芸術祭と銘打つだけあって、昼も夜も中々意欲的な出し物で、楽しませて貰った。
冒頭の「葛の葉」は、これまでは、藤十郎が演じたのを2回見ている。やはり、藤十郎の芸には抗しがたい程胸を打つ狐の悲しさ、親子の情愛の深さに感動させる凄いインパクトがあるが、今回は、魁春の葛の葉と門之助の安倍安名で、雰囲気はがらりと変ってしまった。
魁春は、雀右衛門に教えを受けたようだが、やはり、初役でもあり若い所為もあってか、理屈ぬきにストレートで全くけれんみのない演技で、曲書き等もスムーズと言うか、狐言葉や狐の仕草なども優等生のそれで、それなりに新鮮な感動を与えてくれた。
今回、魁春は、「熊谷陣屋」は、芝翫の熊谷妻相模を相手にして平経盛室藤の方を演じて、中々品のある華麗な舞台を見せており、それに、夜の部の「仮名手本忠臣蔵 五段目」では、一文字屋お才を演じるなど、一日でバリエーションのある役柄を器用に演じていて流石である。
安名の門之助は、夜の部の「髪結新三」で、白子屋手代忠七を演じていて、どちらも男としては一寸冴えない優男風の舞台だが、中々味のある芸を見せていて、近松の心中モノを演じたらどんなものであろうかと思いながら見ていた。
私が門之助に注目したのは、随分以前になるのだが、何だったか忘れてしまったが猿之助との舞台で、粋で綺麗な江戸の芸者姿を見た時で、その美しさと色気に圧倒された。
この葛の葉の子供が、後の陰陽師安倍晴明なのだが、森羅万象地球上の総てのものに生命があるとする八百万の神を信じる多神教の日本ゆえの物語で、多くの動物譚が日本文学を豊かにしてくれている。
たとえ狐でも、長年夫婦の恩愛を重ねて子までなした中、恥など一切感じない安名が子供を抱えて後を追うが、後をも振り向かずに信田の森へ向かって駆け出して行く狐葛の葉の姿が悲しい。
「寿曽我対面」は、やはり、典型的な江戸歌舞伎の舞台と言うべきか、華麗で粋な見ごたえのある極彩色の世界を見せてくれる。
團十郎演じる工藤左衛門祐経など、曽我兄弟が仇と狙う敵役だが、この舞台では、座頭が演じるようになってから白塗りの立役で、堂々とした貫禄の武士となったと言うが、逆に曽我兄弟の方が陰が薄い感じである。
本復した團十郎の舞台姿は流石で、十郎祐成の菊之助と五郎時致の海老蔵のパンチの効いた華麗な姿と好対照で、久しぶりの本格的な父子共演が素晴らしかった。
ことに、海老蔵の凛と透き通った美声と錦絵から抜け出たような華麗な見得が堂に入って素晴らしい。
菊之助の流れるような優しい演技が海老蔵の骨太な演技と呼応して絵のようであるが、言うならば、話の内容などどうでも良く、客は美しい華麗な格好の良い舞台だけでも満足だと言うことであろうか。
「熊谷陣屋」は、幸四郎の直実、芝翫の妻相模、魁春の平経盛室藤の方、團十郎の義経、段四郎の弥陀六だから、大変豪華な舞台である。
夫々に感動するほど素晴らしい演技に満ちた舞台だったが、一つだけ気になったのは、幸四郎の感情移入が強すぎるのではないかと思ったことである。
幸四郎については、このブログでも何回も書いているし、天下随一の役者だと思っているが、この舞台だけは何故か違和感を感じて見ていた。
勿論、この「一谷嫩嫩軍記」の歌舞伎は、史実とも、或いは、平家物語とも違う虚構ではあるが、熊谷直実は、頼朝に「関東一の剛の者」と言われた鎌倉屈指の武将であると同時に、敦盛を討った後、平家物語では、敦盛の父平経盛に、首と青葉の笛を添えて「熊谷状」を送っている義に篤い人物でもあった。
保元の乱で義朝に味方して初陣を飾り、一時平家にも仕えた百戦錬磨の武士の中の武士と呼ばれた直実が、歌舞伎の舞台では、主君義経の意向を察して敦盛を助ける為にその身替りにわが子の首を差し出して血の滲むような忠義で報いている。
そんな熊谷直実が、何故、わが子恋しさに陣屋を訪れた妻相模に露骨に辛く当たり、敦盛の最後を大仰に声音を変えてまで語ることがあろうか。
また、最後の「16年も一昔。ああ、夢であったなあ」と陣屋を後にして行く感動的な場面だが、何故、網笠を震わせてまで別れに慟哭する必要があるのか。
一切の結末を承知の上で剛直に生き抜いた直実には、微動だにしない男の意気地で観客を感動させる、そんな舞台が似つかわしい筈である。
私は、先の仮名手本忠臣蔵で勘平の仁左衛門が、下を向いて微動だにせず必死になって苦渋に耐えていた姿に限りなき男の悲劇を感じて感動して観ていたが、あれである。
私には、昨年観た仁左衛門の殆ど派手な演技を交えずにジッと苦痛を噛み締めて天を仰ぎ、静かに花道を去って行った直実の方がずっと好きである。
幸四郎については、夜の部の「髪結新三」の一寸ヘマナ小悪人であるタイトル・ロールの方は、伸び伸びと大らかに演じていて良かったと思っている。
幸四郎は、凄い芝居の主役ばかりの役者だが、このような悪賢いがどこか一寸底が漏れている小悪人や庶民の生活を描いた世話物などを実に人情味豊かに心憎いほど上手く演じている。
昼の部の最後は、「お祭り」で仁左衛門の鳶頭松吉の、粋でイナセナ清元の風俗舞踊で、かなり重い先の舞台の後の清涼剤として楽しい。
しかし、昼の部だけしか観ないお客さんには、一寸仁左衛門の素晴らしい舞台が観られないのが残念かも知れない。
冒頭の「葛の葉」は、これまでは、藤十郎が演じたのを2回見ている。やはり、藤十郎の芸には抗しがたい程胸を打つ狐の悲しさ、親子の情愛の深さに感動させる凄いインパクトがあるが、今回は、魁春の葛の葉と門之助の安倍安名で、雰囲気はがらりと変ってしまった。
魁春は、雀右衛門に教えを受けたようだが、やはり、初役でもあり若い所為もあってか、理屈ぬきにストレートで全くけれんみのない演技で、曲書き等もスムーズと言うか、狐言葉や狐の仕草なども優等生のそれで、それなりに新鮮な感動を与えてくれた。
今回、魁春は、「熊谷陣屋」は、芝翫の熊谷妻相模を相手にして平経盛室藤の方を演じて、中々品のある華麗な舞台を見せており、それに、夜の部の「仮名手本忠臣蔵 五段目」では、一文字屋お才を演じるなど、一日でバリエーションのある役柄を器用に演じていて流石である。
安名の門之助は、夜の部の「髪結新三」で、白子屋手代忠七を演じていて、どちらも男としては一寸冴えない優男風の舞台だが、中々味のある芸を見せていて、近松の心中モノを演じたらどんなものであろうかと思いながら見ていた。
私が門之助に注目したのは、随分以前になるのだが、何だったか忘れてしまったが猿之助との舞台で、粋で綺麗な江戸の芸者姿を見た時で、その美しさと色気に圧倒された。
この葛の葉の子供が、後の陰陽師安倍晴明なのだが、森羅万象地球上の総てのものに生命があるとする八百万の神を信じる多神教の日本ゆえの物語で、多くの動物譚が日本文学を豊かにしてくれている。
たとえ狐でも、長年夫婦の恩愛を重ねて子までなした中、恥など一切感じない安名が子供を抱えて後を追うが、後をも振り向かずに信田の森へ向かって駆け出して行く狐葛の葉の姿が悲しい。
「寿曽我対面」は、やはり、典型的な江戸歌舞伎の舞台と言うべきか、華麗で粋な見ごたえのある極彩色の世界を見せてくれる。
團十郎演じる工藤左衛門祐経など、曽我兄弟が仇と狙う敵役だが、この舞台では、座頭が演じるようになってから白塗りの立役で、堂々とした貫禄の武士となったと言うが、逆に曽我兄弟の方が陰が薄い感じである。
本復した團十郎の舞台姿は流石で、十郎祐成の菊之助と五郎時致の海老蔵のパンチの効いた華麗な姿と好対照で、久しぶりの本格的な父子共演が素晴らしかった。
ことに、海老蔵の凛と透き通った美声と錦絵から抜け出たような華麗な見得が堂に入って素晴らしい。
菊之助の流れるような優しい演技が海老蔵の骨太な演技と呼応して絵のようであるが、言うならば、話の内容などどうでも良く、客は美しい華麗な格好の良い舞台だけでも満足だと言うことであろうか。
「熊谷陣屋」は、幸四郎の直実、芝翫の妻相模、魁春の平経盛室藤の方、團十郎の義経、段四郎の弥陀六だから、大変豪華な舞台である。
夫々に感動するほど素晴らしい演技に満ちた舞台だったが、一つだけ気になったのは、幸四郎の感情移入が強すぎるのではないかと思ったことである。
幸四郎については、このブログでも何回も書いているし、天下随一の役者だと思っているが、この舞台だけは何故か違和感を感じて見ていた。
勿論、この「一谷嫩嫩軍記」の歌舞伎は、史実とも、或いは、平家物語とも違う虚構ではあるが、熊谷直実は、頼朝に「関東一の剛の者」と言われた鎌倉屈指の武将であると同時に、敦盛を討った後、平家物語では、敦盛の父平経盛に、首と青葉の笛を添えて「熊谷状」を送っている義に篤い人物でもあった。
保元の乱で義朝に味方して初陣を飾り、一時平家にも仕えた百戦錬磨の武士の中の武士と呼ばれた直実が、歌舞伎の舞台では、主君義経の意向を察して敦盛を助ける為にその身替りにわが子の首を差し出して血の滲むような忠義で報いている。
そんな熊谷直実が、何故、わが子恋しさに陣屋を訪れた妻相模に露骨に辛く当たり、敦盛の最後を大仰に声音を変えてまで語ることがあろうか。
また、最後の「16年も一昔。ああ、夢であったなあ」と陣屋を後にして行く感動的な場面だが、何故、網笠を震わせてまで別れに慟哭する必要があるのか。
一切の結末を承知の上で剛直に生き抜いた直実には、微動だにしない男の意気地で観客を感動させる、そんな舞台が似つかわしい筈である。
私は、先の仮名手本忠臣蔵で勘平の仁左衛門が、下を向いて微動だにせず必死になって苦渋に耐えていた姿に限りなき男の悲劇を感じて感動して観ていたが、あれである。
私には、昨年観た仁左衛門の殆ど派手な演技を交えずにジッと苦痛を噛み締めて天を仰ぎ、静かに花道を去って行った直実の方がずっと好きである。
幸四郎については、夜の部の「髪結新三」の一寸ヘマナ小悪人であるタイトル・ロールの方は、伸び伸びと大らかに演じていて良かったと思っている。
幸四郎は、凄い芝居の主役ばかりの役者だが、このような悪賢いがどこか一寸底が漏れている小悪人や庶民の生活を描いた世話物などを実に人情味豊かに心憎いほど上手く演じている。
昼の部の最後は、「お祭り」で仁左衛門の鳶頭松吉の、粋でイナセナ清元の風俗舞踊で、かなり重い先の舞台の後の清涼剤として楽しい。
しかし、昼の部だけしか観ないお客さんには、一寸仁左衛門の素晴らしい舞台が観られないのが残念かも知れない。