神田神保町の古書店街で、昨日から秋の古本祭が開かれている。
日頃静かなすずらん通りには、ワゴンを並べた俄か露天の本屋街が出来上がっていて古書ファンでごった返している。
すずらん通りの入り口には、キャナリストリートジャズバンドと称する中年のおじさん達が軽快にニューオルリンズジャズを演奏し景気付けている。
今回は、三省堂の一階ロビーとすずらん通り側玄関口の三省堂会場が閉鎖されていたので、その分、靖国通り側の古書店前の歩道にワゴン店が切れ目なく並び、こっちの方が歩けないほど賑わっている。
私は、古書店でも、特別な本を除いては、新古書しか買わないので、特に、特別な思い入れはないが、出版社毎に出店しているワゴンには意識して出かけることにしている。
しかし、今年に限った限りでは、各店とも、売れ残りの本を並べたとしか思えないような感じだったので一冊も買わなかった。
何時も思うのだが、折角本の虫たちが集まる貴重なチャンスなのに、売れ残りの本しか持ってこない出版社のバカさ加減と言うか、PRの機会をミスミス捨てている販売戦略に疑問を感じている。
目玉商品と言うか、自社の最も誇るべき書物を展示して大バーゲンを打って派手に宣伝する、そんな才覚があっても良いような気がしているのだが、そんな会社はない。
結局、私が今回買ったのは、何時も行っている書店で2冊、
T.C.フィッシュマン著「中国がアメリカを越える日」ランダムハウス
幸田真音著「タックス・シェルター」朝日新聞社
だけであった。
案外、経済や経営等と言った専門書は少ないし、大体、古本まつりで買おうとするのが間違いでもある。
その後、東京駅に出て、大和IRのJ-REIT会社説明会に参加して、帰りにもう一度神保町に出て、イギリスの友人に送る為に、浮世絵の版画を買って帰った。
ところで、電車の中で読んだ朝日新聞に、朝日新書創刊記念トークショー「今、教養とは」と言う講演会の記事が載っていた。
5人の識者が夫々教養について語っているが、要するに何を言っているのか分からない議論をしているのだが、齋藤明大教授が、
「本を読んだら、「すごい、すごすぎる」と叫んでみる。すると知識に対して素直になれます。」と言っている。
教養とは何かと大上段に構えるのではなく、本を読むことが教養を養う一つの手段だとするならば、何故本を読むのかと考えた方が分かり易いかも知れない。
私の場合は、とにかく、読書が生活の一部になっていて、本に囲まれて生活しているようなもので、暇があれば本屋に行くし、暇を見つけては本を読んでいる。
とにもかくにも、あれを知りたい、あれを勉強したいと言う気持ちが先行して本に向かっていると言うことで、別に理屈も何もないし、それが苦痛でも重荷でもない。
本から離れている方が居心地が悪いと言うのが正直なところであろうか。
そのことと教養がどのような関係にあるのか分からないが、何れにしろ、新しいことを知ったり、素晴らしい話に遭遇したり、あるいは、少しづつ理論がまとまり始めたりすると幸せを感じるし、自分の視野なり心なり人生がぐんぐん広がって行くような喜びを感じて感動することがある。
見えていなかったものが見えてくる、分からなかったことが霧が晴れたように眼前に広がってきて姿を現す、知ることの喜び、出会いとの喜び、そんなことであろうか。
日頃静かなすずらん通りには、ワゴンを並べた俄か露天の本屋街が出来上がっていて古書ファンでごった返している。
すずらん通りの入り口には、キャナリストリートジャズバンドと称する中年のおじさん達が軽快にニューオルリンズジャズを演奏し景気付けている。
今回は、三省堂の一階ロビーとすずらん通り側玄関口の三省堂会場が閉鎖されていたので、その分、靖国通り側の古書店前の歩道にワゴン店が切れ目なく並び、こっちの方が歩けないほど賑わっている。
私は、古書店でも、特別な本を除いては、新古書しか買わないので、特に、特別な思い入れはないが、出版社毎に出店しているワゴンには意識して出かけることにしている。
しかし、今年に限った限りでは、各店とも、売れ残りの本を並べたとしか思えないような感じだったので一冊も買わなかった。
何時も思うのだが、折角本の虫たちが集まる貴重なチャンスなのに、売れ残りの本しか持ってこない出版社のバカさ加減と言うか、PRの機会をミスミス捨てている販売戦略に疑問を感じている。
目玉商品と言うか、自社の最も誇るべき書物を展示して大バーゲンを打って派手に宣伝する、そんな才覚があっても良いような気がしているのだが、そんな会社はない。
結局、私が今回買ったのは、何時も行っている書店で2冊、
T.C.フィッシュマン著「中国がアメリカを越える日」ランダムハウス
幸田真音著「タックス・シェルター」朝日新聞社
だけであった。
案外、経済や経営等と言った専門書は少ないし、大体、古本まつりで買おうとするのが間違いでもある。
その後、東京駅に出て、大和IRのJ-REIT会社説明会に参加して、帰りにもう一度神保町に出て、イギリスの友人に送る為に、浮世絵の版画を買って帰った。
ところで、電車の中で読んだ朝日新聞に、朝日新書創刊記念トークショー「今、教養とは」と言う講演会の記事が載っていた。
5人の識者が夫々教養について語っているが、要するに何を言っているのか分からない議論をしているのだが、齋藤明大教授が、
「本を読んだら、「すごい、すごすぎる」と叫んでみる。すると知識に対して素直になれます。」と言っている。
教養とは何かと大上段に構えるのではなく、本を読むことが教養を養う一つの手段だとするならば、何故本を読むのかと考えた方が分かり易いかも知れない。
私の場合は、とにかく、読書が生活の一部になっていて、本に囲まれて生活しているようなもので、暇があれば本屋に行くし、暇を見つけては本を読んでいる。
とにもかくにも、あれを知りたい、あれを勉強したいと言う気持ちが先行して本に向かっていると言うことで、別に理屈も何もないし、それが苦痛でも重荷でもない。
本から離れている方が居心地が悪いと言うのが正直なところであろうか。
そのことと教養がどのような関係にあるのか分からないが、何れにしろ、新しいことを知ったり、素晴らしい話に遭遇したり、あるいは、少しづつ理論がまとまり始めたりすると幸せを感じるし、自分の視野なり心なり人生がぐんぐん広がって行くような喜びを感じて感動することがある。
見えていなかったものが見えてくる、分からなかったことが霧が晴れたように眼前に広がってきて姿を現す、知ることの喜び、出会いとの喜び、そんなことであろうか。