100倍楽しむ海外旅行  時々国内旅行

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歳(終末期後期高齢者)のジジイの53

回の旅行103ヶ国を100倍楽しんだ話 付録で時々エンディングノート

「スペイン・ポルトガル」編 海外侵攻時代12 リスボン2 発見のモニュメント1

2009年08月18日 08時18分06秒 | スペイン・ポルトガル

 ポルトガルのレコンキスタ完了はスペインより早く1249年でした。したがって海外侵攻も早く具体的には1415年の北アフリカのセウタ(現在スペイン領土で北アフリカにある飛び地)侵略に始まります。このようにポルトガルの海外侵攻は最初アフリカから始まります。それはコロンブスが黄金郷ジャパンを目指したのと同じくアフリカの金でした。アフリカの「金」とヨーロッパの関係ついてはこのブログの2007年6月28日に紹介しているので参考にしてください。

 この海外侵略に重要な役割を果たした人物がセウタ侵略にも参加したエンリケ航海王子(1394~1460)です。その没後500年を記念して1960年に作られたのが「発見のモニュメント」です。先頭が彼です。


「8月15日」特別編 タシケントの日本人抑留者

2009年08月16日 08時25分32秒 | ウズベキスタン

昨日8月15日は日本敗戦記念日でした。そのときシベリアに抑留された人たちについては比較的良く知られていますが、ウズベキスタンなど中央アジアにもたくさんの人が抑留されました。2005年11月Ⅰ日、3日、7日にかけてその人たちの足跡を紹介しているので興味のある方はぜひご覧ください。


「スペイン・ポルトガル」編 海外侵攻時代11 リスボン1 1541とアリガトウの怪?

2009年08月16日 08時16分22秒 | スペイン・ポルトガル

 日本がヨーロッパ人と最初に接触したのはポルトガル人であることは誰でも良く知っています。それは1543年種子島に漂着した船にポルトガル人がいてそれが鉄砲伝来にもなります。ところが、ポルトガルの首都リスボンにエンリケ航海王子(後記予定)の500年忌を記念して作られた発見のモニュメントの広場のモザイク世界地図にはポルトガル(にとっての)の日本「発見」年号が1541年になっています。写真をご覧ください。

 「地球の歩き方」には「これはポルトガル船が豊後に漂着した年だ」とありました。釈然としない私は大分県の教育委員会に電話をしてみました。電話に出ていただいた田中裕助さんはきっぱりとその「1541年豊後漂着説」を否定されました。1545年、46年には豊後に居住していたが、それ以前については何らそれを証明するものはないとのことでした。

 さて困りました。鹿児島県の教育委員会、種子島の「鉄砲伝来記念館」にも問い合わせても良く判りません。そこで「日本の歴史14鎖国」(岩生成一著)(p11~13)に以下のことが書かれているのを見つけました。「ヨーロッパ人の日本島発見の年代については***1543年と信じられているが、***じつは***これまでヨーロッパ人の日本島発見の年代については、まだ決め手になるような、決定的な明確な資料は発見されていないのである」として1541年~44年までの諸説が紹介されています。1541年説については「1536年から数年間、フィリッピン群島の南にあるモルッカ諸島の司令官であったアントイオ・ガルバノの『世界探検史』には1541年のこととしている」と書かれています。というわけで私はこのガルバノの1541年説を「発見のモニュメントの広場」は採用したのではないかと今は思っています。

 なおこのことについては「地球の歩き方」の編集部の小坂さんには伝えておきました。 

 ガイドブック”lonely planet”ではどのようになっているかと調べてみると1543年となっていました。ところがその後に”Portuguese brought new words to the language , including pan (bread ) and arrigato(thank you)”(p31)とあるのにはビックリしました。パンのポルトガル語起源はこれまた良く知られていますが、アリガトウがポルトガル語起源とは全く初耳です。「地球の歩き方」編集部の小阪さんにこのことを話したところ彼はそのことをポルトガル人から聞いたことがありますと話してくれました。これまた困りました。 ところがウィキペディアの英語版のJapanese words of Portuguese origin の項目には以下のことが書かれていました。

 「ポルトガル語の“obri gado”が日本語の「アリガトウ」の語源だという説が良く言われているが、これは全くの間違いである。ポルトガルとの接触以前の万葉集にすでにアリガトウの言葉がある」 というわけでポルトガルではこの間違った「オブリガド→アリガトウ」説がかなり広まっているようです。


「スペイン・ポルトガル」編 海外侵攻時代7 グアダルーペ

2009年08月12日 08時27分59秒 | スペイン・ポルトガル

 グアダルーペはレコンキスタ、コンキスタドールの「守護聖母」が祀られている修道院があります。 1300年頃羊飼いがこの地で木彫りの聖母像を見つけたのがこの修道院の始まりとされています。これに祈願したカトリック勢力がイスラーム勢力に勝利したことからレコンキスタの守護聖人になります。その後コロンブスがアメリカから帰国しここにお参りをしてカリブ海の島を奉納してからはコンキスタドールの守護聖人になりました。またコロンブスはインディオをここに連れてきて洗礼を受けさした話は有名です。

 中世から近世にかけては以前紹介したコンポステーラ(2009年5月22日、24日)よりは巡礼の人が多かったようです。現在も南アメリカのカトリック教会の本山的な地位にあります。 

 メキシコのグアダルーペにカトリック教公認の聖母出現譚があります。ここの出店?ですかね。

 なお、このグアルダルーペという名前もファティマ(2009年5月10日、12日)と同じくアラビア語起源(隠された河)というのも面白いですね。


「スペイン・ポルトガル」編 海外侵攻時代4 トルヒーリョ4

2009年08月10日 08時23分02秒 | スペイン・ポルトガル

 このトルヒーリョの街もやはり城塞都市でマヨール広場から少し小山(丘)に登ったところに10世紀にイスラーム教徒の作ったアラブ城がありました。写真はこの城の入口で城門のアーチ形はアラブの名残を残し上部の窓には町のキリスト教の守護聖人「勝利の聖女」が祀られています。


「スペイン・ポルトガル」編 海外侵攻時代3 トルヒーリョ3

2009年08月08日 08時30分57秒 | スペイン・ポルトガル

 こちら側にはエルナンドとその妻のフランシスカの浮き彫りがあります。フランシスカは前述のピサロとイネスの間に生まれた娘です。ということは叔父、姪の結婚というわけです。

 ピサロにはこのエルナンドを含めたくさんの兄弟がいますが、すべてコンキスタドールになります。しかしピサロを筆頭に仲間内の争いが絶えず、無事にトルヒーリョに帰りついたのはこのエルナンドだけでした。 

 なお、インカ滅亡後のインカ女性についは近著「インカとスペイン帝国の交錯」(網野徹哉著、講談社)の「女たちのアンデス史」という章に興味深い記述があります。またこの本は「帝国の内なる敵 ユダヤ人とインディオ」という章もあり大変勉強になりました。


「スペイン・ポルトガル」編 海外侵攻時代2 トルヒーリョ2

2009年08月08日 08時24分55秒 | スペイン・ポルトガル

 このトルヒーリョ(現在の人口9700人)からは600人がアメリカ大陸にコンキスタドールとして出掛けました。このマヨール広場に面してアメリカ大陸で財を成した多くのコンキスタドールの館が建ち並んでいます。その一つがピサロの異母弟のエルナンドが建てたコンキスタ侯爵邸です。エルナンドの息子が国王からコンキスタ(征服)侯爵という貴族の称号をもらったことでこの名前がつけられています。

 この写真(実物も)は見難いですが、ピサロとその妻のイネスの浮き彫りがあります。イネスは滅ぼされたインカ王国の国王アタワルパの先代の国王の娘です。二人の間には子供が出来ますが、まもなくイネスを捨て部下にやります。


8月6日特別」編 コーク広島長崎原爆犠牲者追悼碑

2009年08月06日 08時22分58秒 | アイルランド

 今日はアメリカ合州国が広島に原爆を投下して64年目になります。そのアメリカでも先日のオバマ大統領の非核演説があり世界的に核兵器廃絶への運動が例年以上に盛り上がりを見せています。

 ところでアイルランドのコークに広島長崎原爆犠牲者追悼碑があるのを皆さんご存知ですか。日本でもっとも良く売れているガイドブック「地球の歩き方」にも記載がありません。勿論ツアーコースにもありません。平和活動家を含めてその存在を知る人は殆どいないようです。私は2003年のアイルランド旅行中にコークでこの追悼碑に出会いました。花束まで供えてあり感動の一瞬でした。

 それについて2005年11月11日にこのブログで紹介しているので是非ご覧ください。(左側のカレンダー該当日付をクリックしてください)またそれについてのコーク観光局への問い合わせに対する返事を2007年2月26日に記載しているのでこれもあわせてぜひご覧ください。


「スペイン・ポルトガル」編 海外侵攻時代1 トルヒーリョ1

2009年08月06日 08時17分15秒 | スペイン・ポルトガル

 日本で戦国時代が終わり余ったエネルギーを海外に向けた秀吉の朝鮮侵略があります。スペインでも同じことが起きます。1592年グラナダの無血開城でレコンキスタ(戦国時代)が終わり、その年コロンブスのアメリカ大陸到達します。その後スペインの荒くれ者たちが一攫千金を求めてアメリカ大陸に出かけます。(スペインのカテドラルや美術館などで金ぴかのものを見れば大体アメリカ大陸からの略奪品だと見て間違いないようです)そこで略奪、殺戮のきわみを尽くします。その人たちをコンキスタドールといいます。レコンキスタのレ(再)という字がないが無い征服者というわけです。(コンキスタドールについては2008年1月13日にも少し触れています)

 このコンキスタドールの多くを生んだ地方がトルヒーリヨ、グアダルーペ、カセレス(2009年3月29日地図)などのエストレマドゥラ地方です。 このコンキスタドールの代表的人物がインカ帝国を滅ぼした(1532年)トルヒーリョ出身のフランシスコ・ピサロです。トルヒーリョのマヨール広場(スペインでは街には必ず広場がありその大きい広場を言います)に彼の銅像がありました。

 堀田善衛の「スペイン断章」(p123)は次のように描写しています。

 「鉄の鎧兜に身をかため、細身の長い剣を斜め下に突き出した馬上像である。この馬までが兜様のものをかぶっている。インディオたちはそれまで馬を見たことはなかったそうで、馬それ自体が素肌の彼らにとって今日の市民対戦車のようなものとして見えたのであるらしい。****この馬上像は、異様なことに、あるアメリカ人の女性彫刻家が作ったか、作らせかしたものであった。」


「スペイン・ポルトガル」編 レコンキスタと城塞17 アビラ3

2009年08月04日 08時31分46秒 | スペイン・ポルトガル

 アビラは聖女テレサ(1515~582)が生まれ育った町としても有名です。写真は彼女が生まれたところに建てられた修道院です。カトリックの世界では著名な人物です。先祖はユダヤ教からの改宗者と言われています。 

 また、この地のゆかりの人物としてはユダヤ教徒からの改宗者で悪名高い異端審問裁判所の大審問官(裁判長?)トルケマーダ(1420~1498)がいます。この裁判所は国家権力と協力し、ユダヤ教やイスラームからの偽装改宗者摘発、プロテスタントの排除の機関です。その裁判長でもっとも悪名高いのがこのトルケマーダで2000人以上を死刑台に送ったとされています。ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」に登場する大審問官のモデルになりました。彼はアビラの近くバリャドリッドに生まれアビラで幸せ?に眠りについたそうです。