熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

芸術祭十月大歌舞伎・・・玉三郎の人形・清姫

2005年10月05日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   今日、歌舞伎座で、芸術祭十月大歌舞伎の夜の部を観てきた。凄い盛況で、素晴しい舞台の連続であった。
   菊五郎、田之助、左団次、魁春等の「引窓」、玉三郎、菊之助の「日高川入相花王」、それに、鴈治郎、雀右衛門、我當、田之助等の「河庄」である。
久しぶりに熱の入った大歌舞伎であった。

   まず、興味を引いたのは「日高川入相花王」で、「坂東玉三郎人形振りにて相勤め申し候」と言う如く、玉三郎が人形としての清姫を演じ、人形遣いの主遣いとして尾上菊之助が清姫を操る。
   文楽のように3人の人形遣いが、玉三郎の人形を操るのだが、主遣いの菊之助は羽織袴だが、左遣いと足遣いは、文楽のように黒衣を身に着けている。
   花道を静々と登場する玉三郎・清姫にピッタリ寄り添って菊之助が付いている。
   
   恋い慕う安珍が小田巻姫と逃げたと知った清姫は、二人を追って日高川まで来たものの、安珍に乗せるなと頼まれている船頭は清姫の乗船を拒否する。怒り心頭に徹した清姫は、蛇になって川を泳ぎ渡る。
   この壮絶な清姫の心の葛藤と嫉妬、怒り、そして、蛇体への変態を、情念を籠めて、激しく、そして美しいほど狂おしく玉三郎が演じる。

   文楽ならもっと流麗に、そして、簔助なら、もっと、華麗に人形を遣うかもしれない。玉三郎の動きは、本当の人形のようにぎこちないのである。
   しかし、玉三郎は、文楽の人形のように演じればそれ以上に上手く演じられるであろうし、歌舞伎の舞台での人間清姫なら、もっと人間らしく素晴しく演じたであろう、いや、実際に演じてきている。
   生身の人間の人形としてしか演じられない人形を玉三郎は追及して、その究極を清姫に託して演じようとしていたのである。
   人形と人間とのその皮膜の境、即ち、人形にしか出せない、そして、人間にしか出せない、そんな嫉妬や怒りではなく、それを越えたもっと深い悲しみと嫉妬、怒り、人智を超えた情念の様なものを、人形の姿を借りて表現しようとしていたのだと思う。
   舞台の最後、日高川を渡りきって岸辺に立つ清姫・玉三郎のあのモナ・リザのような妖艶で神秘的な微笑が総てをもの語っている。
   それ程、玉三郎は、狂おしくも美しい清姫を創り出していたのである。

   一度だけ、玉三郎は華麗な「上手うしろぶり」を見せた、実に優雅で美しかった、本当の人形遣いのように右手を腰に当てる菊之助の芸が細かい。
   私は、演目を忘れてしまったが、玉三郎が、あの菱川師宣の「見返り美人」のポーズをとったのを見たことがあるが、本当に美しかった、あんなに美しい女姿を見たことがなかったので感激したのを思い出す。   

   私は、メトロポリタン・オペラのセンティニアルの玉三郎の舞台・鷺娘をビデオで見て圧倒された。
   その後、もう10数年前のことだが、幸いに、ロンドンのジャパン・フェスティバルで、実際の玉三郎の鷺娘を見てその美しさに感嘆してしまった。一緒にいたイギリス人達も感激一入であった。
   それから、ずっと、玉三郎の舞台を見続けているが、いつも、色々な発見をして、その芸の豊かさと素晴しさに感激している。

   菊之助は、文楽の主遣いとしては、当然素人演技であろうが、しかし、玉三郎との呼吸がよく実に上手い。
   それより、ピッタリ玉三郎について演技をしており、卓越した先輩から学んだことは限りなく多いであろうと思う。
   末筆ながら、襲名披露の薪車は、文楽人形そっくりの演技であったが、爽やかな立ち居振る舞いが美しく、玉三郎の清姫に華を添えていた。

   何故か、帰りの電車の中で、オッヘンバックのオペラ「ホフマン物語」の人形オランピアを歌ったジョーン・サザーランドのゼンマイ仕掛けの様な人形の仕種を思い出した。
   これは、当然、マリオネットの人形ではあるが、あの大オペラ歌手が人形を演じながら歌ったのである。もちろん、大根ではなかった。
コメント
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