詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ルキノ・ヴィスコンティ監督「山猫」(★★★★)

2011-04-09 17:50:46 | 午前十時の映画祭
監督 ルキノ・ヴィスコンティ 出演 バート・ランカスター、アラン・ドロン、クラウディア・カルディナーレ

 美とは何か――破壊である、とルキノ・ヴィスコンティはいうかもしれない。ラストの舞踏会のシーンは何度見ても飽きないが、同じようにクラウディア・カルディナーレが最初にあらわれるシーンがおもしろい。美人だが気品がない。食事のシーンに、それが露骨に出る。アラン・ドロンの話を聞くときに、肘をついてしまう。いまでこそ誰もがテーブルに肘をついて食べるが、貴族はきっと肘などつかない。(庶民も、昔は肘をつくと行儀が悪いと言われた。)さらに話を聞きながら唇をかむ。挙句の果てに、アラン・ドロンの話に高笑いしてしまう。それは気品がないを通り越して、下品である。バート・ランカスターが気分を害して席を立ってしまうくらいである。しかしクラウディア・カルディナーレはそのことに気がつかない。
 ここに古い美と、それを破っていく若い力がある。ヴィスコンティはいつでも、古いものを破っていく若い力によりそう。古い美、彼がなじんできた美しいものに深い愛をそそぎながらも、それを壊していく力、新時代の方によりそう。
 バート・ランカスターがかわいがっているアラン・ドロン。その美。そこにはクラウディア・カルディナーレの演じる新興資産家(成金)の娘に通じる品の欠如がある。反政府軍(赤シャツ)の活動をしていたはずなのに、いつのまにか政府軍(青服)にかわっている。節操(?)がないのである。節操がないかわりに生きていく力がある。ヴィスコンティはそれによりそう。
 若い官能によりそう、と言い換えてもいいかもしれない。「美形」にひかれるというのは、自分の美が壊されてもいいと思い、よりそうこと、その美のために自分がどうなってもいい決意する死の喜びでもある。自分の持たないものを受け入れる、そして自分が自分でなくなる――そこにヴィスコンティの死をかけた官能のよろこびがある。
 この対立する美が一瞬、調和する。それが最後の舞踏会のシーン。クラウディア・カルディナーレが社交界にデビューするシーン。贅をつくしたパーティー。そこでバート・ランカスターとクラウディア・カルディナーレがワルツを踊る。それまで大勢でダンスをしていたのだが、このときだけは踊るのは2人。他のひとは見事なダンスに見とれている。ダンスというのは基本的に男がリードする。ここではバート・ランカスターがクラウディア・カルディナーレをリードするのだが、それがそのまま古い美の形式が若い命の力をリードして、その美の形式を完成させる、という形をとる。そのときのクラウディア・カルディナーレの輝きはアラン・ドロンを嫉妬させるくらいである。
 アラン・ドロンがバート・ランカスターに嫉妬するのではなく、クラウディア・カルディナーレに嫉妬する。これはヴィスコンティの嗜好(性癖)を考慮するなら、ホモセクシュアルの匂いもしてくるのだが、それも完成された美にリードされて未熟な美が完成されていくことに対する嫉妬のなかに組み込まれていく。アラン・ドロンはバート・ランカスターにリードされて完成された人間になりたいのだ。これは全編を通じた2人の関係でもある。そしてまた、ヴィスコンティと若い俳優(特に男優)との関係でもある。ヴィスコンティには若い男優を彼の手で美の形式として完成させたいという欲望がある。
 最後の最後、若い命の力に席を譲って、ひっそりと路地の闇にきえていくバート・ランカスター――これは、ヴィスコンティの「理想の自画像」なのだと思った。

*

 バート・ランカスターはこの当時まだ若いはずだが、重厚な雰囲気と野蛮さがとけあっていてとてもおもしろい。野蛮さが肉体の奥にあるから、アラン・ドロン、クラウディア・カルディナーレの生々しい欲望が招きあって、3人の行動がからみあい、昇華していくのかもしれない。「家族の肖像」をもう一度見たくなる映画である。
(「午前10時の映画祭」青シリーズ10本目、天神東宝3、04月09日)



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