中井久夫訳カヴァフィスを読む(88) 2014年06月18日(水曜日)
「イメノス」はイメノスの「書簡の抜粋」という形をとっている。「ユダヤの民について(紀元五〇年)」と同じように、他人のことば(声)をそっくり引用している。この引用がほんとうの引用なのか、カヴァフィスの創作なのかはわからないが、引用部分はいつものカヴァフィスとは違う文体である。
三、四行目の「これを」「この」という指示詞の使用。前にでてきたことばをしっかりと受け止めながら「論理」をつづけていくというのはカヴァフィスの文体ではない。カヴァフィスは、そういうことはわかりきっているものとして省略する。
「され」「この」ということばの省略が「こと」を独立させる。一回限りの「こと」として浮かび上がらせる。カヴァフィスは、そうやって感情(意識)にそまらない叙事的に正確をことばに与えるのが特徴だ。「これ」「この」という指示詞の多用は、カヴァフィス自身の声ではないと印象づけるためのものである。
ここに書かれている官能、エロスの称賛はカヴァフィスと共通するが(共通するから、カヴァフィスは自分の「主観」を補強するために、イメノスのことばを引用したのだろう。同じことを考える人間がいる、といいたいのだろう)、リズムやことばとことばの粘着力が違う。
イメノスは、「これ」「この」という指示詞で、論理に「粘着力」をもたせる。カヴァフィスは、そういうことをしない。「もの/こと」があれば、それは「ある」ということだけで、完結しているからである。
カヴァフィスがイメネスの文を引用(あるいは創作)したのはなぜだろう。「身体は得難いものです」ということばが気に入ったのだろう。その身体は2連目で「血」ということばで引き継がれる。
快楽をえることができるかどうかは身体で決まる。身体は「血」で決まる。だからこそ、どこの国の人間であるかも常に問われる。
カヴァフィスは、どこまでもギリシャに沈潜していく。
「イメノス」はイメノスの「書簡の抜粋」という形をとっている。「ユダヤの民について(紀元五〇年)」と同じように、他人のことば(声)をそっくり引用している。この引用がほんとうの引用なのか、カヴァフィスの創作なのかはわからないが、引用部分はいつものカヴァフィスとは違う文体である。
「……いやがうえにもいつくしまれるべきは
官能の快楽、それも病的、腐敗的に得られるものです。
これを感じる身体は得難いものです。
この病的、腐敗的な快楽は
健康などのあずかり知らない強烈なエロスです……」
三、四行目の「これを」「この」という指示詞の使用。前にでてきたことばをしっかりと受け止めながら「論理」をつづけていくというのはカヴァフィスの文体ではない。カヴァフィスは、そういうことはわかりきっているものとして省略する。
「され」「この」ということばの省略が「こと」を独立させる。一回限りの「こと」として浮かび上がらせる。カヴァフィスは、そうやって感情(意識)にそまらない叙事的に正確をことばに与えるのが特徴だ。「これ」「この」という指示詞の多用は、カヴァフィス自身の声ではないと印象づけるためのものである。
ここに書かれている官能、エロスの称賛はカヴァフィスと共通するが(共通するから、カヴァフィスは自分の「主観」を補強するために、イメノスのことばを引用したのだろう。同じことを考える人間がいる、といいたいのだろう)、リズムやことばとことばの粘着力が違う。
イメノスは、「これ」「この」という指示詞で、論理に「粘着力」をもたせる。カヴァフィスは、そういうことをしない。「もの/こと」があれば、それは「ある」ということだけで、完結しているからである。
カヴァフィスがイメネスの文を引用(あるいは創作)したのはなぜだろう。「身体は得難いものです」ということばが気に入ったのだろう。その身体は2連目で「血」ということばで引き継がれる。
ミハイル三世た頽落の世に
崩れぶりでジュラクサイに悪名高き
貴族の血を引く青年イメネスの
書簡の抜粋。
快楽をえることができるかどうかは身体で決まる。身体は「血」で決まる。だからこそ、どこの国の人間であるかも常に問われる。
カヴァフィスは、どこまでもギリシャに沈潜していく。