとも「詩」? どっちでもない。「係り結び」という運動なのだ。あえていえば「文法」。「法」とは共有された「生き方」だ。「のこす」のは「係り結び」という生き方、「のこる」のも「係り結び」という生き方。「法」を生きる。それが、読んで、書く、という行為ということになるのだと思う。

 


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