詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

「谷川俊太郎 詩と朗読と音楽--武満徹をうたう」

2010-11-21 00:22:18 | その他(音楽、小説etc)
「谷川俊太郎 詩と朗読と音楽--武満徹をうたう」(2010年11月20日、福岡市・都久志会館)

詩朗読 谷川俊太郎 ピアノ 谷川賢作 ギター 鈴木大介 フルート 岩佐和弘 ギター&ヴォーカル 小室等

 「谷川俊太郎 詩と朗読と音楽--武満徹をうたう」は音楽のふたつの面を楽しむことができる催しだった。
 プログラムは2部構成。1部は「エア」「フェリオス」「海へ」など武満の、いわゆる「現代音楽」の紹介。2部は、「死んだ男の残したものは」など歌詞つきのポピュラーソング。1部では、枠をこわしてどこまでも広がっていく音楽の力、2部ではいっしょにいる空間を親和力のある世界に変えていく力を感じた。

 1部。「海へ」は私は非常に好きな曲である。
 「海へ」というタイトルであるが、私はこの曲を聴くといつも「波」を思う。波が岸へ押し寄せてくる。そのうねり。波--水が盛り上がり、水が崩れる。フルートの音の動きに、私は水の盛り上がり、内部から高まってくる力のようなもの感じる。ギターの音の輝きには、盛り上がった水が高みからくずれるときにできる水の「腹」の部分の暗いきらめきを感じる。いま、私は水がくずれる--と書いたのだが、このくずれるは表面的に見た水の動きかもしれない。くずれるのではなく、盛り上がろうとする力に拮抗するように、それを引き止めようとする力があって、その綱引きの過程で、波が盛り上がり、くずれるということが起きるのかもしれない。そのどうすることもできない緊張感--どうすることもできない、というのは、水自身の意思ではどうすることもできない、という意味である。もし、水に意思というものがあると仮定してのことだけれど。
 そのどうすることもできない何かを感じたと思った瞬間、音が一瞬、消える。私は、フルートの音を聞いているのかな? それとも、ギターの音を聞いているのかな?わからなくなるのである。実際に演奏されているのはフルートであり、ギターなのだが、そこには演奏されていない「楽器」があるのかもしれない。
 そして、その「演奏されていない楽器」は、演奏開場(ホール)を破壊してしまう。演奏会で音楽を聴いているという感じを叩きこわしてしまう。実際にフルートの音を聞き、ギターの音を聞いているにもかかわらず、私は別な場所にいる。ホールからほうりだされて、何だかわけのわからないことを考えてしまっている。
 最初に「枠をこわしてどこまでも広がっていく音楽の力」と書いたのは、そういうことである。演奏会の開場にいることも、実際にフルートの音を聞いていることも、ギターの音を聞いていることも、実感ではなくなる。
 谷川俊太郎は、「音楽は過去を持たない、ただ、いまを未来へ運んでいくだけだ」というような意味合いの詩を朗読したが、そのことばを思い出すとき、たしかにそうなのだけれど、未来へ動くという動きのなかに、過去を超越した世界とつながる何かを感じる、とでもいえばいいのだろうか。谷川のことばがあったから、私は、たぶんそう感じるのだが、フルートもギターもそれぞれの「音」とは別の「音」、固有の音を超越した音とつながって、そのいま、ここにない「音」を未来へ届けようとして動いていると感じる。フルートとギターの音を「いま」と言い直し、聴衆を「未来」と言いなおせば、谷川の言ったことばにもどることができるかもしれない。

 「音楽」は「いま」「ここ」にある「音」で語りながら、「いま」「ここ」にない「音」を伝えようとしている。あるいは、それを生み出そうとしている。
 そうすると、それは詩と同じものになるのかな?
 詩は、「いま」「ここ」にあることばで語りながら、「いま」「ここ」にない何かを伝えようとする。生み出そうとする。
 「いま」「ここ」にないもののために、「いま」「ここ」にあるものが動く。「いま」「ここ」を破壊しながら。
 「いま」「ここ」にない何か--それをたとえば「沈黙の音」とか、「宇宙との一体感」と言いなおせば、武満の音楽、谷川の詩を語るときの「標準語」になるのかもしれない。
 武満と谷川は、そういう「はるかな」場でつながっているのかもしれない。その「はるかな」場と、私たち聴衆(読者)は直接対面する。そのとき、私たちは武満とも谷川ともつながっていない。武満を超越して動く音楽、谷川を超越して動く詩、そういうものと「孤独」のままつながる。「私」というものが完全に「孤独」になる。そういう震えるような怖さと快感(?)につつまれる。

 2部は、1部でこわしてしまった演奏開場(ホール)を、きちんと取り戻す。音楽は、そしてその音楽と音楽のあいまに語られる語りは、この開場に来た観客を親密にさせる。1部の音楽では、私は「孤独」になり、その「孤独」をとおして、誰でもない何かとつながってしまうが、2部では違う。
 ここにいる人はみんな同じ音楽を聞いている。そして、その音楽にかかわる人はみんな自分と同じ。演奏の順番を間違えたり、冗談を言ったり、お祝いに何かをあげたり、怒ったり。そして、音楽は、そういうつながりをなめらかにする潤滑剤のような感じである。ギターとピアノの音は拮抗しない。「海へ」のフルートとギターの音のように、何かここにない「音」をめぐって動くということはない。「いま」「ここ」にある「音」にこの「音」を組み合わせると、ほら、あったかい。ほら、悲しい。ほら、楽しい。そんなふうに感情がなじみやすくなる。誰もがみんな「生きている」という感じになる。
 2部では武満と谷川の家族ぐるみのつきあいが何度か語られた。小室等との家族的なつきあいも語られた。「家族」が何度も話題になったが、2部は、いわば「家族」になるための音楽なのだ。音の違った楽器でも(音が違った楽器だからこそ)、違ったものが出会って、距離をうまいぐあいに保って動くと、そこに親密な空間ができる。そういうことを教えてくれる。
 私は音痴だし、音楽に触れる機会もほとんどなく、小室等というアーチストを「出発の歌」くらいしか知らなくて、その「出発の歌」も上条恒彦の声で覚えているので、どんな声をしているか、わからなかった。今回聞くのがはじめての「声」といっていいのだけれど、やわらかくて「家族」をつつみこむという感じにぴったりだった。だからこそ、2部を聞きながら「家族」ということを思ったのかもしれない。

 (実は、谷川さんの写真を撮らせにもらいに楽屋へ行ったとき、谷川さんが小室さんを紹介してくれた。「小室です」と小室さんは言うのだけれど、私はプログラムで事前に小室等さんが出ることを知っていたのに、かなりとまどってしまった。私のことなど小室さんは知るはずがないから、どうあいさつしていいかもわからなかった。白髪にもびっくりしてしまった。そのために、とっても変なことを言ってしまった。ごめんなさい。そんな具合だったのだ、2部が終わったあとで、あ、しまった、小室さんの写真も撮らせてもらえばよかった、サインももらえばよかったなあと思った。--というわけで、強引に楽屋に押しかけて行ったのに、とった写真は谷川俊太郎さんと谷川賢作さんのみ。許可をとって掲載していますが、転載はしないでください。)


カトレーンII~武満徹:室内楽曲集
オムニバス(クラシック)
BMG JAPAN
はだか―谷川俊太郎詩集
谷川 俊太郎
筑摩書房

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