アマプラで配信され始めて、人気のようだから、じゃあ、それなら、ってことで見てみたのだけど。
いやー、これはないわ、1 ミリも弁護する余地がないくらいヒドイ。
だって、全然キャンプしないんだもの。
代わりにキャンプ場、作っちゃったりして。
なんだよ、この地域興しの行政映画、って思ってしまった。
基本プロットがラブライブとかによくある、廃校になるからなんとかしよう!みたいなノリなんだもの。
でもさ、「ゆるキャン」ってそういうのじゃないでしょ。
なでしこたちがキャンプに出かけて、そこで何らかの発見や刺激を受けて、元の日常に戻ってくるところが面白いんでしょ。
それを単純にキャンプと接点があればセーフ!みたいな脚本でガッカリ。
いや、2期の後半の伊豆キャンプのときにも、なんか半分くらい観光案内の内容になっていて、それってどうよー、とは思っていたけど。
でもあのときはまだ、なでしこたちはキャンプに出かけていたから。
キャンプを楽しむ側だったから、「ゆるキャン」のコンセプトからはぎりぎり逸脱してはいなかった。
ところが、この映画版はどうかといえば、なでしこたちが、どういうわけかキャンプ場をつくる流れになって、ひたすら土木作業をしていくだけの人になってしまうんだもの。
これはマジでガッカリ、全然面白くない。
しかも、基本的にキャンプ場企画をたちあげた公務員の千明の様子を見るに、これ、客観的には完全に、なでしこたちの手弁当に頼ったキャンプ場開発であって、ていのいい「やりがい搾取」だよね。
好きなことだからボランティアでもがんばれるよね!という、いかにも行政がよくアートイベントとかの運営の人集めに使うボランティアの意味で。
いや、実はちゃんと給金は払っていたんです、ってことなのかもしれないけれど、だったら、そこはちゃんと作中で明言すべきだよね。
じゃなければ、これはあくまでも「なでしこの見た夢でした」という夢オチで、そんな、損得勘定を度外視できるファンタジックな「優しい世界」もありだね、ってことで視聴者が納得できるためのラインを確保しておくべきだった。
そもそも損得勘定という世知辛い話にどうしても触れたくないなら、そもそも社会人なったなでしこたちの未来、なんて設定にしなければいいのに。
その社会人設定にしてもちょっとヒドイなと思ったのは、普通に営業とかOLとかやってる子がひとりもいないこと。
強いて言えば、名古屋の中小出版社に務めているリンについてはそれっぽい描写はあったものの、あとの4人は、いわゆる一般的な社会人からは遠い。
なでしこは、趣味を仕事にしたようなキャンプグッズ店の店員さん、
千明は、観光局?とかの公務員
あおいは、小学校の教員
恵那は、動物病院?で働く人
まさに「やりがい」重視の職業で、逆に、これは監督や脚本家などアニメ制作者の社会観がいかに狭いか、を表しているようにしか思えない。
自分たちと同じように、趣味を仕事にするのがいい、というような自由人の価値観がそのまま投影されたようなものばかり。
それが逆にウソっぽく見えてしまう。
こんなことが気になってしまうのは、ゆるキャンが、もともとわりとリアリズム重視の作りだったからで、だったら、ちゃんと職業選択にもリアリズムを反映させてようよ、と思ってしまう。
で、極めつけは、そんな自由人の反映のような職業に就いた5人を、キャンプを楽しむ立場から、キャンプ場をつくる立場に、変えてしまったこと。
これって「つくることはエラい」っていう、まさにクリエイターのプライドの反映だよね。
アニメを見るだけなく、つくる側になるのが尊い、という価値観の反映に見えてしまって、始まって1時間を越えたあたりから、どうにもむず痒くなって気持ち悪かった。
しかも、それがあからさまに町興しにかかわるものだからな。
まさか、ゆるキャンで、役所の会議場面が出てくるとは思わなかったし、不自然に聞く耳をもった「よい上司」ばかりで気持ち悪かった。
とにかくね、こんな「幸福な優しい世界」なんてあるわけないじゃん、という気分が途中からもう抜けなくて。
だから、本気でこれは高校生のなでしこがみた夢オチなんだ、って期待していたのに、最後は普通で終わったからなぁ。
さすがに結論も「お花畑」すぎでしょ、これじゃ、ただのカルト映画だよ。
多分、ゆるキャンをこれまで見て面白いと思っていた人が、未来のなでしこたちの物語に期待していたのは、彼女たちが、成人して社会人になってもキャンプを楽しめる大人になっていた、という展開だったと思う。
作中でなでしこも言っていたように、社会人になって使えるお金も増えたのだから、学生時代には行けなかったようなところでキャンプを満喫しよう、というのが、映画としては正解のぷらっとだったのだと思う。
高校生の時には行けなかったという意味では、日本国内であれば、遠方の、それこそ本州の外の北海道や九州、四国、というのでもよかった。
なんだったら、カナダとかアメリカとかの山に5人で1週間くらい行ってくる、というのでも良かった。
とにかく、なでしこたちがキャンプに出かけるというのは大前提で、その上で、キャンプした土地で何を見て何を感じるか、そこに成人して社会人となった見方が投影されればよかったんじゃないかな。
そこに高校生の頃には見えなかったものが見えれば、それが成長であり、わざわざ社会人になった未来に舞台を移したことの理由にもなるし。
こういう、今までゆるキャンを見てきた人たちだったら普通に感じる期待にまずは応えるところから企画を練るべきだったんじゃないかと思う。
だいたい、作中で、なにかの企画を立ててそれをつくる、という展開は、構造的にあまりもメタすぎて、同時にこの映画そのものが作られた経緯とかが幾分かは反映されているんじゃないかと思わされるところもあって。
素直に、なでしこたちがキャンプを堪能する世界を見たかった。
それに尽きる。
どうやら『ゆるキャン△』は3期が計画されているみたいなので、この映画は、文字通りの黒歴史としてなかったこととして葬ることになるのだろうな。
それくらい、取り付く島がなかった。
いやー、これはないわ、1 ミリも弁護する余地がないくらいヒドイ。
だって、全然キャンプしないんだもの。
代わりにキャンプ場、作っちゃったりして。
なんだよ、この地域興しの行政映画、って思ってしまった。
基本プロットがラブライブとかによくある、廃校になるからなんとかしよう!みたいなノリなんだもの。
でもさ、「ゆるキャン」ってそういうのじゃないでしょ。
なでしこたちがキャンプに出かけて、そこで何らかの発見や刺激を受けて、元の日常に戻ってくるところが面白いんでしょ。
それを単純にキャンプと接点があればセーフ!みたいな脚本でガッカリ。
いや、2期の後半の伊豆キャンプのときにも、なんか半分くらい観光案内の内容になっていて、それってどうよー、とは思っていたけど。
でもあのときはまだ、なでしこたちはキャンプに出かけていたから。
キャンプを楽しむ側だったから、「ゆるキャン」のコンセプトからはぎりぎり逸脱してはいなかった。
ところが、この映画版はどうかといえば、なでしこたちが、どういうわけかキャンプ場をつくる流れになって、ひたすら土木作業をしていくだけの人になってしまうんだもの。
これはマジでガッカリ、全然面白くない。
しかも、基本的にキャンプ場企画をたちあげた公務員の千明の様子を見るに、これ、客観的には完全に、なでしこたちの手弁当に頼ったキャンプ場開発であって、ていのいい「やりがい搾取」だよね。
好きなことだからボランティアでもがんばれるよね!という、いかにも行政がよくアートイベントとかの運営の人集めに使うボランティアの意味で。
いや、実はちゃんと給金は払っていたんです、ってことなのかもしれないけれど、だったら、そこはちゃんと作中で明言すべきだよね。
じゃなければ、これはあくまでも「なでしこの見た夢でした」という夢オチで、そんな、損得勘定を度外視できるファンタジックな「優しい世界」もありだね、ってことで視聴者が納得できるためのラインを確保しておくべきだった。
そもそも損得勘定という世知辛い話にどうしても触れたくないなら、そもそも社会人なったなでしこたちの未来、なんて設定にしなければいいのに。
その社会人設定にしてもちょっとヒドイなと思ったのは、普通に営業とかOLとかやってる子がひとりもいないこと。
強いて言えば、名古屋の中小出版社に務めているリンについてはそれっぽい描写はあったものの、あとの4人は、いわゆる一般的な社会人からは遠い。
なでしこは、趣味を仕事にしたようなキャンプグッズ店の店員さん、
千明は、観光局?とかの公務員
あおいは、小学校の教員
恵那は、動物病院?で働く人
まさに「やりがい」重視の職業で、逆に、これは監督や脚本家などアニメ制作者の社会観がいかに狭いか、を表しているようにしか思えない。
自分たちと同じように、趣味を仕事にするのがいい、というような自由人の価値観がそのまま投影されたようなものばかり。
それが逆にウソっぽく見えてしまう。
こんなことが気になってしまうのは、ゆるキャンが、もともとわりとリアリズム重視の作りだったからで、だったら、ちゃんと職業選択にもリアリズムを反映させてようよ、と思ってしまう。
で、極めつけは、そんな自由人の反映のような職業に就いた5人を、キャンプを楽しむ立場から、キャンプ場をつくる立場に、変えてしまったこと。
これって「つくることはエラい」っていう、まさにクリエイターのプライドの反映だよね。
アニメを見るだけなく、つくる側になるのが尊い、という価値観の反映に見えてしまって、始まって1時間を越えたあたりから、どうにもむず痒くなって気持ち悪かった。
しかも、それがあからさまに町興しにかかわるものだからな。
まさか、ゆるキャンで、役所の会議場面が出てくるとは思わなかったし、不自然に聞く耳をもった「よい上司」ばかりで気持ち悪かった。
とにかくね、こんな「幸福な優しい世界」なんてあるわけないじゃん、という気分が途中からもう抜けなくて。
だから、本気でこれは高校生のなでしこがみた夢オチなんだ、って期待していたのに、最後は普通で終わったからなぁ。
さすがに結論も「お花畑」すぎでしょ、これじゃ、ただのカルト映画だよ。
多分、ゆるキャンをこれまで見て面白いと思っていた人が、未来のなでしこたちの物語に期待していたのは、彼女たちが、成人して社会人になってもキャンプを楽しめる大人になっていた、という展開だったと思う。
作中でなでしこも言っていたように、社会人になって使えるお金も増えたのだから、学生時代には行けなかったようなところでキャンプを満喫しよう、というのが、映画としては正解のぷらっとだったのだと思う。
高校生の時には行けなかったという意味では、日本国内であれば、遠方の、それこそ本州の外の北海道や九州、四国、というのでもよかった。
なんだったら、カナダとかアメリカとかの山に5人で1週間くらい行ってくる、というのでも良かった。
とにかく、なでしこたちがキャンプに出かけるというのは大前提で、その上で、キャンプした土地で何を見て何を感じるか、そこに成人して社会人となった見方が投影されればよかったんじゃないかな。
そこに高校生の頃には見えなかったものが見えれば、それが成長であり、わざわざ社会人になった未来に舞台を移したことの理由にもなるし。
こういう、今までゆるキャンを見てきた人たちだったら普通に感じる期待にまずは応えるところから企画を練るべきだったんじゃないかと思う。
だいたい、作中で、なにかの企画を立ててそれをつくる、という展開は、構造的にあまりもメタすぎて、同時にこの映画そのものが作られた経緯とかが幾分かは反映されているんじゃないかと思わされるところもあって。
素直に、なでしこたちがキャンプを堪能する世界を見たかった。
それに尽きる。
どうやら『ゆるキャン△』は3期が計画されているみたいなので、この映画は、文字通りの黒歴史としてなかったこととして葬ることになるのだろうな。
それくらい、取り付く島がなかった。