愛啓浩一「ベンヤミンは書いている」(「詩的現代」34、2020年09月10日発行)
愛啓浩一「ベンヤミンは書いている」は変わった詩である。
最初の鍵括弧のなかのことばはベンヤミン。これはまちがいない。しかし、そのあとの「ブルジョワジーの支配の本質をあからさまにいいあらわすのに、」からのことばはだれのことばなのだろうか。ブレヒトがどこかで語ったことばなのか。それともベンヤミンがブレヒトのことを紹介して書いていることばなのか。
よくわからない。そのよくわからないという感じに拍車をかけるのが、「別口に、ブレヒトは歌う」という行からのことばなのだ。
これは事実? 事実だとして、それを事実と認定しているのはだれ? 愛啓なんだろうなあ。
それでいいのかなあ。
最初の「ベンヤミンは書いている」からして、だれが、どうして、ということを考え始めるとめんどうくさい。
愛啓は何のためにベンヤミンを引用したのか。愛啓はベンヤミンのことばに惹かれて引用したのか。ブレヒトのことばに惹かれて引用しているのか。そして、そのブレヒトのことばというのは、ブレヒト自身が語ったことばか。ベンヤミンの要約か(あるいは引用か)。どこまでがベンヤミンで、どこからがブレヒトかわからない。どこからが愛啓のことばなのかも実はわからない。ベンヤミンが書いていると書きながら、愛啓が捏造しているということもある。
だから。
ことばは「所属」を問うてもしようがないのだ。
ことばは読んだときから、読んだ人のものなのだ。それを「肯定」するときはもちろんだが、引用したことばを否定するときでさえ、そのことばを「自己否定」という形でしか否定できない。そのことばには与しないということを意識するという形で、明確に存在させないといけない。変わって言ってしまうのが、ことばなのだ。同時にことばの「持ち主」も変わっていってしまうのだ。
で。(で、でいいのか。)
このあと、ベンヤミン、ブレヒトをくぐりぬけた愛啓のことばが2連目として動き始める。つまり、「別口」がはじまる。
この語り口は、なんとなく「三番オペラ」を思い起こさせる。「もの」(人間)がそこにある。それぞれが独自の「肉体/思想」をもっているので「わいわいがやがや」なのだが、瞬間瞬間に「人間」が「もの」のように立ち上がってくるのがとても楽しい。
中学校(高校?)の職員室で、先生の組織の役職が決まっていく、というだけのことを書いているのだと思うが、妙に、私自身の知っている「先生」を思い浮かべたりしてしまうのだ。
わけもなく、この詩は「しり切れとんぼみたいでいいなあ」「詩は、こういうしり切れとんぼ」のなかにあるなあ。ベンヤミンもブレヒトも、このしり切れとんぼの「事実」にはかなわいなあ。愛啓はこんな詩を書いていたのか、とちょっと考え込んだりした。
そしてこの「しり切れとんぼ」の美しさは、しかし、ベンヤミンという気取った引用で始まり、ブレヒトとぶつかることで生まれた者だとしたら、それを生み出したのはベンヤミン? ブレヒト? その出会いを見つけた愛啓? いや、だれでもないだれかだな、とまた振り出しに戻ってしまうのだが。
驚いたことに。
次のページに、まだ六行残っていた。
うーん。
愛啓は、この六行が書きたかったのかもしれないが、私はつまんないなあ、と思ったのだ。ことばが、なんといえばいいのか「思考」にもどってしまう。「事実」ではなくなる。言い換えるとベンヤミンになってしまう。ベンヤミンを私は読んだことがないのだけれど。
もし、最終連というか、「締め」のようなものが必要なら、愛啓の「感想」ではなく、委員長の「演説」のようなものがいいだろうと思う。ベンヤミンで始まり、ブレヒト、愛啓を通って、読者がまったく知らない人が意見を言う。ベンヤミンはブレヒトにかわり、愛啓にかわり、「他人」になってしまう。
文学というのは、ことばをとおして、自分が自分でなくなってしまうこと、「他人」に生まれ変わることだからね。
「引用」がおもしろいのは、「引用」が「他人」への引き金になるからだ。きのう感想を書いた田中庸介の作品も、細田傳造の作品も「他人」が登場し、その「他人」に触れることで、「自分」のあり方が違ってくるからだ。もちろん「自分」を引きずっているから、本人は「自分」というだろうけれど、私から見ると田中ではない田中(他人=初めて出会う人)、細田ではない細田(他人=初めて出会う人)。細田の場合は、いつでも「新しい面」を持ってあらわれる人と言った方がわかりやすいかもしれない。
私は「結論」はどうでもいい、ただ人間が変わっていくということだけが好きなんだなあ、と気づく。だから、せっかくかわったのに、もとにもどるのを見ると残念な気持ちがする。
愛啓の六行は、私にとっては「残念な六行」ということになる。
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愛啓浩一「ベンヤミンは書いている」は変わった詩である。
ベンヤミンは書いている
「詩という形式は、
ブルジョワジーがかれらの生存のちゃちなお飾りとしているもの」であるが、
ブレヒトは、それとは違って、烈しく歌うというのだ
「ブルジョワジーの支配の本質をあからさまにいいあらわすのに、
お上品すぎるということはない。
教区のひとびとを教化する賛美歌、
民衆を調子よくまるめこむ民謡、
兵隊を死地に送りこむ愛国的バラード、
安価な慰安をわめきたてる恋の歌--」
別口に、ブレヒトは歌う
ブレヒトの賛美歌
ブレヒトの民謡
ブレヒトの愛国的バラード
ブレヒトの恋の歌
最初の鍵括弧のなかのことばはベンヤミン。これはまちがいない。しかし、そのあとの「ブルジョワジーの支配の本質をあからさまにいいあらわすのに、」からのことばはだれのことばなのだろうか。ブレヒトがどこかで語ったことばなのか。それともベンヤミンがブレヒトのことを紹介して書いていることばなのか。
よくわからない。そのよくわからないという感じに拍車をかけるのが、「別口に、ブレヒトは歌う」という行からのことばなのだ。
これは事実? 事実だとして、それを事実と認定しているのはだれ? 愛啓なんだろうなあ。
それでいいのかなあ。
最初の「ベンヤミンは書いている」からして、だれが、どうして、ということを考え始めるとめんどうくさい。
愛啓は何のためにベンヤミンを引用したのか。愛啓はベンヤミンのことばに惹かれて引用したのか。ブレヒトのことばに惹かれて引用しているのか。そして、そのブレヒトのことばというのは、ブレヒト自身が語ったことばか。ベンヤミンの要約か(あるいは引用か)。どこまでがベンヤミンで、どこからがブレヒトかわからない。どこからが愛啓のことばなのかも実はわからない。ベンヤミンが書いていると書きながら、愛啓が捏造しているということもある。
だから。
ことばは「所属」を問うてもしようがないのだ。
ことばは読んだときから、読んだ人のものなのだ。それを「肯定」するときはもちろんだが、引用したことばを否定するときでさえ、そのことばを「自己否定」という形でしか否定できない。そのことばには与しないということを意識するという形で、明確に存在させないといけない。変わって言ってしまうのが、ことばなのだ。同時にことばの「持ち主」も変わっていってしまうのだ。
で。(で、でいいのか。)
このあと、ベンヤミン、ブレヒトをくぐりぬけた愛啓のことばが2連目として動き始める。つまり、「別口」がはじまる。
新しい組合に必要なのは
規約と役職であった
わいわいがやがや話合って
いざ、規約が作成され
役職が決まってしまうと
すべてが
規約に従い
すべてが
役職に委ねられ
つまらなくなった
元気のいいことを言っていた者が
役職についた
新任の彼が副委員長になり
科学の先生が委員長になった
この語り口は、なんとなく「三番オペラ」を思い起こさせる。「もの」(人間)がそこにある。それぞれが独自の「肉体/思想」をもっているので「わいわいがやがや」なのだが、瞬間瞬間に「人間」が「もの」のように立ち上がってくるのがとても楽しい。
中学校(高校?)の職員室で、先生の組織の役職が決まっていく、というだけのことを書いているのだと思うが、妙に、私自身の知っている「先生」を思い浮かべたりしてしまうのだ。
わけもなく、この詩は「しり切れとんぼみたいでいいなあ」「詩は、こういうしり切れとんぼ」のなかにあるなあ。ベンヤミンもブレヒトも、このしり切れとんぼの「事実」にはかなわいなあ。愛啓はこんな詩を書いていたのか、とちょっと考え込んだりした。
そしてこの「しり切れとんぼ」の美しさは、しかし、ベンヤミンという気取った引用で始まり、ブレヒトとぶつかることで生まれた者だとしたら、それを生み出したのはベンヤミン? ブレヒト? その出会いを見つけた愛啓? いや、だれでもないだれかだな、とまた振り出しに戻ってしまうのだが。
驚いたことに。
次のページに、まだ六行残っていた。
委員長は群れないタイプであって
新任の彼は
ただ若いだけだった
彼は書記長の方がよかったと思ったが
責任をとる順が二番目だと
みんなが考えたのだろう
うーん。
愛啓は、この六行が書きたかったのかもしれないが、私はつまんないなあ、と思ったのだ。ことばが、なんといえばいいのか「思考」にもどってしまう。「事実」ではなくなる。言い換えるとベンヤミンになってしまう。ベンヤミンを私は読んだことがないのだけれど。
もし、最終連というか、「締め」のようなものが必要なら、愛啓の「感想」ではなく、委員長の「演説」のようなものがいいだろうと思う。ベンヤミンで始まり、ブレヒト、愛啓を通って、読者がまったく知らない人が意見を言う。ベンヤミンはブレヒトにかわり、愛啓にかわり、「他人」になってしまう。
文学というのは、ことばをとおして、自分が自分でなくなってしまうこと、「他人」に生まれ変わることだからね。
「引用」がおもしろいのは、「引用」が「他人」への引き金になるからだ。きのう感想を書いた田中庸介の作品も、細田傳造の作品も「他人」が登場し、その「他人」に触れることで、「自分」のあり方が違ってくるからだ。もちろん「自分」を引きずっているから、本人は「自分」というだろうけれど、私から見ると田中ではない田中(他人=初めて出会う人)、細田ではない細田(他人=初めて出会う人)。細田の場合は、いつでも「新しい面」を持ってあらわれる人と言った方がわかりやすいかもしれない。
私は「結論」はどうでもいい、ただ人間が変わっていくということだけが好きなんだなあ、と気づく。だから、せっかくかわったのに、もとにもどるのを見ると残念な気持ちがする。
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