熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

芸術祭十月大歌舞伎・・・双蝶々曲輪日記「引窓」

2005年10月10日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   京都と大阪の間、木津、桂、宇治の三川が合流して淀川になる京都盆地の切れ目にある八幡、岩清水八幡宮の側がこの芝居の舞台である。
   京阪電車の車窓から小高い岡の上に八幡宮が仰げる。この辺りからがらりと気候が変わる。
   
   5歳で里子に出した力士濡髪長五郎(市川左團治)が、殺人を犯して逃亡中死ぬ覚悟で実母・お幸(澤村田之助)に暇乞いに来るが、本当のことを言い出せない。
   そこへ、亡夫と先妻の子・南与兵衛のちに南方十次兵衛(尾上菊五郎)が、浪々の身で町人になっていたが代官に取り立てられて侍姿で帰って来る。母お幸と女房お早(中村魁春)は喜ぶ。
   一緒に来た侍から、長五郎が、殺人で追われる身である事を聞かされて、お幸とお早は動転する。
   何も知らない十次兵衛は、庭の手水鉢に写る2階にいる長五郎の顔を見て、気色ばむが、母お幸が手配の人相書きを、爪に灯を燈して永代供養の為に貯めた金子で買いたいと伏し拝むのを見て総てを悟る。
   気を利かせた十次兵衛が見回りにと言って出た後、お幸は、出てきた長五郎に逃げるよう説得するが亡夫に義理が立たないだろうと言われて非に気付き引窓の紐で縛って十次兵衛に引き渡す。
   十次兵衛は引窓の紐を切り、射し込む月明かりに夜が明けたと言って、自分の詮議の役目は夜のみなので放生会に事寄せて長五郎を逃がす。

   この段のポイントは、やはり引窓が舞台の展開に重要な役割を果たしていることである。
   今でも、奈良や京都の古い文化財的な日本の民家を訪れると見られるが、本来は、竈の上の煙逃しで、換気用であるとともに明り取りでもある。
   この段では、手水鉢に写った長五郎の顔を隠す為に、お早が、咄嗟に引窓を閉めるが、夜は十次兵衛の役回りと気付いてすぐに引き上げる。
   次は、お幸が、長五郎を縛る時に引窓の紐を使う。
   この紐を切って、十次兵衛が、月明かりを入れて夜が明けた、自分の役割は夜だけと言って長五郎を逃す。
   十次兵衛の長五郎詮議の役割を夜に限っていたことと、この引窓から差し込む光を夜昼に見立てた所にこの段の眼目がある。

   しかし、これ等はあくまで舞台設定の為の仕掛けにすぎず、主題は、義理人情の機微、特に、親子の情愛が痛いほど胸を打つ。
   母親お幸への3人三様の思いやりと愛情、そして、お幸の義理と実の子への愛情が、実に繊細に描かれている。
   正に、このお幸の役は、人間国宝・田之助の独壇場で、実子長五郎が訪ねて来た時のイソイソトした喜びようと、与兵衛の代官任官を聞いた時の家族としてのシミジミ胸に染むような喜びようを微妙に使い分けながら、長五郎がお尋ね者でその詮議が与兵衛・十次兵衛の初仕事であることを知った時の動転と、まっさかさまに突き落とされて地獄の責め苦に呻吟する時の狼狽振りなど、実に上手い。
   なけなしの金子を差し出して人相書きを売ってくれと拝むお幸には、実子長五郎の幸せしか目に入っていない、5歳で手元から手放した実子が不憫で仕方なく罪の意識が一生お幸の胸を苦しめてきたのであろう、血の騒ぎかやはり実子が可愛い。
   長五郎に、死の覚悟は出来ている、自分を逃せば亡夫への義理が立たないのではないかと諭されて、始めて自分の非を悟って長五郎を縛るが、このあたりの心の微妙な変化が流石に上手いと思って見ていた。

   義理の息子・与兵衛を演じるこれも人間国宝・尾上菊五郎だが、町人と武士の使い分けが絶妙で、7月のNINAGAWA十二夜の舞台を思い出した。
   花道から登場した時は正に揉み手の町人姿で、玄関口に入ると、「ただ今立ち帰った」と時代めいた武士姿になる、昼は町人夜は長五郎詮議と使い分け、時代狂言と世話狂言が綯交ぜになったこの舞台を器用に繋いでいるのがこの菊五郎である。
   「母者人、何故物をお隠しなされます」と狼狽するお幸に語りかける菊五郎・与兵衛の本当の優しさが胸を打つ。これからが、もう人間与兵衛の死を懸けた全く迷いのない義理の母への限りなき愛が全開する、義理の弟への思いやりが「狐川を左へ取り」と河内への抜け道を二階に聞こえるように語る。
   菊五郎は、人間の肺腑を抉るような芝居も上手いが、このような人間性の機微に触れるような芝居を感動的に演じる舞台も素晴しい。

   濡髪長五郎を演じる左團治は、正に適役で、極めて洒落気のあるコミカルな性格に加えて、豪快な立ち役か悪人が多いが、このような表情を抑えたしかし強い心棒の通った役には向いているように思う。
   殆ど演技をしていないような演技が、田之助の実母役と上手く呼応していて面白い。
   死ぬ覚悟で暇乞いに来て、痛いほど十次兵衛と母の情けが身に沁みた長五郎は、喜んでお縄にかかる心準備が出来ているが、周りの愛情に支えられて最後は落ちてゆく、そんな悲しみを左團治はジッと噛み締めているようであった。

   お早の魁春は、やはり実に感動的で上手い。普通の町人の女房でありながら、元の遊里の香りか中々の色気と華やかさを醸し出しながら、義母を思いやる切ないほどの優しい振る舞いが新鮮で清清しい。
   引窓を引いて長五郎を隠そうとする機転、何だかんだと理由をつけて夫与兵衛に長五郎詮議を諦めさせようとする女の浅知恵等、義母を慮る愛情を上手く表現している。

   岩清水八幡宮で有名な「宝生会」、即ち、仏教の不殺生の思想に基づいて捕らえられた生類を放しやる儀式の前日を舞台に取り込んだこの「引窓」、中々、乙なものである。
   流石に、三大狂言の戯作者トリオ竹田出雲、三好松洛、並木千柳の合作だけはある。
   
コメント
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