風のこたろう

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'09年8月~  詩吟三昧の徒然日記

漢文学窓『里仁』新越谷

2016年05月23日 | 論語と
12人の思想家について、4月からの学びが始まっています。

今日は、墨子   
     須藤明実著 漢文学窓『里仁』教科書  
           『仁の里』古代中国の思想家たちのお話


先生の著書を教科書に、読み進めます。

今日の学びは、墨子の「非攻」と「兼愛」
  戦わないことそして、人を愛すこと。
 
チャップリンの映画「殺人狂時代」で訴えたかったことは、非攻。
兼愛とは、博愛と違い、平等に愛し合いお互いの利益のために尽くそうという考え方。


孔 猛 老 荘に比べれば、無名に近い墨子を良く読んだ、チャップリンとトルストイ。
トルストイは、兼愛について、繰り返し読んだそうです。

墨子は単なる平和主義者ではなく、行動する人だったそうです。
その様子をあらわすて、「墨子暖席なし」といわれ、現代の席の温まる暇もないとの言葉へとつながっています。

もう一つ、「墨突黒まず」(墨子の家の煙突は、黒くなるときがない)という言葉も生まれ、生涯戦いと、行動の一生だったそうです。

憎めば憎まれ、愛せば愛されるという、兼愛の思想は、今こそ学び生かされるべき思想哲学と言えるのではないかと思えてならないのですが、いかがでしょうと、先生は結びました。


今、まさに、思い悩んでいることも、兼愛の思想を深く学び、自分なりの結論に導くことができたらと思うことがあります。

しかし、愛しきることもできないのに、憎み切ることもできず、憎み切ったら、愛に変化するだろうか、それとも、戦うしかない方向に行ってしまうだろうか。

その戦いを憎む人がいて、何事も、穏やかに、納得して事を進めていくとなると、凡人には悩みが増えてしまう。
ただ、戦いに発展しない方を選ぶことは、とても難しいのですが、大事なことのように思います。

戦いと言っても、私の生活圏では、賛否を問うということくらいなのだけれど、これさえしないという出来事がありました。
決裂を避け、歩み寄れるまで、考え抜くという姿勢は、尊い。
戦うよりも、辛く長い道のりになるのだろうねぇ。


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菜根譚

2016年05月19日 | 論語と
菜根譚の4月からの再スタートは、先生の卒論にわかりやすい解説を加えての資料が、テキストです。

先生が、菜根譚読みといた20代の年齢で、私は、どれほどのことを書物から得ていたことだろう。

文字は、大きなエネルギーを持っているのに、その力の百分の一も、受け取ることができなかった私の20代。

今になってやっと、それではもったいないよ、まず言葉を伝えよう、思いを伝えよう。
そして、その思いを実現し、強化するのに、書物の中の文字が手助けしてくれることがわかってきた。

自分の思い込みだけでなく、先人の深い考えを、こうして先生が、わかりやすく伝えてくださるおかげで、開眼し、ともすると傲慢が頭をもたげてくるのを、控えることができる。


その上に、更に、人の思いをよく観察して受け取る能力をつけ、そして、自分の思いを伝えるには、押し付けるのではなく、それ以上に、他者の思いを良く受け取って、良きことは広く浸透させられるようになったらと、つくづく此の処思うのです。


もう少し、パイプ役としての機能を十分に果たしていたら、もっと違った展開になったはずだったのにと、歯がゆ思いをする出来事があって、力のなさに思い至りました。



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足立論語の会 5月

2016年05月05日 | 論語と
今月の漢詩は、「修学」Taさんに吟詠をしていただきました。

吟歴の長い方ですが、はじめの一歩にかかわるようになってから、今日までの間に、吟詠に味が出てきて、上手になったという言い方は、年長の方に対して失礼は承知なのですが、私だけでなく、周りに方々も驚くばかりです。

声の良さと喉の強さとで、ぐいぐい押してくる吟詠でしたが、年の功をにじませて来られました。

はじめの一歩では、超初心者のバックアップをしているだけで、たまに授業の後、会場はまだ1時間使用ができるので、その場を借りて、ちょっとした練習をすることもありましたが、それにしても、驚くばかりです。

「初心者に対して、どのように接したら?」という明確なテーマがあって、参加なさっていましたから、ご自身のことはあまり考えていなかったと思います。
吟詠に対して、前向きでいることが、この、素晴らしい結果につながったのかと、思うと、とても興味深いことです。

それとも、誰も知らないところで、特訓?


さて、今日は、祭日と言うこともあって、出席者は、かなり減りました。

それを承知で、須藤先生は、一人でも来てくださる方がいるならと、お休みにすると言う選択肢は、全くないのです。
今日は、黴子篇の箇所の論語物語(下村湖人)を読む。
次は、熟語からのアプローチで論語を読む。

熟語と言うと、衝撃的に聞いた「大器晩成」決して褒め言葉ではないということがわかって、今は、つい口を滑らさないように気を付けています。
晩=不である。と言うことが、何人と言えども、異国の書物や文字に対する時、正しく解釈し、正しく伝えていくことが、本当に難しいことと、わかります。

母国語であっても、読む人によっては、真逆の読み取りをする場合もありますから、まして、外国語をや。

間違ったまま、日本で、自由に闊歩している物事って、たくさんあることでしょうね。





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新越谷須藤先生の会

2016年04月25日 | 論語と
天籟』  有るがままに調和している様子、荘子の理想とした境地。
    
そして、「天籟を聞く」とは、自他の区別を忘れ、無心になり切り、自然のリズムと一つになること。
漢文学窓『里仁』教科書(208頁)を手に、須藤先生が、読み解く「荘子」論。


荘子は、人間が「知」と言うものに拘束されて、自然から遠ざかっていると言う。
作為を捨てて無心になりきると、限りない調和の世界に入ることができるのだという。

作為を捨てることがどれだけ難しいことか。
自然にふるまっているつもりでも、自分の心を覗くと、恥ずかしいことに、作為まみれの自分に気づく。

傍若無人でも、自分のあるがままに行動することのほうが、「良し」なのだろうか。


天籟の前に、人籟と言うのがあって、これは、楽器の音とも、人が奏でる声とも言います。

地籟は、地上のうろが風を受けて鳴る響きです。

大地が息をすると、風が起こり、地上のあらゆるうろは一斉に音を発する。


ということなら、人も、うろを内に抱えていて、そのうろに風を吹き込むことによって、音を奏でていることになる。

有るがままに調和して奏でられる音すなわち声は、どれほど、人の心を喜ばせるのだろう。

まてよ、大地と違って、人のうろには、なかなか自然に風は吹きこめないねぇ。
人間にとっての風は、何のことだろう。

いずれにしても、人間に吹き込んだ風が、体のうろをめぐって、声帯を通るとき、風の音としてではなく、歌としてでてくると、もうそれは、作為になるのかなぁ。

此の処、立て続けに、民族音楽や民族の声を耳にしてきたけれど、あれは、人籟だったのだなぁ。
特にシャングリラでの、人の声は、あるがままの発露が周りのものと調和して、心を揺さぶるものであったのだけれど、それは天籟と言っても良いのだろうか。違うのかなぁ。


「知」によってコントロールされて、一見平和に見える身の周りは、本当は、悲劇の一幕なのかも。


一見、知的にコントロールされているように見える世界でも、実は、情によって、回っている世界もある。

自然のリズムとは、無心であることで、調和し、体にしみこむ。

「無心であること」と論じることすらもうそれは、無心からほど遠いものになってしまう。



須藤先生の語る言葉を、今の私は、このように思いをめぐらして、すべて、詩吟のことにおき替えて考える。

すると、苦しかったことが、消えたり、心の問題だけでなく、発声のメカニズムについても、答えが出てきたりして、心と体とはぴたりと張り付いているものなのだと、不思議に思う。


有るがままの調和を手にするには、とてつもない時間がかかるなぁ。



 
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菜根譚とはじめの一歩

2016年04月21日 | 論語と
4月の新しい出発です。

新越谷に場所を変えて、新しいメンバーも迎えて、始まりました。

解放的で明るい会場は、心地よく、集中が途切れそうになったら、外を眺められます。

菜根譚の新しい資料を頂いて、新しいスタートです。


書物を読んでも、聖賢の精神に触れなければ、文字の奴隷に過ぎない。
学問を講じても、実践が伴わなければ、口先だけの修業に過ぎない。


須藤先生よりの学びを実践につなげられる日は、ちょっとまだ先のことのようですが、学びをすることが、今は何よりの喜び。
先に、來るはずの、実践のできるようになる日を楽しみに。


はじめの一歩は、新会場になって、5人の新人さんを迎えました。
そのお一人は、男性。

ゆっくり、のんびりの方法で行くことは伝わったようです。
声を出すのは、なかなか、勇気のいることです。
吟友が、後ろから声とエネルギーの後押しをしてくださるのが、なによりの応援です。
祖の応援は、新人さんの恥ずかしさを取り去ることだけでなく、私への、大きなエールとなります。

また、緩やかに、新しい一年が、はじまり、伸びやかに続きますことを祈っています。

今月は、良寛の「意に可なり」をお二人の合吟で、お聞きいただいています。
先生の講座にすべて出ている人は、一か月にテーマ吟を三回聴くことになります。

漢詩は、作者の思いの凝集されたものが表されるものだから、研究していけば、必ず漢詩が出現し、その漢詩を是非吟じていただきたくなるとは、須藤先生のお言葉。


関吟テキスト巻頭言「前略~ その意を悟り、その義を楽しむに至りて完きなり。楽しめばすなわち生ず。詩中の景、詩中の情、油然として其の心に生じ来たりて、己れ遂に詩中の人となる。これを同化という。吟詩の妙味ここにあり、修養の道も亦ここにあり。われ諸君とここに従事せん。 初代会長藤澤黄坡遺文」


吟界だけでなく、論語と須藤先生の世界にも、このことを体現できる機会を頂いて、なんて幸せなことでしょう!




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足立論語の会

2016年04月07日 | 論語と
今日は、より論語の理解を深めるために、漢字をどう読み、理解するかについて、懇切な講義を頂きました。
これは読まない「而」と、なんとなく納得していた文字に焦点を当てて、説明をしていただくと、文字の表す意味が、より深い文章への理解へと、導いてくれます。

なんとなくわかったつもりは、もったいないことをしていたなぁ。

漢詩の理解についても、テキストの説明解説では、同じ感性ではないがゆえに、わからなくて、捨て置かれた漢詩もある。


そんな、私の漢詩への関わりに開眼させてくださったのも、須藤先生である。

このところ、漢詩へ寄り添いたいという思いが出てきて、吟詠にも良い影響が増えています。


気づきを与えられ、心が動いて、さざ波がおきて、その先は、どうなるのかな?

年を経てもこんなさざ波が起こるなんてね。

うれしい、ありがたい。


須藤先生は、はじめの一歩を高く買ってくださって、力強いバックアップを続けてくださっています。

次回の、菜根譚とはじめの一歩の場所の変更をお伝えするうえで、はじめの一歩についても、心を込めて、紹介くださいます。
おかげで、近い将来、参加したいとの表明をしてくださった方が、出ました。

ゆとりができましたら、是非に、参加下さい。異色の方なので、すでにいる方たちへの刺激にもなることでしょう。








初めの一歩は、1時間余りの時間のため、超初心者対応から抜け出ることができないでいます。
そろそろ、脱却したい方も出てくるかもしれません。
今のまま、変わらずにと思うでしょうか。

細々と、途切れ無く続けるつもりでいますが、何かの形で、会を太らせるか、あるいは、別の道を考えるか。
そんな時が来るのかもわからないけれど、ふと、お先走りの夢想をしてしまいました。


もし、その時が来るようなことがあったら、お仲間と相談し足り助言を頂いたりして、より良い方に向くように考えましょう。

選択肢の一つとして、そのような機会が訪れたとしても、今のままと言うのもありです。


会が大きくなったり増えたりすることに、あまり意義を見つけられないし、まず、私にその力量が不足している。
その場合は、どなたかに委ねることも考えねば。

あくまでもこれは、夢想。

あ、そうか、この夢想のきっかけは、特徴ある方の入会するかもしれないとの言葉からだな。



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菜根譚

2016年03月17日 | 論語と
1年間のシリーズで、始まった菜根譚、3月の今日、締めくくられました。
来月からは、新越谷に場所を変えて、また新しい一年が始まります。

場所が変わって、去る人、加わる人がいるはずです。
今日からやっと暖かくなって、春が来る。

今年は花が早そうです。


施人毋責其報  (人に施しては其の報いを責むること毋かれ)

何かをしてもらって、その対価はいらないよ、でも、ありがとう戸いう感謝の言葉は忘れなくと言うのは、これに当てはまるのだろうか。

ありがとうの言葉も、「報い」と考えるのだろうか。


とすると、洪自誠さん、私はどう考えたらいいのですか?


何かしてもらった時、其のことに対する対価を支払うのは、当たり前のことなのだけれど、ビジネスではない場面では、いやいやビジネスの場面でも、対価として相手に動いていく、エネルギーは、お金か、物か、心にとって代わる言葉なのか、はたまた黙って行動することなのか。


そのどれも、無しなのか。
 

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新越谷論語の会

2016年02月22日 | 論語と
須藤先生が主宰されている論語あるいは素読あるいは菜根譚などの教室は、数多くありますが、その内の月に3回、三か所で開催されている教室に参加させていただいています。
その三回の学びの中に、漢詩を取り入れ、その漢詩の吟詠鑑賞が習いとなってきました。

今日は、荀子の性悪説のお話でした。
孟子の性善説と対で語られることが多く、相対しながら学問が進んできたのかと思っていたら、孟子と荀子は、重なることがなかった。

そして、性善説があったから、性悪説を唱えたのかと思ったら、そうではなかった。

理想主義の孟子に対して、荀子は現実主義だった。


だから、性悪説が生まれたのだとわかる。

善と悪という感じが並ぶと、正しいのと正しくないの、正と負と感覚ではとらえてしまうが、須藤先生のお話を聞いていると、その、対立した考え方、白か黒かと分けてしまうことのほうが、難しく、無理があるとわかってくる。


学び始めると、面白いことがどんどん出てくる。
簡単に、物事を決められなくなる。
今までの、価値観が、薄っぺらいもので、もっと、学び考えたら、厚みが出て、陰影がついてくるなぁと、楽しみになる。


さて、今日は、新越谷の方たちにも、菜根譚とはじめの一歩の、告知がなされました。
今日と同じ会場に、第三木曜日の須藤先生の講座が引っ越してくるからです。

さて、何人の方が、参加してくださり、詩吟にも残ってくださるやら。

須藤先生の講義は好きだけど、詩吟まではねぇとか、教えを乞うには私では物足りないねぇという方もいらっしゃることでしょう。

また、今まで参加できていても、場所が変わって、遠くなる方は、来たくてもいらっしゃれなくなるかもしれません。

すべて良しの方向は、無理だから、与えられた環境で、あるがままに進むしかないねぇ。


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菜根譚 

2016年02月18日 | 論語と
菜根譚 前集139項 

得は際の主、際は徳の奴なり。
才ありて徳なきは、家に主無くして、奴、事を用うるがごとし。
いかんぞ魍魎にして猖狂せざらん。

「人格は、主人。才能は、才能を支配する主人公。
才能ばかりで、人格が備わっていなければ、主人のいない家で、勝手に召使が振舞うことと同じ。その人の心は、百鬼夜行。果てなく乱れるのもしょうがあるまい。」


深い学びの言葉です。もう少し、こなれてからでないと、自分の言葉を繰り出すことができませんので、先生のレジメをすっかりコピーさせていただきました。

「自らの才能だけにもたれかかって、確固たる立場の確立に努めようとしないのは、知らず知らずのうちに邪道に迷いこまざるを得ない。」


私など、才能もないのに、汲々とし、心豊かにあることを忘れがちになるからねぇ。
少しずつ、須藤先生の教えを受けながら、「仁」の心を少しでも理解し、少しでも手に入れたいものです。

自分の様子を振り返ってみると、「奴」の過剰に動く様を容易に思い浮かべられて、苦笑するしかないのです。

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新越谷素読論語の会

2016年01月25日 | 論語と
新越谷素読論語の会混年最初の会が、新越谷で開かれました。

訳あって、遅刻して、大変にご迷惑をおかけしました。
そんな時、先生は、鷹揚に臨機応変を発揮して、語る内容を瞬時に判断して、対応して下さってました。

年の初めの須藤先生のそれぞれの会で、「あらたしき」大伴家持と、富士山を吟じさせていただきました。


皆さん本当に、喜んでくださるのが、うれしい。
一番前の席で、どうかすると、須藤先生が、一番喜んでいらっしゃるように、見える.


遅刻は、私の時間ではなく、私以外の人の時間を奪うということ。

小さな、わだかまりで、動揺をする私の小さな心は、可愛いこと。

揺れは、少し待てば、収まるでしょう。

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