100倍楽しむ海外旅行  時々国内旅行

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歳(終末期後期高齢者)のジジイの53

回の旅行103ヶ国を100倍楽しんだ話 付録で時々エンディングノート

「韓国」編 日本と韓国36 釜山博物館5 戦争へ動員

2011年06月11日 08時49分26秒 | 韓国

 日中戦争までは朝鮮人は軍隊に入れませんでした。日中戦争が長引くと日本は不足する軍人数を補うために朝鮮の青年を戦場に駆り出しました。1938年には、小学校を卒業した17歳以上の青年を対象にした陸軍特別志願制度を実施しました。戦況が悪化した1943年からは朝鮮人学徒動員が始まり、翌44年にはついに朝鮮人にも徴兵制が適用になりました。

 

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「韓国」編 日本と韓国35 釜山博物館4 供出米増産

2011年06月11日 08時42分50秒 | 韓国

 植民地時代(韓国では日帝時代)の状況を示す資料が展示されていました。時間が限られていたので大急ぎで撮影したものを以下5点紹介します。

 1926年朝鮮総督府(植民地時代統治のために設けられた日本政府の最高機関)は「朝鮮産米増殖計画要綱」を出しています。それは日本国内のコメの供給が不足しいるので朝鮮で増産してそれを日本国内へという計画でした。1920年~22年の平均生産量=1474万石、移出量=295万石ですが、1930年~32年の平均生産量=1713万石、移出量=724万石で明らかに日本本土へ移出は急激に増加し、朝鮮人のコメの消費量は減少しています。(日本・中国・韓国=共同編集「未来をひらく歴史 東アジア3国の近現代史 」p71.「韓国の歴史を知るための66章」p268

 このビラの漢字から読み取れるのは自分たちの幸せのための増産ではなく(日本への)供出米のための増産とあまりにも露骨な呼びかけですね。ひどいですね。大和協力という漢字がありますね。

 戦前、日本人が食べるコメの不足を朝鮮からの供出米に頼っていたことを恥ずかしながら最近まで知りませんでした。

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「韓国」編 日本と韓国34 釜山博物館3 日韓併合条約

2011年06月08日 08時09分34秒 | 韓国

 このような重要な文書がここに展示されているとはビックリでした(本物?コピー?)。そう、1910年の「日韓併合条約」です。なお、「併合」といいましたが、韓国では「国権被奪」または「強占」といいます。しかし、この展示の説明の個所を見ると漢字では「合邦調印文」英語では”An Agreement of the Japanese Annexation” と書かれています。

 この文章の日付、年月日を見ると、「日」の個所の数字が後から書かれたように見えます。8月16日、「併合条約案」を寺内が李完用に渡しているので、その時に「日」の個所の数字が空白で22日当日に二十二の数字を入れたのではないかと私は思います。なぜか寺内の数字が分かりにくいですが、今ではあまり使用されていない「廿二」のようです。日本側の文書でははっきり見えます。 

 国辱なのであまり詳しく書きたくないのか、韓国の高等学校の歴史教科書では非常に簡単にしか触れられていません。(2000年日本語版p397

 この条約について韓国側は当初から違法・無効であるとし、日本側は合法であったが今はすでに(already)無効であるという立場です。

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「韓国」編 日本と韓国33 釜山市博物館2 朝鮮通信使

2011年06月05日 08時16分09秒 | 韓国

 朝鮮後期の日本と韓国の友好のシンボルは朝鮮からの朝鮮通信使の派遣でした。展示されていた通信使一行の行列絵画は画家がいつも一人随行していたのでその彼が描いたものと推測します。

 朝鮮通信使についての「日韓歴史共通教材 日韓交流の歴史」(59日の注をご覧ください)の記述を紹介しておきます。

1636年から1811年まで、江戸幕府の将軍の代替わりなどの際に、祝賀の名目で9回にわたって朝鮮から日本に派遣された通信使は、国交回復後の日本と朝鮮の平和・友好関係を象徴した。日本から朝鮮への使節は派遣されていないが。これは日本の2度にわたる朝鮮侵略以後、朝鮮が日本を警戒して漢陽への往来を禁止したからである。通信使は、『信(よしみ)を通わすことを目的とする使節』の意で両国の対等関係を示す外交形態であったが、その実態は、日本を中心とする華夷秩序の中で朝鮮をとらえる幕府と、自らを中華文化の継承者として位置付ける朝鮮王朝とが、それぞれ相手に対して優越感を背景して成り立っていた」(p150

 「日本国内の旅行中、通信使一行(約500名)は滞在先で、日本の学者、文人、僧侶、医者、画家などの訪問を受け、詩文の応酬や筆談(漢文による)などの活発な文化交流を行った」(p152

 ちょっと注を入れて置きます。この文章では1636年からとありますがすでに1607年から朝鮮王朝の使節がやってきています。その時の名称は「回答兼刷還使」でした。幕府に対する回答と秀吉の捕虜になった人たちを取り戻す使節という意味でした。この使節が3回ありこれらを含めて江戸時代12回の通信使と言う場合があります。また最後の1811年は途中取りやめになっています。

 通信使一行は日本各地に強い印象を残しました。1965年雑誌「歴史地理教育」に載せられた知人、西川宏さんの論文を「眼から鱗」で読んだことを今でも思い出します。岡山県の牛窓の「唐子踊り」が現地では神功皇后の「三韓征伐」に由来されているとされているが、本当は朝鮮通信使の行列に由来していることを立証された論文でした。恥ずかしながら多分その時初めて朝鮮通信使の存在を知ったような思い出があります。

 ちなみに家永三郎の高等学校日本史教科書昭和51年本には記載がありませんでした。

 

 

 

 

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「韓国」編 日本と韓国32 釜山市立博物館1

2011年06月05日 08時10分31秒 | 韓国

 釜山市立博物館には日韓関係についての興味ある展示物がありました。ただしノーフラッシュの写真なので見にくいことをご理解ください。

 「朝鮮時代(13921897)の韓日関係」と題する文章が展示されていました。コンパクトにまとまった文章なので全文を紹介します。

「朝鮮時代の日韓関係は、1404年の両国間の国交樹立から始まりました。しかし、高麗以降も横行する倭寇が無くなることはありませんでした。倭寇の度重なる略奪行為を防ぐために彼らが生活必需品を自由に購入できるように3つの港(釜山、鎮海、蔚山)に倭館(三浦館)を設置しました。倭館には日本使節商人が出入りして外交と貿易活動を行い、船倉・宿舎・倉庫などの多種の施設が整備されました。しかし、1510年の三浦倭乱を契機として両国の関係は悪化し、ついに1572年壬辰倭乱(文禄・慶長の役)が勃発することになりました。戦争終結後両国は再び和解し、朝鮮後期には釜山だけ倭館が設置されて対日外交と貿易が行われました。朝鮮後期の釜山は、日本に向けて開かれた唯一の港として国際都市として成長していきました」

 

 

 

 

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「韓国」編 日本と韓国 31 飛鳥文化と百済14 百済の滅亡5

2011年06月02日 08時25分22秒 | 韓国

  唐と新羅の軍隊に扶余が包囲された時、すでに国家の滅亡を覚悟し、妻子を殺して出陣し、4度戦い、4度勝ち、ついに戦死した階伯将軍の銅像が扶余の目抜き通りのロータリーにありました。

バスを止めてもらって撮影しました。私だけでした(ガイドの説明がないから)。

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「韓国」編 日本と韓国30 飛鳥文化と百済13 百済の滅亡4

2011年06月02日 08時21分48秒 | 韓国

 「百花亭」からみた白馬江です。この川の河口付近で(特定されていない)百済再興の援助のために派遣された大和政権の一万人の兵が唐に敗北します。これが663年の白村江の戦いです。

その後、百済の遺民が大量に日本にやってきました

 

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