隆恩殿という建物です。この文字にご注目ください。左が漢字(中国文字)、中央が満州文字で右がモンゴル文字です。中央の満州文字はモンゴル文字から作られました。なぜモンゴル文字があるのかと疑問があるかもしれません。王朝をさかのぼると清の前は明でその前は元(モンゴル)ですね。すなわち元(モンゴル)は明に滅ぼされますが、モンゴル人の国家が滅亡したわけでなく北方に残存していました。そのモンゴルが1636年に満州皇帝を「モンゴル・ハーン」として推戴します。その後清朝はモンゴルを臣下としてではなく同盟者、皇族に順ずるという対応をします。したがって清朝時代は漢字(中国文字)満州文字、モンゴル文字が公用文字でした。
しかし時代が進むにしたがって漢字が優位になり清朝末期の有名な西大后は満州文字を読めなかったそうです。
皇帝6人目夫人の部屋での雨宿りでした。部屋は比較的狭くこのように台所付きで簡素な感じがしました。
雑談
この清朝に最後まで抵抗して今でも日本、中国、台湾の歴史教科書にも記載されている台湾人と日本人とのダブル(ハーフ)で有名な人が鄭成功ですね。台湾人と日本人とのダブルの蓮舫さんははたして。
瀋陽(旧満州時代は奉天)は満(州)族が建てた中国史上最後の王朝「清」(1638~1912)の故地です。初代ヌルハチ2代ホンタイジがここに都を構えその後北京に遷都します。その宮殿は北京の故宮の2分の1広さです。この日は記録的な大雨、激風でここ瀋陽故宮での観光はかなり省略されました。写真は入り口です。
この店を出たとき慌てて撮ったこの店の看板の写真です。上の字は日本での漢字「読」の中国文字の簡体文字です。毛沢東を読みなさいという意味のようです。ということはこの店は文化大革命を揶揄しているのではなく評価しているのかな?とも思うのですが。
何はともあれこの店は面白いです。ピーナツジュースという珍しい飲み物もありました。参考までにこの店は「向陽屯」です。「地球の歩き方」にも紹介されているので参考にしてください。
長春での昼食のレストランは少し変わっていました。店内の壁にほとんど隙間なく写真や絵画が貼られていました。どうやら文化大革命(注)に関連したもののようです。写真は農村部へ向かう紅衛兵のようです。
(注)現中国のカリスマ・毛沢東が1966年に始め、死去する76年まで続いた政治運動。毛を崇拝する若者が紅衛兵にとなり、暴力的な大衆運動が繰り広げられ、党幹部や知識人などが主に標的になりその死者は数百万人から一千万を超えたと推定されています。私見ですが、現中国では文化大革命そのものは否定的ですが(しかし最近では一部で評価しようとの兆候もあるそうです)カリスマ毛沢東までも否定できないのという矛盾を抱えているように思います。
9月29日の朝日新聞に「世界遺産の街 住民らが守る マリ・ジェンネ 泥のモスク」の表題でマリ共和国のジェンネについての現状レポートが載せられていました。現在この記事にもあるように治安の悪化でこの地を訪れることも難しくなっています。私は2002年にこの地を訪れて2007年9月6日 (モスク)、9月8日(市場)、9月12日阿(子供たち)、9月14日(住宅街)(左日付欄検索)にこのブログで紹介しています。 朝日新聞より詳しいところもあるのでご覧いただければ幸いです。なおマリ共和国全般では「マリ共和国」で検索(右上欄)していただければ「トゥアレグ人」「ドゴン人」などの紹介もしています。写真は2007年には紹介していないジェンネのモスクです。
この写真はハルビンの記念館にあったもので旅順での取調べの様子です。取調べはかなり紳士的であったようでその事情については 2011年6月30日、7月3日、7月6日をご覧ください。そして1910年3月に死刑になります。その後の遺体については種々推測 されていますが、ここでは「中国東北部の『昭和』を歩く」(鄭銀淑著p323)の一節を紹介しておきます。
「安重根は『祖国が解放されたら、死体を故郷に埋めてくれ』という遺言を残した。しかし、旅順監獄近辺に埋葬されたとされる遺体は100年が過ぎた今も、祖国に帰ることなく、遠い異国で眠っている」