自伝を読んでいて思うのは、やはり、ドラッカーは恵まれた人生を生きてきたと言うことである。
まず真っ先に思うのは、世紀末の様相を呈して崩壊寸前ではあったが、オーストリー・ハンガリー二重帝国の首都ウイーンに生まれ育ったこと。
当時、ウイーンは、芸術的にも、そして、文化・学術的にも、世界の中心の一つであり、ここで、政府高官の父親のお陰で、最高のウイーンの生活と息吹を呼吸しており、また、世界最高の英知であるフロイトやシュンペーター等に会っていることである。
その後、ドラッカーは、何を臆することもなく、ドイツやイギリス、そしてアメリカで、新生活を切り開いて生きて行くのだが、この力になったのは、やはり、ウイーンでのバックグラウンドあったればこそだと思う。
思想家、経営学者、文筆家としてのドラッカーについては後にすることにして、私が興味を持つのは、何度かの移住に伴うドラッカーの危機予知能力と判断力の卓越さ、その嗅覚とそれに伴う決断力と行動力である。
ウイーンの退屈なギムナジウム生活から開放されると、安易なウイーン大学進学を拒否し父の期待を裏切って、疲弊し荒んでいたウイーンを見限って、ハンブルクの貿易商社の見習いとして移住する。
1933年、ナチスが政権をとり、フランクフルト大学にユダヤ人排斥が始まると、即刻脱出してイギリスに移住する。
1939年、ドリス夫人と結婚すると、結婚後の女性の就業を認めないイギリスを見限って、英国より厳しい不況下にあったアメリカへ移住する。
最後のアメリカ行きは、ドリス夫人との生活の為であるが、ナチスのオーストリー併合後、アメリカの移民受け入れ政策が緩んで、既在住都市の無犯罪証明さえあれば、入獄ビザを貰えた幸運にも恵まれている。
しかし、知的刺激がなくなれば、或いは、自由や平和が脅かされれば、後先を考えることなく、即刻脱出を決断して生活の場を移す、ヒットラーの危険を逸早く感得したことも然りで、やはり、世紀末的な自由でリベラルなウイーンの環境で育ったドラッカー特有の嗅覚のようなものが働いたのであろうと思っている。
興味深いのは、あれだけ思想家、文筆家として偉大なドラッカーが、学位は持っているが、全く正規な高等教育を受けていない独学の学究であること。
ドラッカーは、毎週金曜日の夕方には、ケンブリッジ大学へ行って、ケインズの講義を聴いていたと言うが、ハンブルク大学の時も、フランクフルト大学の時も、一度も授業を受けておらず、図書館等で独学で勉強をして学位をとっている。 ドラッカーには、特に、師はいない。
しかし、ドラッカーがケインズとともに、20世紀最高の経済学者と言う同郷のシュンペーターには、ドラッカー経営学の根幹をなすイノベーション理論の多くを負っている。
私は、アンテルプルヌール・企業家精神を経営者の使命として経営学を説くドラッカーこそ、正に、シュンペーターの忠実な信奉者であるとずっと思っているし、これが、ウイーンでの接点でもあると感じている。
ドラッカーが語っているケインズの授業風景で面白いのは、ケインズが数字を使わずに話し続け、ユダヤ人の数学者が数字を書き続けて3時間くらい講義が続くと言う話、授業の後は劇場に繰り出して、ケインズの妻・美しいロシア人バレリーナの演技を深夜まで楽しんでいたと言う話、とにかく、大らかな良き時代だったのである。
ガルブレイスが留学までして憧れたが果たせなかったケインズの講義の受講、ドラッカーは何の苦労もなく楽しんでいたが、ケインジアンに成りたいとは思わなかったと言う。
講義を聴きながら、ケインズを筆頭に経済学者は商品の動きばかりに注目しているのに対し、自分は人間や社会に関心を持っていることを知ったと言う。
経済に興味を失い、ドラッカーが、経営学に移行する瞬間だったのかも知れない。
まず真っ先に思うのは、世紀末の様相を呈して崩壊寸前ではあったが、オーストリー・ハンガリー二重帝国の首都ウイーンに生まれ育ったこと。
当時、ウイーンは、芸術的にも、そして、文化・学術的にも、世界の中心の一つであり、ここで、政府高官の父親のお陰で、最高のウイーンの生活と息吹を呼吸しており、また、世界最高の英知であるフロイトやシュンペーター等に会っていることである。
その後、ドラッカーは、何を臆することもなく、ドイツやイギリス、そしてアメリカで、新生活を切り開いて生きて行くのだが、この力になったのは、やはり、ウイーンでのバックグラウンドあったればこそだと思う。
思想家、経営学者、文筆家としてのドラッカーについては後にすることにして、私が興味を持つのは、何度かの移住に伴うドラッカーの危機予知能力と判断力の卓越さ、その嗅覚とそれに伴う決断力と行動力である。
ウイーンの退屈なギムナジウム生活から開放されると、安易なウイーン大学進学を拒否し父の期待を裏切って、疲弊し荒んでいたウイーンを見限って、ハンブルクの貿易商社の見習いとして移住する。
1933年、ナチスが政権をとり、フランクフルト大学にユダヤ人排斥が始まると、即刻脱出してイギリスに移住する。
1939年、ドリス夫人と結婚すると、結婚後の女性の就業を認めないイギリスを見限って、英国より厳しい不況下にあったアメリカへ移住する。
最後のアメリカ行きは、ドリス夫人との生活の為であるが、ナチスのオーストリー併合後、アメリカの移民受け入れ政策が緩んで、既在住都市の無犯罪証明さえあれば、入獄ビザを貰えた幸運にも恵まれている。
しかし、知的刺激がなくなれば、或いは、自由や平和が脅かされれば、後先を考えることなく、即刻脱出を決断して生活の場を移す、ヒットラーの危険を逸早く感得したことも然りで、やはり、世紀末的な自由でリベラルなウイーンの環境で育ったドラッカー特有の嗅覚のようなものが働いたのであろうと思っている。
興味深いのは、あれだけ思想家、文筆家として偉大なドラッカーが、学位は持っているが、全く正規な高等教育を受けていない独学の学究であること。
ドラッカーは、毎週金曜日の夕方には、ケンブリッジ大学へ行って、ケインズの講義を聴いていたと言うが、ハンブルク大学の時も、フランクフルト大学の時も、一度も授業を受けておらず、図書館等で独学で勉強をして学位をとっている。 ドラッカーには、特に、師はいない。
しかし、ドラッカーがケインズとともに、20世紀最高の経済学者と言う同郷のシュンペーターには、ドラッカー経営学の根幹をなすイノベーション理論の多くを負っている。
私は、アンテルプルヌール・企業家精神を経営者の使命として経営学を説くドラッカーこそ、正に、シュンペーターの忠実な信奉者であるとずっと思っているし、これが、ウイーンでの接点でもあると感じている。
ドラッカーが語っているケインズの授業風景で面白いのは、ケインズが数字を使わずに話し続け、ユダヤ人の数学者が数字を書き続けて3時間くらい講義が続くと言う話、授業の後は劇場に繰り出して、ケインズの妻・美しいロシア人バレリーナの演技を深夜まで楽しんでいたと言う話、とにかく、大らかな良き時代だったのである。
ガルブレイスが留学までして憧れたが果たせなかったケインズの講義の受講、ドラッカーは何の苦労もなく楽しんでいたが、ケインジアンに成りたいとは思わなかったと言う。
講義を聴きながら、ケインズを筆頭に経済学者は商品の動きばかりに注目しているのに対し、自分は人間や社会に関心を持っていることを知ったと言う。
経済に興味を失い、ドラッカーが、経営学に移行する瞬間だったのかも知れない。