今月の文楽は、3部構成で、私が観たのは、第二部の「菅原伝授手習鑑」と第三部の「義経千本桜」であった。
第一部も出かけるつもりであったが、文雀が休演で、その後、紋寿も休演となったので、行かずに終わってしまった。
この三大名作のうちの二つの演目は、その一部を切り取っただけだが、非常に充実した舞台で、正に、感激の連続であった。
まず、「菅原伝授手習鑑」であるが、今回は、三兄弟の末弟桜丸と父親白太夫との別れを主題とした「佐太村」と言う世話物の舞台で、桜丸が飴売りで登場する「道行詞甘替」から「吉田神社社頭車曳」、そして、白太夫の70歳の賀の祝いに3兄弟たちとその妻女たちが訪れて来て繰り広げる「茶筅酒」「喧嘩」の段を経て「桜丸切腹の段」までの公演である。
何と言っても、後半の茶筅酒の段からは圧巻で、千歳大夫と團七、文字久大夫と清志郎、住大夫と錦糸の浄瑠璃語りと三味線に、簔助の桜丸、勘十郎の白太夫、清十郎の女房八重の人形が演じるのであるから、素晴らしくない筈がない。
賀の祝いに、夫々の女房達は、時間を違えずに白太夫を訪ねて来て甲斐甲斐しく祝いの膳を整えるのだが、松王丸と梅王丸は遅れて来て、吉田社頭での争いに端を発した遺恨で喧嘩を初めて、誤って、父が大切に育てていた桜の木を折る。
梅王丸が菅丞相の共として筑紫に行くことを、松王丸は敵方の主への忠義を尽くすために勘当を、父に願うのだが、白太夫は怒って、夫々夫婦たちを追い出してしまう。
一人残った女房八重が夫を待ち続けていると、納戸から桜丸が現れる。
そして、白太夫が、脇差を乗せた三方を持って出て来て、桜丸の前に置く。
タダならぬ異変を感じた八重に、桜丸は、自分が、苅屋姫と斎世親王の恋を取り持ったばかりに、主人菅丞相が諌言にあって大宰府に流されたので、その申し訳に切腹するのだとかき口説く。それを受けて嘆き悲しむ八重が、実に健気で哀れである。
朝早くやって来て父に切腹の覚悟を伝えていた。白太夫は納戸に忍ばせて、助けるべきかどうか神の加護に任せることにしたのだが、祝いにもらった3本の扇を氏神の前で開けば松と梅、家に帰ってみると桜の木が折れていたので、断腸の思いで桜丸の切腹を覚悟したのである。
喧嘩の段を、必死になって前座を務めた文字久大夫が、師匠の住大夫に、「桜丸切腹の段」を繋ぐ。
「名作中の名作です。お客さんが泣いてくれはらなんだら、よっぽど演者が悪い。」と住大夫は言う。
それ程素晴らしい舞台で、1時間に及ぶ長丁場を、緩急自在、導入部から全く暗い舞台なのだが、住大夫と錦糸の名調子に、現在最高峰を行く女形の簔助、勘十郎、清十郎が、正に生身の人間が、運命の悲痛に必死に耐えながら慟哭し呻吟する姿を、人形に託して演じ続ける。
介錯すると言って念仏を唱えながら鉦撞木を打ち鳴らしながら右往左往する白太夫と、必死に縋り付いて切腹を思いとどまらせようとする八重の、残される二人の心情を思うと耐えられないのだが、住大夫の名調子が、ぐいぐいと心に食い込み、正に、断腸の悲痛である。
桜丸は、三人の兄弟とも同じなのだが、元々、それ程高い身分ではなく本当の下っ端役人の舎人なのだが、彼だけは、歌舞伎でも、どちらかと言えば、女方役者が演じている。
松王丸の場合にも言えるのだが、何故、下々の人間が、それ程までに責任を感じて義理と人情に苦しんで、男の一念を通すべきなのか、現代人なら疑問に思うのであろうが、そこが、封建時代のなせる業、芝居の世界と言うものであろう。
簔助の桜丸は、優男風だが、従容としたクールな感じの桜丸で、身分相応の振る舞いを知って運命を噛みしめながら死出の旅路に赴く、演技を抑えに抑えた立ち振る舞いが、実に静かで爽やかで良い。
桜丸と八重は、加茂の社で、苅屋姫と斎世親王の恋を取り持ち、車の中でのラブシーンに触発されて、夫婦ながらあられもない気分をもよおす、そんなシーンもあったのだと思うと、人間の運命は分からないものである。
この菅原伝授手習鑑は、正に、天神さん、菅原道真の物語であるのだが、今回の「桜丸切腹」以外にも、武部源蔵を主人公とした「筆法伝授」や、松王丸が自分の息子小太郎を身替りに差し出して菅秀才の命を助ける「寺子屋」、伯母覚寿の家で菅丞相と苅屋姫の別れを描いた「道明寺」など、随分、内容のある中身の濃い舞台が並んでいて、非常に素晴らしい物語で、日本の舞台文学と言うか戯曲の素晴らしさは、世界でも卓越しているように思う。
この素晴らしい浄瑠璃を、大夫が、三味線の伴奏にのって、ナレーションも、そして、すべての登場人物をも演じ切り、更に、全く、違った、三人の人形遣いが、あたかも生身の役者のように、或いは、時にはそれ以上に演じるのであるから、文楽の凄さには、いつも感嘆している。
第一部も出かけるつもりであったが、文雀が休演で、その後、紋寿も休演となったので、行かずに終わってしまった。
この三大名作のうちの二つの演目は、その一部を切り取っただけだが、非常に充実した舞台で、正に、感激の連続であった。
まず、「菅原伝授手習鑑」であるが、今回は、三兄弟の末弟桜丸と父親白太夫との別れを主題とした「佐太村」と言う世話物の舞台で、桜丸が飴売りで登場する「道行詞甘替」から「吉田神社社頭車曳」、そして、白太夫の70歳の賀の祝いに3兄弟たちとその妻女たちが訪れて来て繰り広げる「茶筅酒」「喧嘩」の段を経て「桜丸切腹の段」までの公演である。
何と言っても、後半の茶筅酒の段からは圧巻で、千歳大夫と團七、文字久大夫と清志郎、住大夫と錦糸の浄瑠璃語りと三味線に、簔助の桜丸、勘十郎の白太夫、清十郎の女房八重の人形が演じるのであるから、素晴らしくない筈がない。
賀の祝いに、夫々の女房達は、時間を違えずに白太夫を訪ねて来て甲斐甲斐しく祝いの膳を整えるのだが、松王丸と梅王丸は遅れて来て、吉田社頭での争いに端を発した遺恨で喧嘩を初めて、誤って、父が大切に育てていた桜の木を折る。
梅王丸が菅丞相の共として筑紫に行くことを、松王丸は敵方の主への忠義を尽くすために勘当を、父に願うのだが、白太夫は怒って、夫々夫婦たちを追い出してしまう。
一人残った女房八重が夫を待ち続けていると、納戸から桜丸が現れる。
そして、白太夫が、脇差を乗せた三方を持って出て来て、桜丸の前に置く。
タダならぬ異変を感じた八重に、桜丸は、自分が、苅屋姫と斎世親王の恋を取り持ったばかりに、主人菅丞相が諌言にあって大宰府に流されたので、その申し訳に切腹するのだとかき口説く。それを受けて嘆き悲しむ八重が、実に健気で哀れである。
朝早くやって来て父に切腹の覚悟を伝えていた。白太夫は納戸に忍ばせて、助けるべきかどうか神の加護に任せることにしたのだが、祝いにもらった3本の扇を氏神の前で開けば松と梅、家に帰ってみると桜の木が折れていたので、断腸の思いで桜丸の切腹を覚悟したのである。
喧嘩の段を、必死になって前座を務めた文字久大夫が、師匠の住大夫に、「桜丸切腹の段」を繋ぐ。
「名作中の名作です。お客さんが泣いてくれはらなんだら、よっぽど演者が悪い。」と住大夫は言う。
それ程素晴らしい舞台で、1時間に及ぶ長丁場を、緩急自在、導入部から全く暗い舞台なのだが、住大夫と錦糸の名調子に、現在最高峰を行く女形の簔助、勘十郎、清十郎が、正に生身の人間が、運命の悲痛に必死に耐えながら慟哭し呻吟する姿を、人形に託して演じ続ける。
介錯すると言って念仏を唱えながら鉦撞木を打ち鳴らしながら右往左往する白太夫と、必死に縋り付いて切腹を思いとどまらせようとする八重の、残される二人の心情を思うと耐えられないのだが、住大夫の名調子が、ぐいぐいと心に食い込み、正に、断腸の悲痛である。
桜丸は、三人の兄弟とも同じなのだが、元々、それ程高い身分ではなく本当の下っ端役人の舎人なのだが、彼だけは、歌舞伎でも、どちらかと言えば、女方役者が演じている。
松王丸の場合にも言えるのだが、何故、下々の人間が、それ程までに責任を感じて義理と人情に苦しんで、男の一念を通すべきなのか、現代人なら疑問に思うのであろうが、そこが、封建時代のなせる業、芝居の世界と言うものであろう。
簔助の桜丸は、優男風だが、従容としたクールな感じの桜丸で、身分相応の振る舞いを知って運命を噛みしめながら死出の旅路に赴く、演技を抑えに抑えた立ち振る舞いが、実に静かで爽やかで良い。
桜丸と八重は、加茂の社で、苅屋姫と斎世親王の恋を取り持ち、車の中でのラブシーンに触発されて、夫婦ながらあられもない気分をもよおす、そんなシーンもあったのだと思うと、人間の運命は分からないものである。
この菅原伝授手習鑑は、正に、天神さん、菅原道真の物語であるのだが、今回の「桜丸切腹」以外にも、武部源蔵を主人公とした「筆法伝授」や、松王丸が自分の息子小太郎を身替りに差し出して菅秀才の命を助ける「寺子屋」、伯母覚寿の家で菅丞相と苅屋姫の別れを描いた「道明寺」など、随分、内容のある中身の濃い舞台が並んでいて、非常に素晴らしい物語で、日本の舞台文学と言うか戯曲の素晴らしさは、世界でも卓越しているように思う。
この素晴らしい浄瑠璃を、大夫が、三味線の伴奏にのって、ナレーションも、そして、すべての登場人物をも演じ切り、更に、全く、違った、三人の人形遣いが、あたかも生身の役者のように、或いは、時にはそれ以上に演じるのであるから、文楽の凄さには、いつも感嘆している。