岩佐なを「仕事」(「孔雀船」90、2017年07月15日発行)
岩佐なを。また、気持ち悪い詩に戻った。「仕事」。
公園へ行って、木に触る。そこから何かをつかみとる。そういうことを書いているのだと思うが。
なんだろうなあ。
書かれている「こと」そのものが気持ち悪いわけではない。木から「鋭気」をもらう、というのは岩佐以外の人もするかもしれない。
「触覚で覚え(る)」というのは、「肉体」にグイと迫ってきて、あ、ここが核心だなあと思うのだが、どうも気持ちが悪い。
「意味」ではなく、たぶん、リズムだな。
この「その」が特徴的だ。この「その」はなくても「意味」は通じるが、岩佐は「その」と書く。「その」と書いた後、一呼吸置いて(改行して)「肌」ということばにたどりつく。そのときの「ねちっこさ」。これが、気持ち悪い。
「両掌」の「両」も「ねちっこい」。言い換えると、なくても「意味」は通じる。「おしあててみる」の「おし」も「みる」も「ねちっこい」。なくても「意味」は通じる。
ほら、通じるでしょ?
「幹」を「肌」と言っているのも「ねちっこい」。「肌」が「性別」と言い換えられるのも「ねちっこい」。こっちの「ねちっこさ」は「その」のように、なくてもいい、という「ねちっこさ」とは少し違う。妙に、余分な深みにはまっていく感じがする。
で。
いま書いた「余分」。
これが「ねちっこさ」に共通している。
どうも余分なことを書いている。言い換えると、「どうでもいいこと」を書いている。もちろんこれは説明のための極端な言い方なのだが。
逆に言いなおすと、こうなる。
「余分なところ」とは、つまり岩佐の個性である。だから、その「余分」をとってしまうと、単なるストーリーになる。「余分」こそが岩佐の詩を支えている。まあ、これは、だれの詩についても言えることだから、これでは岩佐の詩についての感想にならないのだが。
「余分」の「特徴」について説明しないといけない。私が感じていることを書かないといけない。
で、そうしようとすると、「うーん、気持ち悪い」という感じになってしまう。
わっ、何だかすごいことが書いてある。「すごい」をどう言いなおせばいいのかわからないが、おっ「哲学」が書いてある、新しいことが書いてあると思い、どきどきする。
どきどきするんだけれど。
「みどり」(色)が「匂い」ということばでとらえられ、「まさぐる」という動詞と結びつくと、そこに前に読んだ「肌」とか「掌」という「主語」が侵入してきて、「触覚」が目覚める。「色(視覚)」「匂い(嗅覚)」と「まさぐる(触覚)」が、融合するというよりも「ねばる」、まじりすぎて「ねちっこくなる」。まじりすぎては「余分に」まじって、ということかなあ。
何かが、妙に多い。
「趣はある」なんていう「哲学(概念化された意識)」が書かれた後、「胴体」を「こうしてああして触ったじゃないか」(こうしてああして、が余分)のあと、端折って書くと、声、耳、舌とあらゆる感覚器官があつまってきて、ごっちゃりとねばる。
私は、こういう「感覚の融合」というのは「肉体」そのものをつかみとっているで、とても好きなのだが、どうも岩佐の場合、それが「多すぎる」。融合しすぎて、ねばっこい。
これが、私には苦手。
これはすごいなあ、と思いながら、うっ、気持ち悪いなあと思う。肉体が感覚レベルでリアルにいきなおされている。しつこく再現されすぎている。細密すぎる。私の肉体は岩佐のように貪欲ではないということなのかもしれない。岩佐の肉体は貪欲で強靱である。その強さの前に、私の方がひるんでしまうと言いなおせばいいのかもしれない。
気持ち悪いは、すぐに快感に変わってしまうものではあるけれど。
快感は気持ち悪いにもすぐに変わるとも言える。
岩佐なを。また、気持ち悪い詩に戻った。「仕事」。
ひと気のない公園へ行っては
気になる樹をみつけその
肌に両掌をおしあててみる
性別があっても問わない
一本の気配や息づかいを
触覚でおぼえて言葉にしない
公園へ行って、木に触る。そこから何かをつかみとる。そういうことを書いているのだと思うが。
なんだろうなあ。
書かれている「こと」そのものが気持ち悪いわけではない。木から「鋭気」をもらう、というのは岩佐以外の人もするかもしれない。
「触覚で覚え(る)」というのは、「肉体」にグイと迫ってきて、あ、ここが核心だなあと思うのだが、どうも気持ちが悪い。
「意味」ではなく、たぶん、リズムだな。
気になる樹をみつけその
この「その」が特徴的だ。この「その」はなくても「意味」は通じるが、岩佐は「その」と書く。「その」と書いた後、一呼吸置いて(改行して)「肌」ということばにたどりつく。そのときの「ねちっこさ」。これが、気持ち悪い。
「両掌」の「両」も「ねちっこい」。言い換えると、なくても「意味」は通じる。「おしあててみる」の「おし」も「みる」も「ねちっこい」。なくても「意味」は通じる。
公園へ行って
樹をみつけ
掌をあてる
ほら、通じるでしょ?
「幹」を「肌」と言っているのも「ねちっこい」。「肌」が「性別」と言い換えられるのも「ねちっこい」。こっちの「ねちっこさ」は「その」のように、なくてもいい、という「ねちっこさ」とは少し違う。妙に、余分な深みにはまっていく感じがする。
で。
いま書いた「余分」。
これが「ねちっこさ」に共通している。
どうも余分なことを書いている。言い換えると、「どうでもいいこと」を書いている。もちろんこれは説明のための極端な言い方なのだが。
逆に言いなおすと、こうなる。
「余分なところ」とは、つまり岩佐の個性である。だから、その「余分」をとってしまうと、単なるストーリーになる。「余分」こそが岩佐の詩を支えている。まあ、これは、だれの詩についても言えることだから、これでは岩佐の詩についての感想にならないのだが。
「余分」の「特徴」について説明しないといけない。私が感じていることを書かないといけない。
で、そうしようとすると、「うーん、気持ち悪い」という感じになってしまう。
あらためてみどりの匂いについて
記憶をまさぐる
子どものころの嗅覚は
年齢を経て立体から
平面に変わってしまった
わっ、何だかすごいことが書いてある。「すごい」をどう言いなおせばいいのかわからないが、おっ「哲学」が書いてある、新しいことが書いてあると思い、どきどきする。
どきどきするんだけれど。
「みどり」(色)が「匂い」ということばでとらえられ、「まさぐる」という動詞と結びつくと、そこに前に読んだ「肌」とか「掌」という「主語」が侵入してきて、「触覚」が目覚める。「色(視覚)」「匂い(嗅覚)」と「まさぐる(触覚)」が、融合するというよりも「ねばる」、まじりすぎて「ねちっこくなる」。まじりすぎては「余分に」まじって、ということかなあ。
何かが、妙に多い。
ふくよかに起立してる新緑の香が
黒一色で描かれていくふうに
悪いことではない趣はある
仕事場の机上では酉の内という
和紙が広げられ墨と筆で
たくましくしぶとい樹の胴体を描く
掌で想いおこすべき
こうしてああして触ったじゃないか
小声で念を吐く
こうなったら
色をほどこすことで
幹の肉の秘香を
引き出さなくてはねと聞こえる
耳 あすのあさはあらためて
公園へ味見しに行く
舌 あさってのよるもああ
仕事
「趣はある」なんていう「哲学(概念化された意識)」が書かれた後、「胴体」を「こうしてああして触ったじゃないか」(こうしてああして、が余分)のあと、端折って書くと、声、耳、舌とあらゆる感覚器官があつまってきて、ごっちゃりとねばる。
私は、こういう「感覚の融合」というのは「肉体」そのものをつかみとっているで、とても好きなのだが、どうも岩佐の場合、それが「多すぎる」。融合しすぎて、ねばっこい。
これが、私には苦手。
これはすごいなあ、と思いながら、うっ、気持ち悪いなあと思う。肉体が感覚レベルでリアルにいきなおされている。しつこく再現されすぎている。細密すぎる。私の肉体は岩佐のように貪欲ではないということなのかもしれない。岩佐の肉体は貪欲で強靱である。その強さの前に、私の方がひるんでしまうと言いなおせばいいのかもしれない。
気持ち悪いは、すぐに快感に変わってしまうものではあるけれど。
快感は気持ち悪いにもすぐに変わるとも言える。
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