朝鮮後期の日本と韓国の友好のシンボルは朝鮮からの朝鮮通信使の派遣でした。展示されていた通信使一行の行列絵画は画家がいつも一人随行していたのでその彼が描いたものと推測します。
朝鮮通信使についての「日韓歴史共通教材 日韓交流の歴史」(5月9日の注をご覧ください)の記述を紹介しておきます。
「1636年から1811年まで、江戸幕府の将軍の代替わりなどの際に、祝賀の名目で9回にわたって朝鮮から日本に派遣された通信使は、国交回復後の日本と朝鮮の平和・友好関係を象徴した。日本から朝鮮への使節は派遣されていないが。これは日本の2度にわたる朝鮮侵略以後、朝鮮が日本を警戒して漢陽への往来を禁止したからである。通信使は、『信(よしみ)を通わすことを目的とする使節』の意で両国の対等関係を示す外交形態であったが、その実態は、日本を中心とする華夷秩序の中で朝鮮をとらえる幕府と、自らを中華文化の継承者として位置付ける朝鮮王朝とが、それぞれ相手に対して優越感を背景して成り立っていた」(p150)
「日本国内の旅行中、通信使一行(約500名)は滞在先で、日本の学者、文人、僧侶、医者、画家などの訪問を受け、詩文の応酬や筆談(漢文による)などの活発な文化交流を行った」(p152)
ちょっと注を入れて置きます。この文章では1636年からとありますがすでに1607年から朝鮮王朝の使節がやってきています。その時の名称は「回答兼刷還使」でした。幕府に対する回答と秀吉の捕虜になった人たちを取り戻す使節という意味でした。この使節が3回ありこれらを含めて江戸時代12回の通信使と言う場合があります。また最後の1811年は途中取りやめになっています。
通信使一行は日本各地に強い印象を残しました。1965年雑誌「歴史地理教育」に載せられた知人、西川宏さんの論文を「眼から鱗」で読んだことを今でも思い出します。岡山県の牛窓の「唐子踊り」が現地では神功皇后の「三韓征伐」に由来されているとされているが、本当は朝鮮通信使の行列に由来していることを立証された論文でした。恥ずかしながら多分その時初めて朝鮮通信使の存在を知ったような思い出があります。
ちなみに家永三郎の高等学校日本史教科書昭和51年本には記載がありませんでした。