先日レビューしたロドニックの「グローバリゼーション・パラドックス」の中で、興味深かったのは、19世紀のグローバリゼーションが、産業革命時点で、世界経済が、工業化を進める中核地域と、原材料を生産する周辺地域に分裂させたと言う論評である。
したがって、このタイトルの脱工業化と言う表現は、ポスト産業化社会への脱工業ではなくて、かって持っていた産業もすべて失ったと言う経済後進地域の現象である。
まず、産業革命を受け入れ得た地域には、新しい工場を満員にする比較的高水準の教育を受けた熟練労働者が沢山いて、民間による投資のインセンティブと市場の拡大を生み出すための優れた制度――良く機能する法体系、安定した政治、国家による収容の制限等、工業を促進する前提条件が揃っていて、生産技術を吸収する準備が出来ていた。
また、西洋の分家と言われた北米なども、大量の移民のお蔭で、工業の中核地域となれたと言うのである。
一方、周辺地域は、住環境が良くなかったので、欧州人が、「収奪するための制度」を導入して、大量の肉体労働者を必要とする天然資源の開発を始め、植民地化した。
中核地域向けの原材料を出来るだけ安く入手する制度を確立し、膨大な数の先住民と奴隷を支配する一部の特権階級が富と権力を独占し、あらゆる経済社会を活性化するための方策は圧殺されてしまった。
もっと深刻なのは、これら周辺地域は、工業化に失敗したのみならず、実際には、かって持っていた産業をすべて失うと言う脱工業化に見舞われてしまったのである。
欧州の工業製品、特に繊維製品などが現地の工業を駆逐するなど、当時のインドや中国でも起こっていたのである。
植民地経済体制は、カリブ海のプランテーション経済やアフリカの天然資源経済などは、その典型で、現在でも、中南米やアフリカにこの後遺症が色濃く残っている。
このように、第一次のグローバリゼーションの時代においては、地理的ないし自然の初期条件が、その国の経済が辿る運命を決める重大決定要素だが、呪いを切り抜けようと躍起になっているすべての一次産品依存国にとって最後の励みとなった例外は、日本だとして、1914年に工業化を実現した唯一の非西洋社会だと紹介している。
日本は、1854年にペリー提督に押し付けられて自由貿易を開始したが、当時、工業製品と交換に主に原材料――生糸、紡績糸、茶、魚――を輸出しており、このままだと周辺地域に成り下がるのだったが、1868年に成立した政府は、政治経済の近代化にひたすら邁進した。更に重要なのは、明治新政府は、当時西洋の政治決定者に広まっていた自由放任主義に基づいて行動せずに、個人の自由や投機筋の利益に干渉しても、世界で最初とも言うべき開発計画によって、強引に政府の方針で経済発展を進めたのが功を奏したと言うのである。
ロドリックの論点は、自由放任市場経済のハイパーグローバリゼーションが、このまま野放しでは、グローバル経済にとって、如何に、危険であるか、個々の国民国家は、夫々、自国の国民経済を、国家の統治システムによって守るべきであると言う、グローバリゼーションのコントロールにあるので、当然の論理展開ではある。
しかし、注目すべきは、同じく周辺地域とは違った形で、自由市場経済に逆らって、独自の手法で製造業や他の現代的な貿易可能製品を強引に生み出して経済開発を推進してきた韓国や台湾、中国のように、経済の多角化に傾倒し、民間部門のダイナミズムを活用して活性化することのできる政府があればこそ、更に、グローバリゼーションの波に乗って成長率を引き上げることが出来るのだと言う指摘である。
これまで、経済発展論などについては、このブログでも、随分、考えて来たが、やはり、経済主体である国家の統治機構が如何にしっかりしているかが核であろう。
しかし、その核が如何に機能して、調和を保ちながら、グローバリゼーションに対応して行くのか、難しい問題ではある。
したがって、このタイトルの脱工業化と言う表現は、ポスト産業化社会への脱工業ではなくて、かって持っていた産業もすべて失ったと言う経済後進地域の現象である。
まず、産業革命を受け入れ得た地域には、新しい工場を満員にする比較的高水準の教育を受けた熟練労働者が沢山いて、民間による投資のインセンティブと市場の拡大を生み出すための優れた制度――良く機能する法体系、安定した政治、国家による収容の制限等、工業を促進する前提条件が揃っていて、生産技術を吸収する準備が出来ていた。
また、西洋の分家と言われた北米なども、大量の移民のお蔭で、工業の中核地域となれたと言うのである。
一方、周辺地域は、住環境が良くなかったので、欧州人が、「収奪するための制度」を導入して、大量の肉体労働者を必要とする天然資源の開発を始め、植民地化した。
中核地域向けの原材料を出来るだけ安く入手する制度を確立し、膨大な数の先住民と奴隷を支配する一部の特権階級が富と権力を独占し、あらゆる経済社会を活性化するための方策は圧殺されてしまった。
もっと深刻なのは、これら周辺地域は、工業化に失敗したのみならず、実際には、かって持っていた産業をすべて失うと言う脱工業化に見舞われてしまったのである。
欧州の工業製品、特に繊維製品などが現地の工業を駆逐するなど、当時のインドや中国でも起こっていたのである。
植民地経済体制は、カリブ海のプランテーション経済やアフリカの天然資源経済などは、その典型で、現在でも、中南米やアフリカにこの後遺症が色濃く残っている。
このように、第一次のグローバリゼーションの時代においては、地理的ないし自然の初期条件が、その国の経済が辿る運命を決める重大決定要素だが、呪いを切り抜けようと躍起になっているすべての一次産品依存国にとって最後の励みとなった例外は、日本だとして、1914年に工業化を実現した唯一の非西洋社会だと紹介している。
日本は、1854年にペリー提督に押し付けられて自由貿易を開始したが、当時、工業製品と交換に主に原材料――生糸、紡績糸、茶、魚――を輸出しており、このままだと周辺地域に成り下がるのだったが、1868年に成立した政府は、政治経済の近代化にひたすら邁進した。更に重要なのは、明治新政府は、当時西洋の政治決定者に広まっていた自由放任主義に基づいて行動せずに、個人の自由や投機筋の利益に干渉しても、世界で最初とも言うべき開発計画によって、強引に政府の方針で経済発展を進めたのが功を奏したと言うのである。
ロドリックの論点は、自由放任市場経済のハイパーグローバリゼーションが、このまま野放しでは、グローバル経済にとって、如何に、危険であるか、個々の国民国家は、夫々、自国の国民経済を、国家の統治システムによって守るべきであると言う、グローバリゼーションのコントロールにあるので、当然の論理展開ではある。
しかし、注目すべきは、同じく周辺地域とは違った形で、自由市場経済に逆らって、独自の手法で製造業や他の現代的な貿易可能製品を強引に生み出して経済開発を推進してきた韓国や台湾、中国のように、経済の多角化に傾倒し、民間部門のダイナミズムを活用して活性化することのできる政府があればこそ、更に、グローバリゼーションの波に乗って成長率を引き上げることが出来るのだと言う指摘である。
これまで、経済発展論などについては、このブログでも、随分、考えて来たが、やはり、経済主体である国家の統治機構が如何にしっかりしているかが核であろう。
しかし、その核が如何に機能して、調和を保ちながら、グローバリゼーションに対応して行くのか、難しい問題ではある。