ナボコフ『賜物』(18)
ナボコフの小説では人間が物語(ストーリー、時間)を動かすのと同様に(いや、それ以上に)、「もの」がことばを動かしていく。
29ページから30ページにかけて。「思い出」「記憶」の不思議さ(思い出は蝋細工のようになり、どうしてイコンの智天使は顔の周りを覆う飾り枠が黒ずんでいくにしたかって帰って美しくなるのだろう)を書いたあと、ステレオスコープをのぞきこむときの恐怖が語られ、そして、
スレオスコープという一般的な「もの」が、歯科医院にあった具体的な「もの」にかわり、その「もの」を起点にして、歯科医院でのできごとが語られはじめる。
このとき話者は基本的には「ぼく」であるけれど、それは「ステレオスコープ」というものが「ぼく」に語らせる物語である。ステレオスコープという装置が登場した後、「ぼく」が語るのは、異様に歪み、誇張された世界である。予約ノートに書かれているのは「文字」に過ぎないはずなのに、私たちは「文字」以上のものを見てしまう。ステレオスコープに映し出された歪んだ世界を見てしまう。侯爵夫人トゥマノフとムッシュー・ダンザスの間に挟まれて、恐怖におののきながら治療を待っている「ぼく」を見てしまう。また、「ぼく」をはさむ夫人とムッシューを見てしまう。
「文字」が「文字」であることをやめて動きだす。--これは、すべて「ステレオスコープ」という「もの」が物語を動かしているからである。
あることば、ある意識が、何かにぶつかり、それを起点にして別な方向へ動いていく--ということを「意識の流れ」という具合にいうことができるかもしれないが、そういうときの「意識」とは人間の「頭」のなかにある抽象的なものではなく、常に、「頭」の外にある「具体的なもの」である。意識ではなく、「もの」が流動していく。まるで洪水の川を流れる巨大な樹、家、ピアノ、車のように、「もの」が輪郭を持ったままというか、ふつうに存在しているときは持たなかった輪郭(強烈な印象)をもって流れていく。
「もの」はさらに「もの」とぶつかり、激しい音を立て、また別な方向へ動いていく。その動きを、ナボコフは、なんといえばいいのだろうか、「もの」の数、「もの」の量で圧倒して、「方向転換」を感じさせない。
ナボコフの小説では人間が物語(ストーリー、時間)を動かすのと同様に(いや、それ以上に)、「もの」がことばを動かしていく。
29ページから30ページにかけて。「思い出」「記憶」の不思議さ(思い出は蝋細工のようになり、どうしてイコンの智天使は顔の周りを覆う飾り枠が黒ずんでいくにしたかって帰って美しくなるのだろう)を書いたあと、ステレオスコープをのぞきこむときの恐怖が語られ、そして、
この光学的な遊びの後で見る夢に、ぼくはシャーマンの呪術の話以上に苦しめられたものだった。この装置はアメリカ人のローソンという歯医者の待合室に置いてあった。彼と同棲する女性はマダム・デュキャンという怪鳥ハルピュイア(がみがみばあさん)で、ローソン医院特性の血のように赤い口腔洗浄液(エリキシル)のガラス小瓶に囲まれてデスクに向かい、唇を噛みしめ髪を掻きむしりながら、ぼくとターニャの予約をどこに入れたものか決めかねてかりかりしていたが、とうとう、力をこめてきいきい音を立てながら、末尾にインクの染みがついた侯爵夫人(プランセス)トゥマノフと彼の頭にインクの染みがついたムッシュー・ダンザスの間に、唾を吐き散らすようにボテルペンを押し込んだ。
スレオスコープという一般的な「もの」が、歯科医院にあった具体的な「もの」にかわり、その「もの」を起点にして、歯科医院でのできごとが語られはじめる。
このとき話者は基本的には「ぼく」であるけれど、それは「ステレオスコープ」というものが「ぼく」に語らせる物語である。ステレオスコープという装置が登場した後、「ぼく」が語るのは、異様に歪み、誇張された世界である。予約ノートに書かれているのは「文字」に過ぎないはずなのに、私たちは「文字」以上のものを見てしまう。ステレオスコープに映し出された歪んだ世界を見てしまう。侯爵夫人トゥマノフとムッシュー・ダンザスの間に挟まれて、恐怖におののきながら治療を待っている「ぼく」を見てしまう。また、「ぼく」をはさむ夫人とムッシューを見てしまう。
「文字」が「文字」であることをやめて動きだす。--これは、すべて「ステレオスコープ」という「もの」が物語を動かしているからである。
あることば、ある意識が、何かにぶつかり、それを起点にして別な方向へ動いていく--ということを「意識の流れ」という具合にいうことができるかもしれないが、そういうときの「意識」とは人間の「頭」のなかにある抽象的なものではなく、常に、「頭」の外にある「具体的なもの」である。意識ではなく、「もの」が流動していく。まるで洪水の川を流れる巨大な樹、家、ピアノ、車のように、「もの」が輪郭を持ったままというか、ふつうに存在しているときは持たなかった輪郭(強烈な印象)をもって流れていく。
「もの」はさらに「もの」とぶつかり、激しい音を立て、また別な方向へ動いていく。その動きを、ナボコフは、なんといえばいいのだろうか、「もの」の数、「もの」の量で圧倒して、「方向転換」を感じさせない。
魅惑者 | |
ウラジーミル ナボコフ | |
河出書房新社 |