彼岸花が終わる頃、庭のキンモクセイが一斉に、少しオレンジがかった黄金色の小花をビッシリつけて咲きはじめた。
甘い香りが一面に広がって、秋の香りを周りに振りまいている。
もう少しすると、キンモクセイの花が落ちて、黄金色の粉を振り掛けたように、落ち花で地面が装飾される。
本来は、雌雄異株のようだが、日本には、雄花が多いので結実しないという。
庭に咲く花木で、他に香りのするのは、沈丁花とクチナシ、それに、港の曙と言う香りツバキだけであるが、これ等が咲き始めると季節の移り変わりが良く分かる。
私の庭の門被りは、年を経て苔のついた槙の木、その横の副木は、散らし玉作りに仕立てたイヌツゲの木であるが、少しはなれて隣との境界にキンモクセイが植わっている。
反対側の隣家との境界には、伽羅とモッコクが植わっており、道路側には、玉作りのツゲが並んでいる。
ここまでは、家を建てたときに植木屋に頼んで木を植えてもらった。
ところが、その後、自分の好みに応じて、我流で庭木を植え始めた。
もう、20年になるので、庭には結構色々な木が植わっていて、この間に消えていった木も沢山ある。
美しい花を咲かせてくれた八重桜や白樺、薔薇、色々な花木が消えて行った。
しかし、消えずに残っている楠木やハナミズキ、ヤマモモ等切り戻してはいるものの、大きくなりすぎた木には閉口している。
大体、狭い庭に、楠木や桜を植えるなど、本来なら正気の沙汰ではない筈だが、20年前には、植えてしまったのである。
門へのアプローチには、黒松と散らし玉作りのツゲと皐月で恰好はついているが、庭の方は、真ん中の空間は高麗芝で小さな空地になっているものの、その周りは雑木で雑然としている。
庭造りについての本を沢山読んだが、殆ど十分な知識なしにガーデニングを始めた悲しさで、こうなってしまったのだが、木の1本1本に愛着が出てしまって切れなくなり、間引いたり植え替えたりして今日に到っている。
友人の植木屋さんに頼んで庭を再生しようかと思っているが、木を切られると思うとその勇気がない。
園芸店に行って欲しくなると新しい花木の苗を買って来て植えるのであるから、庭の中は、必然的に木で混みあうことになる。
植栽と最低限の庭造りの知識を得て作庭を行うべきで、この木がどれくらいの間にどのくらいの大きさになるのかと言った全く初歩的な知識さえ十分になくて、写真と自分のイメージだけで始めるととんでもないことになると反省しているが、後の祭りである。
庭で一番多い木は、やはり、ツバキであるが、庭の美観を気にしなければ、秋から晩春まで、入れ替わり立ち代り咲いてくれるのが、実に有難くて嬉しい。
それに、萩やヤマブキ、ムラサキシキブ、アジサイ等の一寸した花木が、季節に彩を添えてくれるのも、堪らなく有難い。
ピラカンサやブルーベリー、イチジク等の実を求めて、多くの鳥や昆虫、蝶等が訪れてくれる。
鶯さえ庭に来て、ホーホケキョと囀ってくれるし、見慣れない鳥や蝶も来てくれる、雑然とした庭だが、自然が愛でてくれるなら、それでも良いかと自己満足している今日この頃である。
私がよく通ったロイヤル・ボタニカル・キュー・ガーデンには、大英帝国の富と誇りにかけて、プラント・ハンターによって世界中から数限りない植物が集めれていて、栽培され研究されている。
それに、江戸時代には、好事家が、金に糸目をつけずに珍しい花木を集めて、多くの園芸品種を作出して来たと言う。
私の庭植えの花木は、恐らくその殆どは栽培植物で、人間が創り出した、自然界にはなかった花木である。
粗末に扱ってはならないと思っているが、もう少し、大切に手をかけて育てなければならないと反省もしている。
後悔しているのは、折角、長い間花の国オランダに住み、ガーデニングの国イギリスで、それも、世界有数のキューガーデンの側に住んでいながら、この方面の勉強を少しもせずに帰ってきてしまったことである。
甘い香りが一面に広がって、秋の香りを周りに振りまいている。
もう少しすると、キンモクセイの花が落ちて、黄金色の粉を振り掛けたように、落ち花で地面が装飾される。
本来は、雌雄異株のようだが、日本には、雄花が多いので結実しないという。
庭に咲く花木で、他に香りのするのは、沈丁花とクチナシ、それに、港の曙と言う香りツバキだけであるが、これ等が咲き始めると季節の移り変わりが良く分かる。
私の庭の門被りは、年を経て苔のついた槙の木、その横の副木は、散らし玉作りに仕立てたイヌツゲの木であるが、少しはなれて隣との境界にキンモクセイが植わっている。
反対側の隣家との境界には、伽羅とモッコクが植わっており、道路側には、玉作りのツゲが並んでいる。
ここまでは、家を建てたときに植木屋に頼んで木を植えてもらった。
ところが、その後、自分の好みに応じて、我流で庭木を植え始めた。
もう、20年になるので、庭には結構色々な木が植わっていて、この間に消えていった木も沢山ある。
美しい花を咲かせてくれた八重桜や白樺、薔薇、色々な花木が消えて行った。
しかし、消えずに残っている楠木やハナミズキ、ヤマモモ等切り戻してはいるものの、大きくなりすぎた木には閉口している。
大体、狭い庭に、楠木や桜を植えるなど、本来なら正気の沙汰ではない筈だが、20年前には、植えてしまったのである。
門へのアプローチには、黒松と散らし玉作りのツゲと皐月で恰好はついているが、庭の方は、真ん中の空間は高麗芝で小さな空地になっているものの、その周りは雑木で雑然としている。
庭造りについての本を沢山読んだが、殆ど十分な知識なしにガーデニングを始めた悲しさで、こうなってしまったのだが、木の1本1本に愛着が出てしまって切れなくなり、間引いたり植え替えたりして今日に到っている。
友人の植木屋さんに頼んで庭を再生しようかと思っているが、木を切られると思うとその勇気がない。
園芸店に行って欲しくなると新しい花木の苗を買って来て植えるのであるから、庭の中は、必然的に木で混みあうことになる。
植栽と最低限の庭造りの知識を得て作庭を行うべきで、この木がどれくらいの間にどのくらいの大きさになるのかと言った全く初歩的な知識さえ十分になくて、写真と自分のイメージだけで始めるととんでもないことになると反省しているが、後の祭りである。
庭で一番多い木は、やはり、ツバキであるが、庭の美観を気にしなければ、秋から晩春まで、入れ替わり立ち代り咲いてくれるのが、実に有難くて嬉しい。
それに、萩やヤマブキ、ムラサキシキブ、アジサイ等の一寸した花木が、季節に彩を添えてくれるのも、堪らなく有難い。
ピラカンサやブルーベリー、イチジク等の実を求めて、多くの鳥や昆虫、蝶等が訪れてくれる。
鶯さえ庭に来て、ホーホケキョと囀ってくれるし、見慣れない鳥や蝶も来てくれる、雑然とした庭だが、自然が愛でてくれるなら、それでも良いかと自己満足している今日この頃である。
私がよく通ったロイヤル・ボタニカル・キュー・ガーデンには、大英帝国の富と誇りにかけて、プラント・ハンターによって世界中から数限りない植物が集めれていて、栽培され研究されている。
それに、江戸時代には、好事家が、金に糸目をつけずに珍しい花木を集めて、多くの園芸品種を作出して来たと言う。
私の庭植えの花木は、恐らくその殆どは栽培植物で、人間が創り出した、自然界にはなかった花木である。
粗末に扱ってはならないと思っているが、もう少し、大切に手をかけて育てなければならないと反省もしている。
後悔しているのは、折角、長い間花の国オランダに住み、ガーデニングの国イギリスで、それも、世界有数のキューガーデンの側に住んでいながら、この方面の勉強を少しもせずに帰ってきてしまったことである。