水下暢也「秋のつもり」(読売新聞2019年2019年09月27日夕刊=西部版)
水下暢也「秋のつもり」を読みながら、私はとまどう。
水下暢也という名前がなければ、私はこの詩を「いま」書かれたものとは思わない。私には書けない、読めない漢字がある。(引用ではルビを省略した。)そういうことばは、だいたい、私の日常にはかかわりがない。つかわない、ということだ。つまり、そういうことばをつかって、私は世界を見つめない。考えない。
書き出しは、繊細である。「逃げ水」は何度も見たことがあるが、水下が書いているように、目を凝らしてみたことはない。そうか、目を凝らせば、その「凝らす」という動きの中に(肉体のなかに)船の幻も呼び込むものなのかと、その集中力に驚いてしまう。「逃げ水」が、遠い水平線の波の動きにも見えてくる。
「狂いきらない」とはよく書いたものだ。
「見定めがたい」ものを見定め、ことばにする。こんなに集中し、ことばにしてしまうのは、私から見るとすでにそれだけで「狂っている(常軌を逸している/過剰な精神の運動がある)」が、そして「漢字」と「読み」の選択に「狂っている」証拠を感じるが、水下はそれを「狂いきらない(狂わない)」と言いきる。この精神力が水下のことばを動かしていることになる。驚くしかない。
しかし、ここに書かれていることばを、水下はいったい誰と共有しているのか。だれと語り合うとき、こういうことば(漢字)をつかうのか。それが、わたしにはさっぱりわからない。少なくとも、私は、こういうことばを共有できない。
とはいしうものの。
この四行のリズム、それからことばそのものは、非常に迫ってくるものがある。「逃げ水」を見たときの不思議さ、あれはほんとうに存在するのか(誰にも見えるものなのか)、それとも私の目の錯覚なのかという奇妙な気持ちがぴったり重なる。「そんなふうだから」という「論理的」なようで、いいかげん(?)な飛躍の仕方も、そういう気分に重なる。
でも。
あ、このとき水下は、どこにいるのだろうか。
「逃げ水」の見える場所? それとも「船」の上? 船の上で、棹で船を動かしている?
わからない。
うーん。「逃げ水を埋め」の葉か。ここでは「逃げ水」は、ほとんど現実の「水」になっている。水に埋もれ(水を埋め)、葉が匂う。その匂いが「たちこめる」は生々しくて、肉体にぐいと迫ってくるが、私は自分の「位置」を見失ってしまう。「匂い」を感じるのは、私の肉体感覚では対象の近くにいるとき。遠くの「匂い」を嗅ぎ取るほど、わたしの嗅覚は鋭くはない。書き出しのように、「逃げ水」を遠くから見ているかぎりは、「匂い」はしない。集中力で「逃げ水」を見る位置から、「逃げ水」のただなかへワープしてきたのか。
まあ、そういう混乱が詩を体験することだといえば、そうなるのかもしれないが。
ちょっと苦しい。
私の肉体がついていけなくなる。「幻想」だとしても、それを追いかけるには肉体が必要だが、動かなくなる。
よくわからない。いや、ぜんぜんわからない、と書いた方が正直だな。
「春と佯る初冬がわらえば」を手がかりに言えば、この詩の舞台は「小春日和」ということになるが、「秋のつもり」は、それでは「晩秋」のこと? 私は秋になったばかりの日のことかと思って読んでいたから、(福岡では、まだ「夏」だ。私はこの文章を下着姿でクーラーをかけながら書いている)、「時間」そのものも見失ってしまう。
私の読めない漢字、書けない漢字を読みながら(見ながら)、ああ、これは遠い昔の詩だなあ、明治から昭和の初めにかけてのことばであって、いまのことばではないなあ、という思いにもどってしまう。
こういうことばが、いまの若い人には新鮮なのか、詩なのか、と驚いてしまう。
若い人の書いている詩は、私のような老人にはほとんどわからないが、わからなくても古いことば(漢字?)ではなく、いまつかわれていることばを読みたいと思う。
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水下暢也「秋のつもり」を読みながら、私はとまどう。
水下暢也という名前がなければ、私はこの詩を「いま」書かれたものとは思わない。私には書けない、読めない漢字がある。(引用ではルビを省略した。)そういうことばは、だいたい、私の日常にはかかわりがない。つかわない、ということだ。つまり、そういうことばをつかって、私は世界を見つめない。考えない。
逃げ水の上を辷る船の舳先から
末広がりになる
軽い波立ちが畳まれ
その後方に
といっても見定め難いが
熟した艶がつくのも
淡い蟠りの上面に
鈴生りの藍が集まるのも
いまひとつ狂いきらない
書き出しは、繊細である。「逃げ水」は何度も見たことがあるが、水下が書いているように、目を凝らしてみたことはない。そうか、目を凝らせば、その「凝らす」という動きの中に(肉体のなかに)船の幻も呼び込むものなのかと、その集中力に驚いてしまう。「逃げ水」が、遠い水平線の波の動きにも見えてくる。
「狂いきらない」とはよく書いたものだ。
「見定めがたい」ものを見定め、ことばにする。こんなに集中し、ことばにしてしまうのは、私から見るとすでにそれだけで「狂っている(常軌を逸している/過剰な精神の運動がある)」が、そして「漢字」と「読み」の選択に「狂っている」証拠を感じるが、水下はそれを「狂いきらない(狂わない)」と言いきる。この精神力が水下のことばを動かしていることになる。驚くしかない。
しかし、ここに書かれていることばを、水下はいったい誰と共有しているのか。だれと語り合うとき、こういうことば(漢字)をつかうのか。それが、わたしにはさっぱりわからない。少なくとも、私は、こういうことばを共有できない。
とはいしうものの。
そんなふうだからか
逃げるほどにも
追うほどにも
思う秋を持てず
この四行のリズム、それからことばそのものは、非常に迫ってくるものがある。「逃げ水」を見たときの不思議さ、あれはほんとうに存在するのか(誰にも見えるものなのか)、それとも私の目の錯覚なのかという奇妙な気持ちがぴったり重なる。「そんなふうだから」という「論理的」なようで、いいかげん(?)な飛躍の仕方も、そういう気分に重なる。
でも。
逃げ水の面を乱す
棹さしがつづいて
片岸は遠のくばかりで
あ、このとき水下は、どこにいるのだろうか。
「逃げ水」の見える場所? それとも「船」の上? 船の上で、棹で船を動かしている?
わからない。
なだれ込んだ葉が
逃げ水を埋め
たちこめるめる匂いだけ
俄かに秋づくか
うーん。「逃げ水を埋め」の葉か。ここでは「逃げ水」は、ほとんど現実の「水」になっている。水に埋もれ(水を埋め)、葉が匂う。その匂いが「たちこめる」は生々しくて、肉体にぐいと迫ってくるが、私は自分の「位置」を見失ってしまう。「匂い」を感じるのは、私の肉体感覚では対象の近くにいるとき。遠くの「匂い」を嗅ぎ取るほど、わたしの嗅覚は鋭くはない。書き出しのように、「逃げ水」を遠くから見ているかぎりは、「匂い」はしない。集中力で「逃げ水」を見る位置から、「逃げ水」のただなかへワープしてきたのか。
まあ、そういう混乱が詩を体験することだといえば、そうなるのかもしれないが。
ちょっと苦しい。
私の肉体がついていけなくなる。「幻想」だとしても、それを追いかけるには肉体が必要だが、動かなくなる。
せつかれた陽炎は
ひとたび失せてゆくものの
春と佯る初冬がわらえば
またの日の逃げ水が遊び
またの日の目眩ともなる
水棹を手放した水手は
艫でへたばり
もえそめた葉陰に覆われ
遠目には少し暗い
季節の水合へ入ってゆく
よくわからない。いや、ぜんぜんわからない、と書いた方が正直だな。
「春と佯る初冬がわらえば」を手がかりに言えば、この詩の舞台は「小春日和」ということになるが、「秋のつもり」は、それでは「晩秋」のこと? 私は秋になったばかりの日のことかと思って読んでいたから、(福岡では、まだ「夏」だ。私はこの文章を下着姿でクーラーをかけながら書いている)、「時間」そのものも見失ってしまう。
私の読めない漢字、書けない漢字を読みながら(見ながら)、ああ、これは遠い昔の詩だなあ、明治から昭和の初めにかけてのことばであって、いまのことばではないなあ、という思いにもどってしまう。
こういうことばが、いまの若い人には新鮮なのか、詩なのか、と驚いてしまう。
若い人の書いている詩は、私のような老人にはほとんどわからないが、わからなくても古いことば(漢字?)ではなく、いまつかわれていることばを読みたいと思う。
*
評論『池澤夏樹訳「カヴァフィス全詩」を読む』を一冊にまとめました。314ページ、2500円。(送料別)
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「詩はどこにあるか」2019年4-5月の詩の批評を一冊にまとめました。
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注文してから1週間程度でお手許にとどきます。
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(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
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(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
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『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
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(5)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
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