歌舞伎座の「芸術祭十月大歌舞伎」の昼の部は、芝雀、亀治郎、翫雀の「廓三番叟」と、玉三郎、菊五郎、菊之助、左團次等の「加賀見山旧錦絵」であった。
廓三番叟は、3人3様の踊りで華やかな舞台であったが、やはり、楽しみは、加賀見山旧錦絵であり、前回、この歌舞伎座で、玉三郎の尾上を観ているが、岩藤が仁左衛門から菊五郎に、お初が勘三郎から菊之助に代わっているので、どんな舞台展開になるのか楽しみに出かけた。
加賀騒動に、松平周防守邸で起こった事件、即ち、局・沢野が中老みちに履き違えられた草履を投げつけ、侮辱に耐えかねてみちは自害し、下女さつが沢野を打って主人の無念を晴らしたと言う事件を絡ませて描いた浄瑠璃を歌舞伎にしたものである。
この歌舞伎では、
お家乗っ取りを策す局岩藤と兄の剣沢弾正が、忠臣の中老尾上を貶める為に、尾上が主君から預かる蘭麝待を盗み出して代わりに自分の草履を箱に入れ、岩藤がそれを見つけて詰り倒して尾上を草履で打ち付ける。
満座の中で恥辱を受けた尾上は、自害して、それを知った忠臣の召使お初が、岩藤を打つ。
岩藤たちの悪巧みが露見し、それらの功労によりお初は2代目尾上に抜擢される。
お家騒動と忠臣のあだ討ち、日本人好みの筋書きなので、当初から人気が高かったようであるが、海外では、どうであろうかと考えてみた。
少なくとも、この主題は、昔の日本人の精神的バックボーンである忠君愛国が色濃く出ているが、欧米では、忠信的な傾向はあっても、主君や主人の為に命を捨てて敵を討つと言った傾向は希薄なような気がする。
まず、自分の僅かな記憶だが、シェイクスピア戯曲の中でも、リア王のケント伯の忠臣ぶりは印象的だが、紗翁の悲劇の中には、あだ討ちのケースはないように思う。
欧米人を見ていると、極めて強い愛国心や同胞愛を持ちながら、理屈に合わなければ祖国を捨てることもあるが、その点、日本人の方が、会社も含めて自分の属する国や組織に対する忠誠心は極めて強いと思う。
アテネが好きだから、その国の法が悪法であっても自分は喜んで従う、と言って、毒杯を仰いで従容と死んでいったソクラテスは、異例であったのであろうか。
欧米では、客が入らなければ、「カルメン」をやれば良いと言われるが、日本でも、同じ様に「忠臣蔵」の人気は高い。
この加賀見山旧錦絵は、女忠臣蔵と言われるほどの歌舞伎。やはり、勧善懲悪、悪者が忠臣のあだ討ちによって最後は滅ぼされる、それに、途中で、日本人好みの好人物が非業の最期を遂げて、判官びいきを満足させてくれるのであるから、こんなにサービス精神旺盛な出し物はないと言うことであろうか。
お宿下がりの奥女中たちには、自分達の住む世界のゴシップ探訪、町人や庶民にとっては、自分達の代表・町人出身の尾上が果敢に武士出身の岩藤や権威に戦いを挑んでいるのだから応援したい、そんなこんなで面白いのは当然であろう。
ところで、実際の舞台であるが、私は、やはり玉三郎の動きをジッと双眼鏡で見ていた。
殆ど自分を押さえに抑えた慎重な立ち居振る舞いであり、岩藤に草履で打ち据えられてからは、さらに、放心状態、しかし、主人を心配しながら親元への手紙を届ける為にお初が家を出て一人になると、堰を切ったように、お初の優しさ健気さに感涙して無念さをかき口説く。
お初が、胸騒ぎを抑えるために行こうか行こうまいか、神棚に拝みながら、尾上の身の上を案じて出て行くのを、襖の陰からジッと覗き見ている尾上は、正に、1人の女に戻った尾上、万感の思いがこの玉三郎の演技に凝縮されている。
尾上が自害したのは、岩藤への当て付けと自尊心を傷つけられ屈辱に耐えられなくなったことが原因であろうか。
そうかも知れない、一寸違う、辛抱に辛抱を重ねた宮仕えに心底疲れてしまった尾上には、もう、命はどうでも良かった筈である。
それに、澄み切った命の尾上には、邪悪極まりない岩藤のような人間と関わらねばならかった自分の運命こそが恥であり屈辱だったはずで、もうそんな岩藤など意識にはなかった。
死を決心して迷いはなかったが、お初の人間としての優しさ暖かさが身に沁みて、やっと人間を取り戻した最後の命の輝き、今、尾上は最後の白鳥の歌を歌っているのだと思って玉三郎をジッと観ていた。
死に急ぐ尾上を残して回り舞台が回ってゆく。
この玉三郎に対して岩藤を演じた菊五郎だが、日頃から、女形も何の苦もなく演じており、立ち役専門のこの岩藤も実に風格のある、それに、声を男声にしてどすの利いた迫力を出して好演していた。
岩藤を演じたことのある団十郎や仁左衛門や吉右衛門等は、どう上手く演じても男であるが、菊五郎は、女形を演じれば女になる。
同じ様な岩藤を観られるのは勘三郎だけであろうか。
この大きな役者に、玉三郎は真っ向から挑戦を挑んだのがこの舞台だと思っている。
菊之助のお初は、実にはつらつとして初々しい。
母親藤純子の面影と錯綜した立ち居振る舞いが、舞台を華やかにしており、それに、父親菊五郎の岩藤を非難するあたり、親子の葛藤を垣間見るのか客席から笑いの声。
この舞台、本当は主役は、このお初ではないかと思うくらい菊之助は輝いていた。
辛抱に辛抱、悲痛な思いの演技が続いている玉三郎と好対照、しかし、その舞台にメリハリをつけて健気に演じていた、そんな気がして観ていた。
廓三番叟は、3人3様の踊りで華やかな舞台であったが、やはり、楽しみは、加賀見山旧錦絵であり、前回、この歌舞伎座で、玉三郎の尾上を観ているが、岩藤が仁左衛門から菊五郎に、お初が勘三郎から菊之助に代わっているので、どんな舞台展開になるのか楽しみに出かけた。
加賀騒動に、松平周防守邸で起こった事件、即ち、局・沢野が中老みちに履き違えられた草履を投げつけ、侮辱に耐えかねてみちは自害し、下女さつが沢野を打って主人の無念を晴らしたと言う事件を絡ませて描いた浄瑠璃を歌舞伎にしたものである。
この歌舞伎では、
お家乗っ取りを策す局岩藤と兄の剣沢弾正が、忠臣の中老尾上を貶める為に、尾上が主君から預かる蘭麝待を盗み出して代わりに自分の草履を箱に入れ、岩藤がそれを見つけて詰り倒して尾上を草履で打ち付ける。
満座の中で恥辱を受けた尾上は、自害して、それを知った忠臣の召使お初が、岩藤を打つ。
岩藤たちの悪巧みが露見し、それらの功労によりお初は2代目尾上に抜擢される。
お家騒動と忠臣のあだ討ち、日本人好みの筋書きなので、当初から人気が高かったようであるが、海外では、どうであろうかと考えてみた。
少なくとも、この主題は、昔の日本人の精神的バックボーンである忠君愛国が色濃く出ているが、欧米では、忠信的な傾向はあっても、主君や主人の為に命を捨てて敵を討つと言った傾向は希薄なような気がする。
まず、自分の僅かな記憶だが、シェイクスピア戯曲の中でも、リア王のケント伯の忠臣ぶりは印象的だが、紗翁の悲劇の中には、あだ討ちのケースはないように思う。
欧米人を見ていると、極めて強い愛国心や同胞愛を持ちながら、理屈に合わなければ祖国を捨てることもあるが、その点、日本人の方が、会社も含めて自分の属する国や組織に対する忠誠心は極めて強いと思う。
アテネが好きだから、その国の法が悪法であっても自分は喜んで従う、と言って、毒杯を仰いで従容と死んでいったソクラテスは、異例であったのであろうか。
欧米では、客が入らなければ、「カルメン」をやれば良いと言われるが、日本でも、同じ様に「忠臣蔵」の人気は高い。
この加賀見山旧錦絵は、女忠臣蔵と言われるほどの歌舞伎。やはり、勧善懲悪、悪者が忠臣のあだ討ちによって最後は滅ぼされる、それに、途中で、日本人好みの好人物が非業の最期を遂げて、判官びいきを満足させてくれるのであるから、こんなにサービス精神旺盛な出し物はないと言うことであろうか。
お宿下がりの奥女中たちには、自分達の住む世界のゴシップ探訪、町人や庶民にとっては、自分達の代表・町人出身の尾上が果敢に武士出身の岩藤や権威に戦いを挑んでいるのだから応援したい、そんなこんなで面白いのは当然であろう。
ところで、実際の舞台であるが、私は、やはり玉三郎の動きをジッと双眼鏡で見ていた。
殆ど自分を押さえに抑えた慎重な立ち居振る舞いであり、岩藤に草履で打ち据えられてからは、さらに、放心状態、しかし、主人を心配しながら親元への手紙を届ける為にお初が家を出て一人になると、堰を切ったように、お初の優しさ健気さに感涙して無念さをかき口説く。
お初が、胸騒ぎを抑えるために行こうか行こうまいか、神棚に拝みながら、尾上の身の上を案じて出て行くのを、襖の陰からジッと覗き見ている尾上は、正に、1人の女に戻った尾上、万感の思いがこの玉三郎の演技に凝縮されている。
尾上が自害したのは、岩藤への当て付けと自尊心を傷つけられ屈辱に耐えられなくなったことが原因であろうか。
そうかも知れない、一寸違う、辛抱に辛抱を重ねた宮仕えに心底疲れてしまった尾上には、もう、命はどうでも良かった筈である。
それに、澄み切った命の尾上には、邪悪極まりない岩藤のような人間と関わらねばならかった自分の運命こそが恥であり屈辱だったはずで、もうそんな岩藤など意識にはなかった。
死を決心して迷いはなかったが、お初の人間としての優しさ暖かさが身に沁みて、やっと人間を取り戻した最後の命の輝き、今、尾上は最後の白鳥の歌を歌っているのだと思って玉三郎をジッと観ていた。
死に急ぐ尾上を残して回り舞台が回ってゆく。
この玉三郎に対して岩藤を演じた菊五郎だが、日頃から、女形も何の苦もなく演じており、立ち役専門のこの岩藤も実に風格のある、それに、声を男声にしてどすの利いた迫力を出して好演していた。
岩藤を演じたことのある団十郎や仁左衛門や吉右衛門等は、どう上手く演じても男であるが、菊五郎は、女形を演じれば女になる。
同じ様な岩藤を観られるのは勘三郎だけであろうか。
この大きな役者に、玉三郎は真っ向から挑戦を挑んだのがこの舞台だと思っている。
菊之助のお初は、実にはつらつとして初々しい。
母親藤純子の面影と錯綜した立ち居振る舞いが、舞台を華やかにしており、それに、父親菊五郎の岩藤を非難するあたり、親子の葛藤を垣間見るのか客席から笑いの声。
この舞台、本当は主役は、このお初ではないかと思うくらい菊之助は輝いていた。
辛抱に辛抱、悲痛な思いの演技が続いている玉三郎と好対照、しかし、その舞台にメリハリをつけて健気に演じていた、そんな気がして観ていた。