嵯峨信之を読む(77)
124 ながれ
「はてのない悲哀」がどういうものか(何が原因か)は書かれていない。「はてのない」という修飾語が「悲哀」よりも重要なのだと思う。流れる水は「はてがない」。同じように「悲哀」も「はてがない」。「悲哀」へ押し流すというよりも「はてのない」感じをつねに呼び覚ます、というふうが近いだろう。
詩に限らないが、ことばは不思議で「主語」が事実(真実)を語るときもあれば、「述語」や「修飾語」の方が重要なものを語るときもある。ことばは相互に絡み合って動いている。その「絡み合い方」をあらわしたものが「文学」なのだろう。
悲哀へ押し流すのではなく、悲哀の「はてのなさ」を呼び覚ます--というのは、次の行の展開をみるとはっきりする。水は「押し流す」のではなく、「絡み付いてくる」。水の中に「ぼく」を引き止めようとする。
水の「手」はつねに「ほく」に触れ、「ぼく」をゆさぶる。水の「髪の毛」は「ぼく」に絡んでくる。押し流すのなら、揺さぶらずに突き放せばいい。無数の髪の毛を「わななく」ように絡ませずに、さっさと離せばいい。
水は「ぼく」を押し流したいのではない。また「ぼく」は押し流されたいのではない。「はてのなさ」のなかにとどまりたい。
だからこそ、詩はさらに「とどまる」という動詞へむけて動いていく。
「封じ込めるのか」「解いてくれ」といいながら「ぼく」はそれをいま存分に味わっている。悲哀のはてのなさを味わっている。青春にしかできない、その抒情の特権。
124 ながれ
ぼくをゆるしてくれ 水よ
流れる水はぼくをはてのない悲哀へおしながそうとする
「はてのない悲哀」がどういうものか(何が原因か)は書かれていない。「はてのない」という修飾語が「悲哀」よりも重要なのだと思う。流れる水は「はてがない」。同じように「悲哀」も「はてがない」。「悲哀」へ押し流すというよりも「はてのない」感じをつねに呼び覚ます、というふうが近いだろう。
詩に限らないが、ことばは不思議で「主語」が事実(真実)を語るときもあれば、「述語」や「修飾語」の方が重要なものを語るときもある。ことばは相互に絡み合って動いている。その「絡み合い方」をあらわしたものが「文学」なのだろう。
悲哀へ押し流すのではなく、悲哀の「はてのなさ」を呼び覚ます--というのは、次の行の展開をみるとはっきりする。水は「押し流す」のではなく、「絡み付いてくる」。水の中に「ぼく」を引き止めようとする。
水よ どうしてその手でなにもかもゆすぶるのか
たえまなくみずからの髪の毛さえも
わななく黒い河岸よ
水の「手」はつねに「ほく」に触れ、「ぼく」をゆさぶる。水の「髪の毛」は「ぼく」に絡んでくる。押し流すのなら、揺さぶらずに突き放せばいい。無数の髪の毛を「わななく」ように絡ませずに、さっさと離せばいい。
水は「ぼく」を押し流したいのではない。また「ぼく」は押し流されたいのではない。「はてのなさ」のなかにとどまりたい。
だからこそ、詩はさらに「とどまる」という動詞へむけて動いていく。
ひとところへとどまろうとする長いゆらめきよ
その中へなぜぼくを封じ込むのか
ぼくの頸のあたりにすがりつく長い水影を解いてくれ
水よ どこでぼくを受け止めるのか
「封じ込めるのか」「解いてくれ」といいながら「ぼく」はそれをいま存分に味わっている。悲哀のはてのなさを味わっている。青春にしかできない、その抒情の特権。