万亀佳子『夜の中の家族』(花神社、2010年08月31日発行)
万亀佳子『夜の中の家族』は、最初は何が書いてあるのかわからなかった。「だんご虫」の書き出し。
「家族」と、その「家族」がこわれた状態の「ダンボールハウスの男」。そういうものに万亀の視線が動いていることはわかる。
「石かぼちゃ」。
ここにも家族が出てくる。その家族は、けれど孤立している。「遮断機」が家の中にあって家族を孤立させている。
なんだか、つらい「家族」の物語がはじまりそうな予感のする詩集である。そのつらい「家族」の「自分史」のようなものが、この詩集のテーマだろうか。そう思いながら読み進めた。
そして、「海田駅」という詩に出会う。
この最後の連で、あ、こういうことが万亀は書きたいのだと思った。桜は「戦争」をたくさん見てきている。だから、美しい。個人の力ではどうしようもない何か、それに動かされている人々--その暮らし。その悲しみ。それをたくさん見てきている。だから、美しい。「戦争」は事実であり、また事実を超えた永遠でもある。象徴である。
万亀も、そういうものをたくさん見てきた。そういう時間を生きてきた。そして、そうした「時間」をくぐりぬけてきた「ことば」を書く。「ことば」のなかに「花」を開かせようとしている。
そして、それは「家族」ではなく、「他人」を描くとき、美しく開くように、私には思える。
「セールスマン」。
たかしに、たくさん見てきたから見えるものがある。商品よりも自分をまず「売る」ことをしなければならない人がいる。そういう暮らしが(仕事が)ある。人は「もの」を買うと、「もの」を売った人を忘れることがある。忘れられても、その人は生きている。
あらゆる人は、あるとき、忘れられる。無理して忘れるときもある。けれども、その人は生きている。そして、その生きているなかには、桜と同じように美しいものがあるはずなのだ。たとえば、はじめての名刺を示しながら赤らめる頬のようなものが。
私には、万亀のそれをうまくすくい上げることはできないが、万亀はたしかにそういうものを書こうとしている。ことばにしようとしている。そのことを「海田駅」と「セールスマン」から感じた。
「ここ」という詩にも、強くこころを動かされた。
「生まれ変わって」とはときどきつかうことばである。「死に変わって」ということばは私ははじめて知った。生まれること、死ぬこと、坐ること、歩くことが万亀のなかでは同じなのである。それは人間は生まれて、死ぬのが当然のことであり、それは時間のなか引き継がれ永遠になるということでもある。その永遠が見えるのは、「いっぱい見てきた」人間だけということになる。
万亀は、いっぱい見る。そして、そのことばは「きれい」になる。いや、そういうことばをとおして、万亀は見てきたものを、たとえば家族を「きれい」にするのである。苦しみも、悲しみも超越して、そこに「きれい」を発見し、育てるのである。そのために詩を書くのである。
万亀佳子『夜の中の家族』は、最初は何が書いてあるのかわからなかった。「だんご虫」の書き出し。
この上にひとつの家族がいる
丸く丸くなって転がっている小さな虫ほどの
小春日和の公園
ダンボールハウスの男が
拾い集めた古紙の中から抜き出した雑誌を
読んでいる
ハイチで地球のかさぶたが少し剥げた
「家族」と、その「家族」がこわれた状態の「ダンボールハウスの男」。そういうものに万亀の視線が動いていることはわかる。
「石かぼちゃ」。
踏み切りのそばに住んでいた
かんかん かんかん かんかん
いつも不機嫌な父とおどおどした母
言葉を覚えない妹がいて
家の中はいつも遮断機がおりていた
線路脇の空き地にかぼちゃを育てていた
かぼちゃのつるは夜の間に
枕木のあたりまで伸びていて
死にに行く父の足に巻きついて
ここにも家族が出てくる。その家族は、けれど孤立している。「遮断機」が家の中にあって家族を孤立させている。
なんだか、つらい「家族」の物語がはじまりそうな予感のする詩集である。そのつらい「家族」の「自分史」のようなものが、この詩集のテーマだろうか。そう思いながら読み進めた。
そして、「海田駅」という詩に出会う。
構内一番ホーム
一本の桜の木がある
煤けた駅舎をからかうように
五月の葉群を噴き上げている
ご存知ですか?
毎年テレビや新聞が取材に来て、この写真を撮っていくのを
春まだ浅いころに咲く寒桜です
ここで上り線は山陽本線と呉線に分かれる
山陽線が延びてきたのは一八……年、日清戦争の時
呉線が出来たのは一九……年、日露戦争の時
(略)
桜、きれいですよ
来年見に来てください
花はいっぱい戦争を見てきていますから
この最後の連で、あ、こういうことが万亀は書きたいのだと思った。桜は「戦争」をたくさん見てきている。だから、美しい。個人の力ではどうしようもない何か、それに動かされている人々--その暮らし。その悲しみ。それをたくさん見てきている。だから、美しい。「戦争」は事実であり、また事実を超えた永遠でもある。象徴である。
万亀も、そういうものをたくさん見てきた。そういう時間を生きてきた。そして、そうした「時間」をくぐりぬけてきた「ことば」を書く。「ことば」のなかに「花」を開かせようとしている。
そして、それは「家族」ではなく、「他人」を描くとき、美しく開くように、私には思える。
「セールスマン」。
たかはしのたかは梯子だかですと
●橋君が言った
刷りたての名刺を示して
頬が赤らんでいる
新人の●橋君は商品説明の代わりに
自分を営業して歩かなければいけない
売るもののいかがわしさより
説明しようのない自分に足がすくんでいる
(谷内注・●はいわゆる「高」の俗字の「梯子高」)
たかしに、たくさん見てきたから見えるものがある。商品よりも自分をまず「売る」ことをしなければならない人がいる。そういう暮らしが(仕事が)ある。人は「もの」を買うと、「もの」を売った人を忘れることがある。忘れられても、その人は生きている。
あらゆる人は、あるとき、忘れられる。無理して忘れるときもある。けれども、その人は生きている。そして、その生きているなかには、桜と同じように美しいものがあるはずなのだ。たとえば、はじめての名刺を示しながら赤らめる頬のようなものが。
私には、万亀のそれをうまくすくい上げることはできないが、万亀はたしかにそういうものを書こうとしている。ことばにしようとしている。そのことを「海田駅」と「セールスマン」から感じた。
「ここ」という詩にも、強くこころを動かされた。
まだ遠い先のこと
私は生まれ変わって
あなたと入れ代わって
ここに坐っている
(略)
まだ遠い先のこと
私は死に変わって
あなたと入れ代わって
ここを歩いている
「生まれ変わって」とはときどきつかうことばである。「死に変わって」ということばは私ははじめて知った。生まれること、死ぬこと、坐ること、歩くことが万亀のなかでは同じなのである。それは人間は生まれて、死ぬのが当然のことであり、それは時間のなか引き継がれ永遠になるということでもある。その永遠が見えるのは、「いっぱい見てきた」人間だけということになる。
万亀は、いっぱい見る。そして、そのことばは「きれい」になる。いや、そういうことばをとおして、万亀は見てきたものを、たとえば家族を「きれい」にするのである。苦しみも、悲しみも超越して、そこに「きれい」を発見し、育てるのである。そのために詩を書くのである。