是永駿『宙の上』(書肆山田、2016年11月25日発行)
是永駿『宙の上』に「文学」を感じた。きのう読んだ高橋紀子『蛍火』(以心社)とは違う意味での「文学」である。高橋の作品は「ことば」と「ことば」の呼応が「文学」の伝統を踏まえている。「文学の肉体」を生きている。「ことば」「文学」は「日本語」「日本文学」ということ。「ことば」の背景に「日本」を感じる。ところが、是永の詩には「日本」を感じない。何かが違う。だが「キリン」を読み、突然、印象が変わった。「あ、文学だ」と納得した。そのことを書く。
「キリン」のなかに「異国」ということばと「ふるさと」ということばが出てくる。
「キリン」は是永の詩(ことば)、「比喩」。是永のことばにとって「日本語/日本文学」は「ふるさと」ではない。「異国」である。「日本文学」のなかにある「島影」(少しはなれたところにある存在)を「ふるさと」と「思う」ことで生きている。そういう感じがした。
それは、「ことば」がつくる「風景」という印象でもある。「風景/現実」があって、そこから「ことば」が生まれてくるというよりも、「ことば」が最初にあって、「ことば」が動くことで「風景」をつくりだしていく。
「動物園」がほんとうに是永の住んでいる「近く」にできたのかどうか、わからない。私は一行目は「架空/虚構」のことばだと思った。「キリン」ということばがあって、「キリン」が「動物園」を呼び寄せた。「近く」につくらせたと感じた。
は「キリン」が「放たれる」。では、誰が「放つ」のか。「動物園のひと」かもしれないが、私は是永だと感じた。
直前の
誰が「思う」の主語か。やはり「動物園のひと」か。是永はそのひとに聞いたのか。たぶん、想像だろう。想像だとしたら、その「思い」はすでに「動物園のひと」のものではなく是永自身のものである。
キリンが「島影」を「山巓」と思うのでもなければ、「動物園のひと」が「島影」を「山巓」と思うのでもない。是永が、そう思い、思うだけではなく、「思い」を「キリン」に託している。
「キリン」がすべての「ことば」を呼び寄せる。
この「海(白い船)」は「島影」、「山脈」は「山巓」と呼応している。この呼応は、私の感覚では「日本文学」の「肉体」ではない。もっと広い「空間」を感じる。「キリン」は「異国」を呼び寄せる。「キリン」自体が「異国」の存在だから当然なのかもしれないが、この呼吸は高橋の呼吸とはずいぶん違うと感じる。(きのう高橋の詩を読んだから、そう感じるだけかもしれないが。)
「哀しみの葉」。「意味」はわかる。「哀しんでいる」ということを「哀しみを食べている」という「比喩」であらわし、「哀しみ」を「葉」と言い換えることで「実体化」している。実際に葉があるわけではない。「金柑の葉」を食べているわけではない。「哀しみ」が「葉」を生み出し、それを食べている。書かれているのは「現実/事実」ではなく、「ことば」が呼び寄せた何かなのである。
「朱夏」という作品。
「月」ははじめから存在しているのではない。一連目の「光」と「闇」の呼応が「眼球」と「果実」を動かし、「月」として生み出されている。ことばが生み出した「光景」である。
「現実」から「ことば」を探しているのではなく、「ことば」から「現実」を探り当てている。「ことば」で「現実」の奥に入り込み、基底から「現実」をつくりなおしている、という感じがする。
詩集のタイトルとなっている「宙(そら)の上」は、この運動が過激である。
これは「地上の光景」。「明けて今朝は」というのは「時間の経過」をあらわしているというよりも、「時間」を動かして「今朝(きょう)」を生み出したもの。ハスの葉の上に蛙がいることは珍しくないから「現実」と思ってしまうが、蛙が「天女淫する宙の上」を「注視する」となると、「現実」ではない。
是永が「雨蛙」になって「ことば」を動かし、「光景」をつくりだしている。
「ことば」がつくりだす「光景」というのは「現実」にはしばられない。「ことば」の欲望が「現実」を生み出していく。「ことば」の欲望とは、ことばを書く是永の欲望であり、本能のことになる。
(宙の上では)という二連目の書き出しがとてもおもしろい。「地上(雨蛙)」から「宙の上」へと「世界」を転換するとき、わざわざ「宙の上では」と書いている。そう書かないと「宙の上」が生まれてこない。
ここに是永の「思想」がある。書かないと「現実」が生まれてこないということは、書けば「現実」が生まれるということ。是永は「ことば」によって「現実」を生み出す。
「踊っているうちに/体が火照ってくる」は「ことば」を書いているうちに「ことばが詩になる(熱くなる/火照る)」ということだろうか。それをときどき「あなた(読者)」に向かって投げかける。「ことば」を受け止めてほしい。その「ことば」はいままでの「耳」では聞き取れないかもしれない。だから「耳」ごとつけかえてあげる、と言っているように私には思える。
「読者」に「新しい耳」を「生み出す」。「耳をつけかえる」。それが「詩(ことば)」の仕事だ。天女は是永の自画像である。
私は詩集を一読して感想を書き始めたが、「耳をつけかえられた」のだとしたら、「新しい耳」で読み直さないといけないのかもしれない。「新しい耳」に是永のことばがどう響くか。それを書かないことには(この感想を書き直さないことには)、感想にならないのかもしれない。しかし、そうしてしまえばそれはそれで、いま書いたことばをすべて封印してしまうことになる。だから(?)、動いたままを、いましか書けないことを書いておく。
是永駿『宙の上』に「文学」を感じた。きのう読んだ高橋紀子『蛍火』(以心社)とは違う意味での「文学」である。高橋の作品は「ことば」と「ことば」の呼応が「文学」の伝統を踏まえている。「文学の肉体」を生きている。「ことば」「文学」は「日本語」「日本文学」ということ。「ことば」の背景に「日本」を感じる。ところが、是永の詩には「日本」を感じない。何かが違う。だが「キリン」を読み、突然、印象が変わった。「あ、文学だ」と納得した。そのことを書く。
「キリン」のなかに「異国」ということばと「ふるさと」ということばが出てくる。
近くに大きな動物園ができて
キリンが異国の島影を
遠いふるさとの山巓か何かに
思いなして
悠々と丘に放たれる
「キリン」は是永の詩(ことば)、「比喩」。是永のことばにとって「日本語/日本文学」は「ふるさと」ではない。「異国」である。「日本文学」のなかにある「島影」(少しはなれたところにある存在)を「ふるさと」と「思う」ことで生きている。そういう感じがした。
それは、「ことば」がつくる「風景」という印象でもある。「風景/現実」があって、そこから「ことば」が生まれてくるというよりも、「ことば」が最初にあって、「ことば」が動くことで「風景」をつくりだしていく。
「動物園」がほんとうに是永の住んでいる「近く」にできたのかどうか、わからない。私は一行目は「架空/虚構」のことばだと思った。「キリン」ということばがあって、「キリン」が「動物園」を呼び寄せた。「近く」につくらせたと感じた。
悠々と丘に放たれる
は「キリン」が「放たれる」。では、誰が「放つ」のか。「動物園のひと」かもしれないが、私は是永だと感じた。
直前の
思いなして
誰が「思う」の主語か。やはり「動物園のひと」か。是永はそのひとに聞いたのか。たぶん、想像だろう。想像だとしたら、その「思い」はすでに「動物園のひと」のものではなく是永自身のものである。
キリンが「島影」を「山巓」と思うのでもなければ、「動物園のひと」が「島影」を「山巓」と思うのでもない。是永が、そう思い、思うだけではなく、「思い」を「キリン」に託している。
「キリン」がすべての「ことば」を呼び寄せる。
海からの風が
目にしたばかりの白い船と
風を生んだ山脈について
語り聞かせる
この「海(白い船)」は「島影」、「山脈」は「山巓」と呼応している。この呼応は、私の感覚では「日本文学」の「肉体」ではない。もっと広い「空間」を感じる。「キリン」は「異国」を呼び寄せる。「キリン」自体が「異国」の存在だから当然なのかもしれないが、この呼吸は高橋の呼吸とはずいぶん違うと感じる。(きのう高橋の詩を読んだから、そう感じるだけかもしれないが。)
金柑の実をカリリといわせる頃には
冬の風が
キリンの耳を驚かせる
やがて
風の中の
サバンナの草の匂いが消え
囲われた柵が
廃墟のように立ちふさがる
そして
輝き始めた夏の日に
逃れようもない
氾濫する幻覚
遠い異国の地で
キリンは哀しみの葉を食べている
「哀しみの葉」。「意味」はわかる。「哀しんでいる」ということを「哀しみを食べている」という「比喩」であらわし、「哀しみ」を「葉」と言い換えることで「実体化」している。実際に葉があるわけではない。「金柑の葉」を食べているわけではない。「哀しみ」が「葉」を生み出し、それを食べている。書かれているのは「現実/事実」ではなく、「ことば」が呼び寄せた何かなのである。
「朱夏」という作品。
左の耳のうしろあたりに
光の穂が降りてきて
眼球が軽くなる
ほのめく闇の奥にひとつの果実
球体の月が夏の真昼の空に浮かぶ
「月」ははじめから存在しているのではない。一連目の「光」と「闇」の呼応が「眼球」と「果実」を動かし、「月」として生み出されている。ことばが生み出した「光景」である。
「現実」から「ことば」を探しているのではなく、「ことば」から「現実」を探り当てている。「ことば」で「現実」の奥に入り込み、基底から「現実」をつくりなおしている、という感じがする。
詩集のタイトルとなっている「宙(そら)の上」は、この運動が過激である。
昨日(きのう)から
このハスの葉を塒(ねぐら)に
雨蛙が一匹
明けて今朝は
息をひそめて
宙を仰いでいる
浮雲に何かあるかの如く
雨蛙が注視するのは
天女淫する宙の上
これは「地上の光景」。「明けて今朝は」というのは「時間の経過」をあらわしているというよりも、「時間」を動かして「今朝(きょう)」を生み出したもの。ハスの葉の上に蛙がいることは珍しくないから「現実」と思ってしまうが、蛙が「天女淫する宙の上」を「注視する」となると、「現実」ではない。
是永が「雨蛙」になって「ことば」を動かし、「光景」をつくりだしている。
「ことば」がつくりだす「光景」というのは「現実」にはしばられない。「ことば」の欲望が「現実」を生み出していく。「ことば」の欲望とは、ことばを書く是永の欲望であり、本能のことになる。
(宙の上では)
わたしがこうやって
踊りを踊ることなど
何でもありゃしない
いつまででも踊ってあげる
でも踊っているうちに
体が火照ってくるのを時々
冷やしてほしいの
いいでしょ
あなたの冷たい体で
あなたは動かなくていいの
わたしがぜんぶ
やってあげる
あの町ではあなたが
何もかもしてくれたわ
その恩返しよ
耳のつけかえなんて
わたし得意なんだから
(宙の上では)という二連目の書き出しがとてもおもしろい。「地上(雨蛙)」から「宙の上」へと「世界」を転換するとき、わざわざ「宙の上では」と書いている。そう書かないと「宙の上」が生まれてこない。
ここに是永の「思想」がある。書かないと「現実」が生まれてこないということは、書けば「現実」が生まれるということ。是永は「ことば」によって「現実」を生み出す。
「踊っているうちに/体が火照ってくる」は「ことば」を書いているうちに「ことばが詩になる(熱くなる/火照る)」ということだろうか。それをときどき「あなた(読者)」に向かって投げかける。「ことば」を受け止めてほしい。その「ことば」はいままでの「耳」では聞き取れないかもしれない。だから「耳」ごとつけかえてあげる、と言っているように私には思える。
「読者」に「新しい耳」を「生み出す」。「耳をつけかえる」。それが「詩(ことば)」の仕事だ。天女は是永の自画像である。
私は詩集を一読して感想を書き始めたが、「耳をつけかえられた」のだとしたら、「新しい耳」で読み直さないといけないのかもしれない。「新しい耳」に是永のことばがどう響くか。それを書かないことには(この感想を書き直さないことには)、感想にならないのかもしれない。しかし、そうしてしまえばそれはそれで、いま書いたことばをすべて封印してしまうことになる。だから(?)、動いたままを、いましか書けないことを書いておく。
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昔読んだ、高村光太郎の「駝鳥」の方が、格が上の気がする。
神様、いい子ができますように、と十字を切って、ベッド上で交わるだけで充分じゃないの?