天山山脈は中央アジア、タクラマカン砂漠の北及び西のカザフスタン、キルギスタン、中国の国境地帯にある東西に2500kmの山脈です。(9月3日と9月30日の地図をご覧ください)北海道から奄美諸島までぐらいの距離です。そこでついでにカザフスタンで見た天山山脈を紹介しておきます。
今まで「中国シルクロード」景観・風景編としては天山北路周辺を紹介していました。前述のように中国シルクロードの主たる幹線は北から天山北路、天山南路、西域南道です。
「景観・風景」としてはあと少し「天山北路」を紹介し、「天山南路」「タクラマカン砂漠」(世界の砂漠)「西域南道」と続く予定です。(9月4日と9月30日の地図をご覧ください)
その後、「食べ物」「変わる中国、変わらない中国」「珍しいもの」「現地ガイド語録」などを紹介したいと思っています。勿論コメントなどによって変更することがあります。ぜひコメントをください。
今回は伊寧(イーニン)(11月1日~11月7日を参照)⇔バインブルグ(9月26日~10月6日を参照)のポプラ並木の天山北路です。
彼は前述のようにアヘン戦争の責任を取らされ1842年この地に流されましたが、恵遠城(11月5日参照)を拠点にし、わずか2年の間にトルファン,クチャ、コルラ、アクス、カシュガル、ホータン(9月4日と9月30日の地図を参照)などを訪れ農地の開墾を指揮(4万3000ヘクタール)しました。当時の交通事情などを考えるとすごいエネルギーです。記念館にはその足跡が地図に書かれていました。
写真は彼がその時利用した車?です。
余談ごとですが、この車を引いたのはラクダ、馬、人?。 聞いておけば、と今になって後悔しています。日本では当時乗り物は車でなく駕籠です。紀元前3世紀の秦の始皇帝は馬車です。日本の古代は牛車でした。それが江戸時代になると人間が担ぐ駕籠になったのは歴史の退化ではないか、と「日本史再発見」(板倉聖宣著)は議論を進めています。これ以上はこのブログの趣旨ではないので省略しますが、駕籠と人力車については後日「外国で見た日本」編で紹介する予定です。
林則徐は清廉潔白の官僚で同時に世界の情勢にも目を向けていた有能な士でありました。彼の西洋研究を継承した魏源の著作「海国図志」はいち早く日本に輸入され日本の明治維新の志士たちに強い影響を与えました。志士たちはこれから「清の覆轍」(清の失敗を繰り返さない)を学んだのです。
林則徐について比較的知られていないことを紹介しておきます。彼はアヘン戦争勃発以前にイギリスのヴィクトリア女王にアヘンの密輸出をやめるように書簡を送っています。その中で清廉潔白の士らしく女王に「 ” in accordance with decent feeling “ ( 私の貧弱な日本語力と英語力では上手く翻訳でいないのですが一応「道徳的に正しく」と訳しておきます)行動されるよう要望します」とあります。
なお、”in accordance with decent feeling “ についてはウイキペディアの英語版からの孫引きです。日本語版ではこの書簡についての記述がありません。 写真は記念館での彼の像です。
アヘン戦争(注)で有名な人物、林則徐(1785~1850)はこの地にゆかりがあります。アヘン戦争の責任を問われこの地に左遷されました。しかしこの地でも善政を施し今でも人々に慕われ彼の記念館がイーニンにあります。(写真)ところが不思議なことに現在の中国の中学校の歴史教科書ではアヘン戦争と彼について詳しく述べられているにもかかわらず、この地でのことが触れられていないのが残念です。
この記念館はこのツアーの予定に入っていなかったので自由時間を利用して同行の有志2人とともに出かけました。
(注)アヘン戦争(1840~1842)
清朝のアヘン禁輸措置(このとき先頭に立ったのが林則徐)から イギリスと清国との間で起こった戦争。清国が敗北し、列強と不平等条約を結び、中国の半植民地化が始まる。日本の明治維新の志士たちにもこのことが強い衝撃を与える。さすがにイギリス本国でもこの「麻薬の密輸」という恥ずべき戦争には後の首相グラッドストンを中心に反対が多く議会では賛成271、反対262の僅差で開戦が承認された。
ウイグル人は前述のようにイスラム教徒なので「アッサーラーム・アレイクム=今日は=原意は平和があなたにありますように」という挨拶言葉が通じるのではないかと思っていましたが、その通りでした。
私の数少ないイスラム教圏の経験によればすべてそうでした。エジプトが最初の経験でした。シリア、レバノン、ヨルダンでは「マルハバ(トルコ語からのようでトルコではメルハバ)(この地域は20世紀初頭までオスマントルコ帝国の支配地でした)」が一般的のようですがこの「アッサラーム・アレイクム」も通用しました。中央アジアのウズベキスタンなどの国々でもそうでした。この中央アジアの国々では別の挨拶言葉もあるのですがこの「アッサラーム・アレイクム」は独特の意味合いもあるようでこのコトバをかけると必ずといっていいほど握手を求めてきました。何か同志的意味合いもあるのではないかとも思いました。中国のウイグル人にも別の挨拶言葉があるようで、それは以前紹介したホータンの現地ガイドのジェレトさんに教えてもらいましたが忘れました。どうもそれのほうが日常的のようでした。
何はともあれ、イスラム教、アラビア語の世界的広がりをこの「アッサラーム・アレイクム」で感じました。
現代中国政府とこの新疆ウイグル自治区の関係についてはインタネット上の百科辞典ウイキペディアの以下の二つの年代記を紹介しておきます。
冷戦時代後
1997 年- 独立派による大規模な暴動や爆弾テロが発生。
1999年5月、国家分裂罪で10人が死刑に。
写真は最も新疆的といわれるカシュガルの旧市街地です。カシュガルについては11月25日を参照してください。