今昔物語の中から題材を取って、北條秀司がラジオ・ドラマとして書き、その後、歌右衛門の為に歌舞伎に書き下ろした儚い悲恋を描いた「狐と笛吹き」の非常に美しい、詩情豊かな舞台が、半蔵門の国立劇場の文楽で演じられている。
2年前の中村松江の襲名披露公演で、梅玉の春方と福助のともねで演じられた感動的な舞台を思い出す。
相思相愛の狐と笛吹きの異界の恋ゆえに、契ると死んでしまうと言う悲しい動物譚なのだが、歌舞伎では、春方の願いを受け入れて契った狐のともねが、故郷への道・琵琶湖への森の中で狐に返って死んでいて、後を追って来た春方が亡骸を抱きしめて湖に身を沈めると言う話になっているのだが、
文楽では、娘の身を案じる母を登場させて琵琶湖へ連れ帰ろうとするのだが、最期に母を振り切って、後を追って来た春方と共に死出の旅に発つと言う話に変えている。
宝塚歌劇団で、「ベルサイユのばら」などを演出した同劇団の特別顧問の植田紳爾氏の新演出で、絵のように美しい舞台が繰り広げられている。
上手に豊かな竹林、下手にやや開けた野の向こうに山並みが続き赤い柱の塔が遠望できる、そんな京都の鄙びた森の中にある笛吹きの瀟洒な住居が舞台なのだが、満開の桜の木の下から忽然とかさねが現れるところから舞台が展開する。
春のおぼろ、夏の月、秋の落ち葉、それぞれの四季の美しい変化を、木々の移ろいや照明を変化させながら詩情豊かに移り行く舞台を背景に、二人の恋が深まって行く。
春から秋まで、この舞台で劇が演じられているのだが、抜き差しならなくなってしまった二人の恋を案じた母が訪ねて来て、琵琶湖へ連れ帰る冬の巻の道行から一挙に舞台が転換し、雪深い山道になり、最期は、鈍く光る湖面を下に見下ろせる険しい雪の山道に変わる。
雪の降り頻る中を手に手を取って高みに登って行く幕切れは、一幅の豪華な絵巻ものであり、歌舞伎よりも宝塚の舞台の方に近い感じの感動的な舞台である。
宮廷の笛吹き春方(玉女)に助けられた琵琶湖の狐が、恩返しの為に、子狐に亡き妻まろやに生き写しの娘ともね(和生)に身を変えさせて、寂しく暮らしている春方を慰めさせると言う設定だが、春方の最愛の妻への思いがともね狐への恋に変わり、愛されるともねが春方の愛情に応えるのも必然である。
しかし、ともねとしてではなく妻まろやの代理として愛されていることに耐えられなくなって、ともねは、まろやの遺品の琴を焼き捨ててしまう。
これを知った春方は、益々、ともねを愛するのだが、所詮は男と女の愛。大嘗祭の笛師への推挙が絶望的となった春方は自暴自棄になってともねを求める。
ともねも春方に応えたい一心である。最期には春方と結ばれるのだが、現実的な歌舞伎と余韻を残す文楽の結末の差が興味深い。
ところで、この純愛の行方を兄と妹のように清くと言う表現で通しているが、プラトニック・ラブと言う設定ゆえに感動的なのかも知れない。
尤も、プラトニック・ラブと言うのは、肉体関係のない男女の純愛だと言う印象が強いが、そうではなく、プラトンの「饗宴」に出てくるのだが、当時のギリシャでは普通であった大人の男が抱く少年への男同士の愛であって、意味が全く違う。
プラトンの話は、多少高尚な意味合いがあるのだが、要するに、織田信長が森蘭丸を愛したような類の愛がプラトンの愛であって、春方とともねの愛は、もっと精神性の高い愛なのである。
しかし、果たして、春方とともねのような愛が、現代人にはすんなりと理解出来るのかどうかかは別の話であろう。
この物語は、床本の台詞が現代口語で書かれているので、非常にストレートで、どきりとするところがあり面白い。
それに、音曲も語りも、古典の浄瑠璃とは随分違って全般的に印象やニュアンスがモダンになっていて、音楽性が豊かになっていている感じで、非常に楽しめる。
文字久大夫や咲甫大夫、清介などの浄瑠璃と三味線の華やかで華麗な輝き、そして、呂勢大夫の語りと清治の三味線、清志郎の琴の何とも表現の出来ないような激しくも情感に満ちた繊細な美しさは筆舌に尽くし難い。
その意味では、歌舞伎と同じで、このような新しい試みの文楽の舞台がどんどん増えて行くことを願いたいと思う。
ところで、玉女の春方と和生のともねだが、人形の遣い方や仕草・表情などは、やはり、文楽本来の様式など約束事に従った形だが、随所に、新しい試みなどが取り入れられていて非常に新鮮な感じがして楽しませてもらった。
玉男と簔助の舞台が、近松門左衛門の心中ものなどの素晴らしい男と女の世界を演出して一世を風靡して来たが、今回の玉女と和生の男女の世界は、正に、これからの文楽において決定版ともなるべき予感を色濃く滲ませた絶品、かつ、正に、感動的な舞台であった。
2年前の中村松江の襲名披露公演で、梅玉の春方と福助のともねで演じられた感動的な舞台を思い出す。
相思相愛の狐と笛吹きの異界の恋ゆえに、契ると死んでしまうと言う悲しい動物譚なのだが、歌舞伎では、春方の願いを受け入れて契った狐のともねが、故郷への道・琵琶湖への森の中で狐に返って死んでいて、後を追って来た春方が亡骸を抱きしめて湖に身を沈めると言う話になっているのだが、
文楽では、娘の身を案じる母を登場させて琵琶湖へ連れ帰ろうとするのだが、最期に母を振り切って、後を追って来た春方と共に死出の旅に発つと言う話に変えている。
宝塚歌劇団で、「ベルサイユのばら」などを演出した同劇団の特別顧問の植田紳爾氏の新演出で、絵のように美しい舞台が繰り広げられている。
上手に豊かな竹林、下手にやや開けた野の向こうに山並みが続き赤い柱の塔が遠望できる、そんな京都の鄙びた森の中にある笛吹きの瀟洒な住居が舞台なのだが、満開の桜の木の下から忽然とかさねが現れるところから舞台が展開する。
春のおぼろ、夏の月、秋の落ち葉、それぞれの四季の美しい変化を、木々の移ろいや照明を変化させながら詩情豊かに移り行く舞台を背景に、二人の恋が深まって行く。
春から秋まで、この舞台で劇が演じられているのだが、抜き差しならなくなってしまった二人の恋を案じた母が訪ねて来て、琵琶湖へ連れ帰る冬の巻の道行から一挙に舞台が転換し、雪深い山道になり、最期は、鈍く光る湖面を下に見下ろせる険しい雪の山道に変わる。
雪の降り頻る中を手に手を取って高みに登って行く幕切れは、一幅の豪華な絵巻ものであり、歌舞伎よりも宝塚の舞台の方に近い感じの感動的な舞台である。
宮廷の笛吹き春方(玉女)に助けられた琵琶湖の狐が、恩返しの為に、子狐に亡き妻まろやに生き写しの娘ともね(和生)に身を変えさせて、寂しく暮らしている春方を慰めさせると言う設定だが、春方の最愛の妻への思いがともね狐への恋に変わり、愛されるともねが春方の愛情に応えるのも必然である。
しかし、ともねとしてではなく妻まろやの代理として愛されていることに耐えられなくなって、ともねは、まろやの遺品の琴を焼き捨ててしまう。
これを知った春方は、益々、ともねを愛するのだが、所詮は男と女の愛。大嘗祭の笛師への推挙が絶望的となった春方は自暴自棄になってともねを求める。
ともねも春方に応えたい一心である。最期には春方と結ばれるのだが、現実的な歌舞伎と余韻を残す文楽の結末の差が興味深い。
ところで、この純愛の行方を兄と妹のように清くと言う表現で通しているが、プラトニック・ラブと言う設定ゆえに感動的なのかも知れない。
尤も、プラトニック・ラブと言うのは、肉体関係のない男女の純愛だと言う印象が強いが、そうではなく、プラトンの「饗宴」に出てくるのだが、当時のギリシャでは普通であった大人の男が抱く少年への男同士の愛であって、意味が全く違う。
プラトンの話は、多少高尚な意味合いがあるのだが、要するに、織田信長が森蘭丸を愛したような類の愛がプラトンの愛であって、春方とともねの愛は、もっと精神性の高い愛なのである。
しかし、果たして、春方とともねのような愛が、現代人にはすんなりと理解出来るのかどうかかは別の話であろう。
この物語は、床本の台詞が現代口語で書かれているので、非常にストレートで、どきりとするところがあり面白い。
それに、音曲も語りも、古典の浄瑠璃とは随分違って全般的に印象やニュアンスがモダンになっていて、音楽性が豊かになっていている感じで、非常に楽しめる。
文字久大夫や咲甫大夫、清介などの浄瑠璃と三味線の華やかで華麗な輝き、そして、呂勢大夫の語りと清治の三味線、清志郎の琴の何とも表現の出来ないような激しくも情感に満ちた繊細な美しさは筆舌に尽くし難い。
その意味では、歌舞伎と同じで、このような新しい試みの文楽の舞台がどんどん増えて行くことを願いたいと思う。
ところで、玉女の春方と和生のともねだが、人形の遣い方や仕草・表情などは、やはり、文楽本来の様式など約束事に従った形だが、随所に、新しい試みなどが取り入れられていて非常に新鮮な感じがして楽しませてもらった。
玉男と簔助の舞台が、近松門左衛門の心中ものなどの素晴らしい男と女の世界を演出して一世を風靡して来たが、今回の玉女と和生の男女の世界は、正に、これからの文楽において決定版ともなるべき予感を色濃く滲ませた絶品、かつ、正に、感動的な舞台であった。