風のこたろう

'05年4月6日~'07年4月7日 ウランバートル生活日記
'09年8月~  詩吟三昧の徒然日記

菜根譚

2016年01月21日 | 論語と
学びピアから場所を変えて、二度目の住区センタ―にて、菜根譚とはじめの一歩。

今日は、これまでの復習です。
一度習ったことも、毎回フレッシュに聞くことができる。と言うのは、祖の章句を文字通りにしか受け取ってなくて、須藤先生のお話が、そのたびに胸に染みて、少しずつ理解が進んでいるようだと言っていいのかな。

今日の初めの一歩は、一番熱心な三人の方が残り、そのほかは、芦孝会メンバーと尺八の先生を加えて、9人。

焦点を三人の女性にあてて、お稽古を始めました。
前回まで習っていた吟題をおさらいした上で、独吟をしましょうと言ったら、二人が挑戦。
お一人は、頭高のアクセントの発声がとても美しいので、思わずおたずねしました。
出身は、関西(であるはずがないとおもいつつ)ですか、関東ですかと。「東京です」

なるほど、私には逆立ちしてもできない頭高のアクセントでの読み。
生まれた時から、そのような体の使い方をしていて、言葉に意識のある方は、本当に美しい。

私の詰まった頭高の発声は、根本的に強制せねばならぬ。と、思いつつ、なかなか、成し得ない。
この方の美しい頭高の発声を、私の吟詠を真似することで、濁らせないようにするのは、コーチとしての仕事だと思う。


関西の下から持ち上げすくい上げて発声するアクセントで、物心つく頃から、ゆるりとした体の使い方をしている私には、羨ましい限り。

吟詠のアクセントは、標準語のアクセントで吟詠するには、関西出身者には、難しい人も多いことでしょう。

さて、もう一人。秀逸のの吟詠。良く、練習してくださっているのだろうか、よく、おんげんをきいてくださっているのだろう。
正確で、何より良いのは、楽しげに詠われること。
ありがとう、こんなに熱心に練習してくださって。

4月から、教室の場所が変わっても、参加なされるとのこと、頼もしいなぁ。

もうお一人は、まだまだと、遠慮なさった。
この方は、教室の場所が遠くなると、参加できないとのこと。せっかくだから、何かの蚊の形で、続けたいが、はてさて。
お気持ちの負担のないように、続けるには?





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足立論語の会

2016年01月07日 | 論語と
今年初めの論語。
恒例の「あらたしき」の朗詠があり、さらに「富士山」もお聞きいただきました。

               あらたしき 万葉集巻2,4516 大伴家持

家持最後の歌。
世の中の人々の幸せを念じる家持の心情はすがすがしい。
「新しい年の初めの、初春の今日降る雪のように、良いことが皆様のもとに、次々と積もり増すように祈ります。」


須藤先生は、「欲を少なくして、足るを知る」を説かれます。
もっと、もっとと思ってしまう自分の思いは、上昇志向とどう落とし前を付けていけばよいのか、いつも、問いかけること。
「心の住処」は、見いだせるのかな。

 今日は初心に戻って、文法学習をしています。
漢詩を読みながら、習慣として身のうちに収まっていることを、改めて、学んでみると、漢詩の奥行を感じ、通り一遍の解釈で済ませて、距離を置いていたことが、少しずつ身に迫ってくる。

わかったつもりになっていることの危険を、感じています。

今年も、良き年となるようものごとを、今までより、丁寧に考えてみよう。


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新越谷論語

2015年12月29日 | 論語と

漢文学窓『里仁』の表紙今日のテーマは、表紙、裏表紙の言葉の学びです。

混沌、 成さざるなり、能わざるに非ざるなり、人間 万事塞翁が馬、譲は礼の主(おも)なり、など・・・


一つ一つの言葉は、はじめは知識として入ってくるが、須藤先生は、決して、たくさんの知識を与えようとしているわけではなく、知恵として心に残り、それが花開くことを心から願っていてくださる。
たくさんの言葉を知っているというのではなく、上手に使えて、初めて、学びが生きてくる。

詩吟も、数多く知っていることよりも、一つの漢詩を丁寧に学んで、存分に吟詠できるのを楽しみにしています。

先生と学び教えられながら、心の響く章句に感動し、心が働かせられるようになり、思い溢れて、語るようになる。

天の命之を性と謂う
性に率(したが)う之を道と謂う
道を修めるこれを教と謂う         (中庸より)


らんちのあと、須藤先生の御主人さまの車で、越谷市の花田苑にご案内いただきました。
残念ながらお休みでしたが、隣接の能楽堂の見学ができました。

公園内は、能楽堂付設のお部屋の大きなガラス戸から、見渡すことができました。
日本庭園のたたずまいと、能舞台の静かな空気が、シンと迫ってきて、何かがあふれそうな気がしてきました。

先生のメールには、「実踏」という言葉が使われていました。
先生には、その言葉を使う目論見があったようです。
のほほんと、構える私への、最小限のことば。春風だ。
この春風は、どこに連れて行ってくれるだろうか。私は、どこへ行きたくなるのだろうか。



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菜根譚・はじめの一歩

2015年12月17日 | 論語と
今日の菜根譚

第三木曜日の菜根譚とはじめの一歩の講座は、大きな声を出す詩吟が組み合わさっているため、隣の教室に迷惑がかかるようです。
詩吟を切り離せば簡単なことですが、須藤先生の考えと、詩吟を楽しんでくださっている方たちもいらっしゃるので、大きな声が大丈夫な部屋を借りるために、あれこれ、試みることになりました。

今日は、学びピア近くの住区センタ―に来ています。

この部屋は、隣が学童のような活動をしているので、逆に大きな声がしますよと施設が側から申し入れがあるくらいです。
願ってもない部屋ですが、菜根譚のみ受講される方たちと先生は、どのように感じられたでしょうか。

先月の復習の一つに、耳の痛い内容がありました。心して、須藤先生のお話を聞きました。
何とかなりそうなものや、遠くて手の届きそうもない章句は、心動かされませんが、今、自分の中で、問題視して、届きそうで届かない章句が出てくると、未熟な私は、腹を立てるのです。

そして、自分の心の癖になっているところに、かかわってくると、渦を巻く感情が波立ち泡立ちあふれてしまいます。
それでも、二度、三度と重ねてお話を聞いているうちに、「前回は、はらをたてたねぇ」と、客観視しているところも出てきて、少しずつ、てなづけていっている気がします。




「菜根譚」の書名は、宋の王信民の『人常に菜根を咬みえば、則百事なすべし』によると言われています。

最初の二字 「人常に」と書いてあるのは、菜根を咬む貧苦の生活に堪えうる人物と読み。
      「人能く」は、菜根の味を味わいうる人物という意味になります。


漢字の一時に込められた意味は、計り知れないものがあり、それにかかわる漢詩は、絶句の場合たった28字で、いかに、奥深い意味を表せるのかと、驚きます。

日頃何気なく、吟じている漢詩は、もっと深い意味を持っているはずだから、心して、鑑賞し、それから吟じたら、どれだけ、表情が表れてくるのかを、いまさらに思う。

通り一遍の解釈ではなく、自分の今までを詩の意味に織り込んで、行けたら、すごいことになるなぁ。

そして、今日は、詩吟のほうではなく菜根譚の授業の中で、二つの漢詩の解説と伴奏付き吟詠をご披露するチャンスを得ました。
菜根譚を読んでいると、どうしても、漢詩がよぎり、その漢詩の表現する思いや、情景を自分だけでなく、みんなと共有したいとの須藤先生の思いで、吟詠をと所望されました。

これから、授業の中で、二吟ほど、毎回鑑賞いただくことになりました。
今日の吟題は、「江雪」柳宗元作と「寒梅」新島襄作をお聞きいただきました。
いずれも、東京芦孝会の名手の男性二人で、尺八の伴奏も河下先生にしていただけます。

豪華版の吟詠鑑賞ができるのも、須藤先生のお話と人柄のよさが、意図せずとも人を集めてしまうからです。

拍手喝さいのすごかったこと。
また、来月をお楽しみに。



今日の初めの一歩は、再度32番の音の連なりを白板に五線を引いてマグネットを置いて、確かめました。

先輩の声の支えがあったら、何んとかできるけれど、まだ、一人では不安という状態。
いつも熱心なお二人は、音をとらまえてきつつあります。
その次に、いつも、面白い感性で、質問をしてくださる方が、先輩三人の模範吟を同じ詩でそれぞれの高さで吟じてもらったら、全然感じが違いますと、驚かれました。

吟詠だけでなく、鑑賞ということも念頭においていらっしゃる須藤先生の意にかなった、展開にもなります。

あちこちと、飛びながら、なるべく吟をしたくない人と、声を出したい人と、面白い織りなしで、1時間半の講座が、終わりました。


今日は、面白い感性で、目を開かせてくださる方が他のお三人が、事情で、今回限りというニュースを聞き、がっかりしました。
それも、致し方ないですねぇ。

先輩がたの吟詠を楽しみにしていてくださった方たちでもあるので、残念です。

これで、はじめの一歩から、詩吟を始めた方は、三名残りました。

来年度4月から、新越谷へ教室を移動することになるのですが、この三名の方は、いらっしゃれるでしょうか。
逆に、新越谷だから、来ることができる方も居て、悲喜こもごもになりそうです。

1月と3月は、ここ住区センタ―、2月は学びピアと、ジプシーです。
皆さん、お間違えなく。


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菜根譚とはじめの一歩

2015年11月19日 | 論語と
憂勤は是れ美徳。
太だ苦しめば
則ち以て性に敵い
情を怡(よろこ)ばしむる無し。
淡泊は是れ高風。
太だ枯なれば
則ち以て人を済い
物を利する無し。


心を砕いて勤めることは、結構だが、あまりに苦しむばかりでは、本来の自分の性を養い生きている甲斐がない。
さっぱり無欲も良いが、あまりにも枯れて干からびるのは、世のため人のためにはならない。
どんな道でも程よさ、中庸の精神が大切。


程よさほど、難しいものはない。
「有力の男児は有力に唐黶A文明の才子は文明に酔う・・・」を吟じたくなるのは、それが一番苦手だから。
「中庸」とは、近いようで遠い道。


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はじめの一歩
課題は、「静夜思」
吟法のおさらいは、9≠R。
先生の私よりも、みなさん低音を響かせるので、難なく一番低い音を、出してくださる。
男性の先輩に、9≠Rを中心に模範吟していただきました。

今日は、何度も重ねて習った漢詩ですから、どなたか、独吟をとお願いしてみました。
恥ずかしがりながらも、とても上手に吟じられました。
もうお一方も、思いがけず、吟じていただいて、少しずつ詩吟になってきていることを実感しました。

はじめの一歩の名付けてくださった須藤先生の「明」を思う。

最近芦孝会で練習が厳しくなってきているので、今日の様子をご覧になった会員さんは、あまりに褒め過ぎていると、思われたかしら。

そうそう、今日の、菜根譚で、身内には優しく温かくと説いた章句も習いました。
何度も何度も、そして、それでもわからなければ、何か違う方法を試みて、また別の機会に、やさしく温かく、春風が氷を解かすように穏やかに教育しようね。と。


だんだんと厳しくなってきたのは、一つには、私の学びが足りなくて、会員さんたちとの差がなくなってきた。会員さんたちが私に迫て来たというのもあるのだろう。
ゆとりをもって、ご指導させていただいているうちは、春風のようにのんびりとしていられるのだ。

いつまでも春風で、いられるには、せめて吟詠だけでも、さらにさらに切磋琢磨をせねばと、思う。
切磋琢磨が、足りなくて、間に合わなくなったら、どうしたらよい?
身のほどを知って、先生と偉そうにしないで、同朋として、せめぎ合えばよい?



そう、そして、今日は、2月の施設予約も、他のグループに先を越されてしまって、次は、12月1日の予約に期待することになりました。

仮押さえが不調に終わって、思い切り声の出せない部屋になるもしれません。
詩吟とのドッキングのおかげで、菜根譚の授業の人にも、ご不自由をかけることになりました。
「えーっ」と叫びたい気持ちを、須藤先生がそばにいたおかげで、かなり抑えることができました。

次のチャンスを、頼みにして、苦しみ過ぎないように、楽しみを見つけましょう。
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足立論語の会

2015年11月05日 | 論語と
今日の論語は、文字の説明でした。
論語をよりよく読めるようにと、漢詩に取り組み、詩吟もプラスして、今回は、文字の学習です。

読まない文字、同じ文字でも、前後の文字により、正反対の意味の接続詞となる。

面白い漢文の中での、漢字の使い方は、奥が深そう。
そう言う奥の深い文字をもち、様々な思想や、感情を彩りよく表している漢文を、須藤先生は、ご自身で解明しながら、読みといてくださっています。


論語の講座も、年を重ねるて、何回かお話を重ねて聞くようになると、1回目よりも、2回目3回目となると、理解が進んできたように思います。

章句の説明を聞きながら、先日心動かされた本の著者は、論語を知ってこの文言を書いていらっしゃるのかしらと、思うことがあります。


武士のバックボーンとなった論語は、今では、すべての人のバックボーンとなりました。
人を思いやる気持ちが大事と、言っています。

ごく普通の人が孔子に質問をすると、孔子はその人の理解度に応じた答えを下さったというくだりを読みました。

すべての人に愛をもって接する。これこそが「仁」と説く。
「仁」とは、奥が深く、様々な側面をもって、私の前に登場する。
そのたびに、捕まえたと思ったら、するりと逃げていく。


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新越谷素読を楽しむ会

2015年10月26日 | 論語と
長恨歌がおわり、新しいシリーズ12人の思想家についての始まりです。

今日はその手始めとして、「論語」の章句を唱和しながら、たどる孔子の生涯
     資料として、群馬医療福祉大学「論語の学堂」講演資料
              


孔子の波乱に満ちた生涯は、親の死、最も期待した弟子と、最も心通わせた弟子の死に遭遇しながら、たどる人生の、山あり谷ありの生涯を聞く。

その中で、興味をひき、私にわかりやすいことは、孫の子思に引き継がれていったこと。
子思を教えた曽子は「大学」をなし、子思は「中庸」をなし、子思の弟子の孟子は「孟子」をなした。

論語・大学・中庸・孟子繋がって、四書という。

論語の320番 葉公との問答に親のために何をするかと問われたら、親は子のために、子は親のために隠すと。

そして、曽子、子思、孟子と連なって、「孟子」(尽心章句 上)に、『舜は、天子の位を捨てて、人殺しをした父を背負って治外法権の地の海のそばに隠れ、一生喜んで父につかえ、楽しんで、天下のことなどは忘れてしまうだろう』と。繋がってきている。

また、孔子は教育について、「四つを持って教う。文・行・忠・信。」(述而篇 171)
古典を読み、口先だけでなく必ず実行する、そして、何事にも誠実に、約束を守りましょう。
この四つを守りながら、子に教え語り、伝わっていく、考え方、思い。
2000年余り前に、生まれた人が、これほどの考えを持っていたとは。


孔子から、曽子に、子思に、孫の弟子にと衰えること無く今の世に伝わってきた。


何事にも誠実に、と考えて物事を行うと、人を傷つけてしまうことがあるのは、本当の誠実ではないのだろうねぇ。

大人に対しては、転ばぬ先の杖は、してはいけないのかもしれない。

教え伝えることは、本当は、能動的な作業ではない方が良いのかもしれない。








来月からの本

     「仁の里」′テ代中国の思想家たちのお話ー
               漢文学窓『里仁』須藤 明実著

     「里仁」              須藤 明実著

     「漢文学窓 里仁 教科書」     須藤 明実著


いよいよ、十二人の思想家についての講演が、始まる。













先月の長恨歌の吟詠は、頭が真っ白になって、拍手の音も覚えてなかったけど、録音をしてくださっていたのを聞くと、ちゃんと拍手があった。

そして今日、講演が始まる前の少しの時間に、とても良かったとのおほめの言葉を頂いて、ほんとにそうなの?と、半信半疑だけど、それを信じることにした。
頭が真っ白になっても、漢詩を見ていたから、何とか吟じ終えたんだねぇ。


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菜根譚&はじめの一歩

2015年10月16日 | 論語と
菜根譚 遥か昔にかかれた言葉、日本人には当たり前の言葉、「お先にどうぞ」は、その昔侵略を余儀なくされる世の中で、生まれにくい言葉。
しかし、洪自誠は菜根譚のなかで『経路窄(せま)き処は一歩を留めて人の行くに与え」と説く。

そして、おいしいものを頂いたら、その三分を人に分けようよ。いつでも、何事にも一歩を譲る心がけが大事だよ。と説く。


と、これは、先月の復習。

今日は、洪自誠と陶淵明の漢詩  「飲酒 その五」
飲酒といいつつ、酒を飲むという詩ではないその五を須藤先生のチョイスで、はじめの一歩のメンバーではなく、菜根譚のメンバーに聞いてもらいたいとのリクエストで、男性二人の連合吟、尺八の伴奏付きで、ご披露させていただきました。

心から、詩吟を楽しんでいただいて、詩吟仲間も鼻高々。

詩吟をこよなく愛してくださる須藤先生に、詩吟仲間の吟詠が、たびたびこのような形で取り上げて下さいます。

そして、生徒のみなさんからも、喝さいを頂いています。


はじめの一歩は、「論語・唐詩への誘い」に掲載の漢詩の三番目の漢詩「静夜思」に取り鰍ゥります。
漢詩の読み下しも、スムーズになりました。
一節ずつ繰り返す、練習方法も、慣れてきました。
32番と、8番をマグネットで、音の変化を目で確かめながら、練習です。
32番は、五まで降りてきたら、勢いで、3半まで下がってしまってたのが、きっちりと五で止まるようになりました。

毎回手ごたえが感じられるこの教室です。月に1回1時間でも、続けていれば、上達するものなのです。

来月が楽しみです。







この後は、たまに行く飲み会で、上師範のおめでとうをして頂きました。

私が、あまりに喜ぶものだから、お祝いをせねばという気にさせてしまったねぇ。
それにしても、うれしい、ありがたい。

何よりも、なぜそうも喜んでいるかということの、私の思いをきっちりとわかってくださっての、おめでとうだから、余計にうれしいのだ。

取り仕切ってくださった幹事さんそれに賛同して、はじめの一歩には参加していないのに、はるばる会に合わせてやってきてくださった方。
今日は、予定ではなかったのに、残ってくださった方。

此の処、メンバーさんと新たな親しみをもってきた尺八先生も、参加くださり、大恐縮です。

何気ない会話なのに、みんながうれしくて楽しくて、つい笑い声が出るという心地の良い集まりでした。

ありがとうございました。
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吟詠依頼

2015年10月05日 | 論語と
次回、菜根譚の授業の時に、陶淵明の詩を吟じてほしいと、須藤先生からメールを頂きました。

あいにく、「飲酒」はテキストにないので、詩を送って頂いて、譜付けをしています。

送って頂いた詩は、飲酒その五  
酒をこよなく愛す人に、吟じてもらうことになりました。

飲酒といえば、もうお二方お好きな方がいらっしゃいます。
また、次の機会に、お願いいたしましょう。


この詩の最後の言葉「言を忘る」が心に残ります。
飲酒と言う題で、詩の中には、酒とか飲とかの字がなく、詩作もその五となると、そうなのか。
その1からその4の詩にも興味がわいてくる。
心を俗世間から離して、自然をと共に飲む酒を著しているのだなぁ。。。と、想像する。

当日の先生の、菜根譚とこの詩との関連とを講義の中でどのように話していただけるのか、とても楽しみです。


長い詩の吟詠は、連吟、連合吟の手法があります。その他、夫婦吟といって、男女で行うものもあります。
高さを低い方に合わせたり、オクターブの音程で吟詠する方法もあります。
男女となると、お楽しみ感覚になり、夫婦吟であれば、イメージはよいのです。
男勝りの吟詠をするからといっても、やはり、男女で並んでの吟詠は、聞く側にとっては、すでに、自分の中でイメージがあるからなぁ。。。
あれこれ考える。

先生は、次々と興味を掘り起こしてくださるなぁ。



   飲酒   陶淵明

  廬を結んで 人境にあり
  而も車馬の 喧しき無し
  君に問う 何ぞ能く爾るやと
  心遠ければ 地自ずから偏なり
  菊を采る 東籬の下
  悠然として 南山を見る
  山氣 日夕佳く
  飛鳥 相興に還る
  此の中に 眞意有り
  辯ぜんと欲して已に言を忘る



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足立論語

2015年10月01日 | 論語と
今朝は、昨夜泊まった娘と、中国の柳洲の爆破の事件をニュースで見ました。娘が2年間派遣されていたところなので、なじみの場所も映像に出ていて、驚いていました。
こんな時、スマホで情報収集ができて、便利なのだが、昨夜の話の続きをしたくても、スマホから目を離せない娘でありました。
しかたない、娘はもう母との会話は、じゅうぶんなんだね、では、行ってきます。と言ったら、顔は下を向いたまま、「いってらっしゃ~い」ときた。



今日は、学びピアの12月分の教室予約の日なので、早めに出かけました。
第三木曜日は詩吟の声の関係で、第五研修室を取りたいのですが、取れませんでした。
それで、住区センタ―へ行って、部屋の予約をしました。

この部屋は、同じフロアに、幼児のためのスペースや学童保育の部屋があるためすごくにぎやかな時があるそうです。今日は、お借りする部屋を覗かせていただくと、センター主催の習字教室をしていました。

菜根譚の講話の時に、どの程度の影響があるかは、やってみないとわかりません。また、にぎやかな詩吟はお互いさまということです。

環境と予約の取りやすさとで、しばらくここを使ってみようということになりました。


今日の論語。いつもは、先生と一緒に素読をしていましたが、今回は、生徒さんの一人が先導をして、それに、全員が唱和する形をとられました。
皆さん、一人で発声の時も臆することなく、素読ができました。
ことに、最近入会された外国人男性の素読は、どうに入っていて、皆、一用意驚きました。
ゆっくり確実にひらがな読みではなく、ちゃんと意味がわかっていらっしゃる様子です。

どういう経歴で、論語を学ぶことになったのか、興味の湧くところです。

さて、月曜日の長恨歌が、不出来だったので、反省しきりのこの二日間でした。
拍手がなかったと思いこんでいましたが、そうではなかったらしいのです。


終わった後、月の世界に出も行っていたかのように、私の耳は、音をとらえてなかったようです。

とても、大きな拍手を頂いていたのだそうです。

信じられませんが、そうだったのだそうです。

キツネにつままれたようで、解せないのです。

そうなの?

はるばる東久留米からいらっしゃった方に、とんでもないものを聞かせてしまったと申し訳ない思いでいたのに、一生懸命褒めてくださった方は、慰めではなくて、本心だったということなの?

須藤先生のそばで、吟詠をするときは、心解放されて伸びやかに吟詠ができていたのに、その日は、いまいちのりが悪く、最高音が出ていなかったし、もし、詩を持っていなかったら、絶句していただろうに。
その吟詠が、良かったの?
自分の吟詠を冷静に聞くことが、出来ていないのは、いつものことだけれど、こんかいは、あまりに、変だ。


ちょっと気を取り直してみたものの、う~~ん。

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