詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

詩はどこにあるか(16)

2005-03-03 22:38:23 | 詩集

月下獨酌  李白

花間一壷酒
獨酌無相親
挙杯迎明月   (「迎」は表示できないので、意味上あてた文字です)
対影成三人

花間(かかん) 一壷(こ)の酒
独り酌んで相親しむもの無し
杯を挙げて名月を迎えて
影に対して三人と成る
         (「唐詩三百首 1」東洋文庫)


 「成る」が「詩」である。
 月と影と私。それは「人」ではない。しかし、「人」ととらえ、「三人」と見る。そして、それを「成る」と書く。
 本当は三人ではないけれど、それを三人にしてしまう。そうした精神の動きのなかに「詩」がある。
 
 「成る」ではなく、「なす」のである。そうした積極的な精神の動き、今までなかったものをつくりだす――そこに「詩」がある。「詩」を生み出す精神の動きがある。


醒時同交歓
酔後各分散
永結無情遊
相期遥雲漢   (「遥」は意味上あてた文字です)

醒むる時 同(とも)に交歓し
酔うて後 各(おのおの)分散す
永く無情の遊びを結び
相期す雲漢遥かなるに

 「無情」とは人間の情とは無関係ということである。
 人間の情とは無関係なものを、一瞬の内に結びつける。そのときの劇的な運動の中に「詩」がある。
 「成る」にも、そうした劇的な運動がある。

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詩はどこにあるか(15)

2005-03-03 00:11:51 | 詩集
西脇順三郎「旅人かへらず」(筑摩書房『定本西脇順三郎Ⅰ』)

旅人は待てよ
このかすかな泉に
舌を濡らす前に
考へよ人生の旅人
汝もまた岩間からしみ出た
水霊にすぎない
この考へる水も永劫には流れない
永劫の或時にひからびる
ああかけすが鳴いてやかましい
時々この水の中から
花をかざした幻影の人が出る

 「ああかけすが鳴いてやかましい」の一行を読むたびに「詩」を感じる。「詩」とは唐突にあらわれる現実である。しかも肉体に直接響いてくる現実である。
 「永劫」などという概念をあざわらうかのように、そうした概念に頭が灰色になってしまうのを笑うかのように、カケスの声に現実に引き戻される。
 人があることを考えている。しかし、自然(カケス)はそういうことを配慮しない。西脇が何を考えていようが、そんなことは気にしない。鳴きたいから鳴く。自然と人間とは「情」のつながりがない。「無情・非情」の世界が、唐突にあらわれる。ここに「詩」がある。

 多くの詩があるが、私は、この西脇の一行にもっとも「詩」を感じる。
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