工藤直子「水たまりの中は違う世界」(「密造者」71、2007年10月20日発行)
何気ない感じの作品だが、最終連がとてもいい。最終連だけ取り上げてもそのいい感じが伝わらないだろうと思う。全行引用する。
たとえ地上にいたとしても「夕焼け」には届かない。けれども水たまりにいればなおさら届くはずがない。それだけのことなのだけれど、この奇妙に論理的なことばの動きが論理を超えて悲しみのようにして響いてくる。
この自然な悲しみがどこからやってくるのか、私には、よくわからない。うまく説明できない。他人に対して、というのではなく、私自身に対して、うまく説明できない。なぜ、それを悲しみと感じたのか、自分自身を納得させることばが見つからない。(工藤の詩を読んだことがあるかどうか、私には記憶がない。たぶんはじめてだろうと思う。そういうことが影響しているのかもしれない。)しかし、この悲しみがとても気に入った。水たまりの底から夕焼けを見てみたい気持ちになった。
何度か読み返した。そして、気づいた。
(実は私はこんなふうにして、読みながら書いている。何か書きたいことがはっきりしてから、つまり結論にあわせて、ではなく、思いつくままに、気づくままにいつも感想を書いている。)
1連目の終わりの2行。
ここに出てくる「長靴」がとてもいいのだ。とても自然なのだ。なつかしいのだ。
「長靴」というものを私は知っている。しかし、いまは持っていない。もう長い間履いたことがない。履いたことがないけれど、それがとても日常的なものであることを知っている。感じている。なにか、そういうもの、知っているけれど、いまはもうつかわれることの少なくなったものを大切にことばにする精神がある。工藤のことばは架空へとは動いて行かないのだ。
水たまりの底へおぼれる(その深い底へ落ち込む)ということは現実にはありえない。(深かったら、もうそれは「水たまり」とは呼ばないだろう。)それにもかかわらず、そこに書いてあることがとても自然なこととして伝わってくるのは、その出発点に、たしかに存在するものがあるからだ。この詩では、たとえば「長靴」。
工藤はことばを空想というか、ことばでしか描けないものの方へ動かしてゆくが、そのときもきちんと「現実」を踏まえている。存在するものを明確にし、その存在を利用して動いていく。この、現実の存在を踏まえて精神が、ことばでしかたどりつけないものの方へ動いていくとき、そこにとても静かな悲しみが生まれるのだ。
それは、私たちはいつでもことばで何かを夢見ている。ことばで、現実をねじ曲げ(ゆがめ)、そうすることで想像力を育てているという悲しみにどこかで触れるのだ。
想像力とは寂しい力だ。哀しい力だ。
私はふと、「さびしい、ゆえに我あり」と書いた西脇を思い出してしまう。
工藤の書いている世界は西脇とは違う。けれども、その奥に流れている悲しみはどこかで西脇と通じている。たぶん、ユーモアも。
同じ号に載っている「待合室」もすてきな作品である。
*
若狭麻都佳「DOOM」は工藤の作品の対極にある。
若狭は現実を出発点とはしない。ことばからはじまり、ことばからはじめることでしかたどりつけない現実に触れようとしている。それはよくわかるが(というのも、そういう方法は「現代詩」に多く見られる定型的なことばの運動だからである)、2行目の「哀しい」、7行目の「傷み」は、詩の「現代詩」のことばとはなり得ないだろうと思う。あまりにも古い。
工藤の書いている「長靴」はすでに履いているひとも少ないけれど、いつまでたっても古びないことばである。一方、若狭のつかっている「哀しい」「傷み」はいまも存在するけれど、存在するがゆえに、古い。
何が「古びない」と「古い」の差になるか。現実である。日常である。現実を出発点とするかぎり、ことばはいつでも新鮮である。
工藤の手法は新しくはない。新しくはないが、そこには新しくないものだけが持つ、不思議な力がある。そう思った。
*
同じ著者かどうかわからないけれど、工藤直子で検索すると次の本が出てくる。
(いいかげんな紹介でごめんなさい。)
何気ない感じの作品だが、最終連がとてもいい。最終連だけ取り上げてもそのいい感じが伝わらないだろうと思う。全行引用する。
水たまりに
青い空がうつっている
じっと 見ていると
底がとってもとても深そうで
長靴でも入っていけない
そうっと手を入れてみる
その瞬間
す--と引きずり込まれていた
中から見上げると
子供たちがひょういひょいと
飛んでいく
アメーバーがすいすい泳いで
とんぼが低空飛行して
カエルがピョンピョン飛んでいる
誰かが水たまりを蹴っていった
ゆらゆら揺れて何も見えない
夕焼けが空を染めていく
手を伸ばしても届かない
やっぱりふかーい所だった
たとえ地上にいたとしても「夕焼け」には届かない。けれども水たまりにいればなおさら届くはずがない。それだけのことなのだけれど、この奇妙に論理的なことばの動きが論理を超えて悲しみのようにして響いてくる。
この自然な悲しみがどこからやってくるのか、私には、よくわからない。うまく説明できない。他人に対して、というのではなく、私自身に対して、うまく説明できない。なぜ、それを悲しみと感じたのか、自分自身を納得させることばが見つからない。(工藤の詩を読んだことがあるかどうか、私には記憶がない。たぶんはじめてだろうと思う。そういうことが影響しているのかもしれない。)しかし、この悲しみがとても気に入った。水たまりの底から夕焼けを見てみたい気持ちになった。
何度か読み返した。そして、気づいた。
(実は私はこんなふうにして、読みながら書いている。何か書きたいことがはっきりしてから、つまり結論にあわせて、ではなく、思いつくままに、気づくままにいつも感想を書いている。)
1連目の終わりの2行。
底がとってもとても深そうで
長靴でも入っていけない
ここに出てくる「長靴」がとてもいいのだ。とても自然なのだ。なつかしいのだ。
「長靴」というものを私は知っている。しかし、いまは持っていない。もう長い間履いたことがない。履いたことがないけれど、それがとても日常的なものであることを知っている。感じている。なにか、そういうもの、知っているけれど、いまはもうつかわれることの少なくなったものを大切にことばにする精神がある。工藤のことばは架空へとは動いて行かないのだ。
水たまりの底へおぼれる(その深い底へ落ち込む)ということは現実にはありえない。(深かったら、もうそれは「水たまり」とは呼ばないだろう。)それにもかかわらず、そこに書いてあることがとても自然なこととして伝わってくるのは、その出発点に、たしかに存在するものがあるからだ。この詩では、たとえば「長靴」。
工藤はことばを空想というか、ことばでしか描けないものの方へ動かしてゆくが、そのときもきちんと「現実」を踏まえている。存在するものを明確にし、その存在を利用して動いていく。この、現実の存在を踏まえて精神が、ことばでしかたどりつけないものの方へ動いていくとき、そこにとても静かな悲しみが生まれるのだ。
それは、私たちはいつでもことばで何かを夢見ている。ことばで、現実をねじ曲げ(ゆがめ)、そうすることで想像力を育てているという悲しみにどこかで触れるのだ。
想像力とは寂しい力だ。哀しい力だ。
私はふと、「さびしい、ゆえに我あり」と書いた西脇を思い出してしまう。
工藤の書いている世界は西脇とは違う。けれども、その奥に流れている悲しみはどこかで西脇と通じている。たぶん、ユーモアも。
同じ号に載っている「待合室」もすてきな作品である。
*
若狭麻都佳「DOOM」は工藤の作品の対極にある。
背中に
哀しい きみの目を
刺青して
いまは
既に
失くしてしまった
傷(いた)みで
充たされていたい
若狭は現実を出発点とはしない。ことばからはじまり、ことばからはじめることでしかたどりつけない現実に触れようとしている。それはよくわかるが(というのも、そういう方法は「現代詩」に多く見られる定型的なことばの運動だからである)、2行目の「哀しい」、7行目の「傷み」は、詩の「現代詩」のことばとはなり得ないだろうと思う。あまりにも古い。
工藤の書いている「長靴」はすでに履いているひとも少ないけれど、いつまでたっても古びないことばである。一方、若狭のつかっている「哀しい」「傷み」はいまも存在するけれど、存在するがゆえに、古い。
何が「古びない」と「古い」の差になるか。現実である。日常である。現実を出発点とするかぎり、ことばはいつでも新鮮である。
工藤の手法は新しくはない。新しくはないが、そこには新しくないものだけが持つ、不思議な力がある。そう思った。
*
同じ著者かどうかわからないけれど、工藤直子で検索すると次の本が出てくる。
(いいかげんな紹介でごめんなさい。)
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