「平家女護島」は、近松門左衛門作の人形浄瑠璃なのだが、歌舞伎でも文楽でも、第二段の「鬼界が島」、もしくは「足摺」の段のみが、突出していて、殆どこの「俊寛」の舞台しか鑑賞の機会がないのだが、今回の文楽では、その前の「六波羅の段」や、その後の「舟路の道行きより敷名の浦の段」が上演されていて、違った俊寛の世界が見えて面白い。
「六波羅の段」では、俊寛の妻あずまやが、清盛の執心に耐えかねて自害すると言うストーリーで、
「敷名の浦の段」では、備後の敷名に赦免船が到着すると、丁度、厳島に参詣の途中の清盛に遭遇するのだが、平家追討の院宣を出されてはかなわないと、同道した後白河法皇を海中に突き落とすのを、俊寛の身代わりに船に乗って都へ向かう成経の妻千鳥が助けたので、清盛は熊手で千鳥を引き上げて頭を踏み砕く。俊寛を迎えに来ていた有王が、清盛の軍平を蹴散らして、千鳥から法皇を受け取って逃げ去る。千鳥の死骸から怨念の業火が上がって清盛の頭上にとりつくので、恐れをなした清盛は都へ逃げ帰る。
この文楽も、近松門左衛門の浄瑠璃から、かなり脚色もされているようだが、それはともかく、「平家物語」や、それを基にした能などと、筋が大きく変わっているのが興味深い。
大きく違っているのは、あずまやと有王の描き方で、「平家物語」では、
あづまやは、命を懸けて操を守り抜いたのではなく、鞍馬の奥に移り住み、鬼界が島に連れて行けと俊寛に纏わりついた幼女を亡くして悲嘆にくれて亡くなっており、
「有王島下り」の章で、俊寛が可愛がっていた侍童・有王が、鬼界が島を訪れて、俊寛にこの話をすると、妻子にもう一度会いたいばっかりに生きながらえて来たのだが、たどたどしい文を書いてよこした12歳の娘を一人残すのは不憫だけれど、これ以上苦労をかけるのも身勝手であろうと、俊寛は、絶食して弥陀の名号を唱えながら息を引き取る。
有王は、俊寛の遺骨を抱いて京に帰り、高野山に上って高野聖になって遺骨を首にかけ俊寛の菩提を弔い、
この娘も、法華寺にて仏門に入って俊寛の菩提を弔うのである。
この段の最後は、”か様に人の思ひ嘆きのつもりぬる平家のすゑこそおそろしけれ。”
「足摺」の俊寛の哀れさも、筆舌に尽くし難いが、この段の諸行無常も格別で、私は、あの「俊寛」の舞台も素晴らしいのだが、この段の平家物語の語りに涙を催した。
さて、もちろん、平家物語でも、妻への思いのみが俊寛の生きがいであったことを語っており、近松門左衛門の浄瑠璃をベースにした文楽や歌舞伎では、妻あづまやが清盛に殺されてこの世に居ないと使いの瀬尾太郎兼康に憎憎しく毒づかれ、一挙に、千鳥乗船の決意が固まり瀬尾を殺して罪人となって、鬼界が島に残る。
千鳥は、この俊寛の都に残した妻への限りなき愛を思っての近松の創作であろうし、この千鳥のロマンが欠落して居れば、この「足摺の段」は、単なる清盛の気まぐれで、俊寛が置いてけぼりを食った悲劇だけで終わってしまう。
尤も、能「俊寛」は、平家物語通り、それだけで、終わっていて、名曲になっているのだから、それで、良いのかも知れないのだが。
蛇足ながら、菊池寛の「俊寛」では、鰤を獲っているのをじっと眺めていた土人の長の娘と恋に落ち、結婚して5人も子供をもうけて幸せに暮らしていて、
訪ねてきた有王が、俊寛が、南蛮の女と契るなど嘆かわしい、平家に対する謀反の第一番であるから、鎌倉が疎かには思う筈はないので帰ろうと説得するのだが、人には死んだと言ってくれと言って島に残る。
芥川龍之介の「俊寛」は、鬼界が島を訪ねてきた有王が語るストーリーになっていて興味深い。
ただ、一点だけを記しておくと、最愛の妻であった筈のあずまやについて、
「有王。おれはこの島に渡って以来、何が嬉しかったか知っているか? それはあのやかましい女房のやつに、毎日小言を云われずとも、暮されるようになった事じゃよ。」
駄文ばかりを書き綴ってしまったが、この文楽を観る最大の楽しみは、「鬼界が島の段」だけだったが、簑助の遣う蜑千鳥の凄さ素晴らしさであり、これだけ観るだけでも、国立小劇場に足を運ぶべきであったであろう。
録画されているのであろうが、これだけは、実際の、悲嘆に暮れて非情さに慟哭してのたうつ人形の哀れ極まりない、しかし、実に美しい姿を、目に焼き付けない限り、その凄さを鑑賞できないと思う。
「六波羅の段」では、俊寛の妻あずまやが、清盛の執心に耐えかねて自害すると言うストーリーで、
「敷名の浦の段」では、備後の敷名に赦免船が到着すると、丁度、厳島に参詣の途中の清盛に遭遇するのだが、平家追討の院宣を出されてはかなわないと、同道した後白河法皇を海中に突き落とすのを、俊寛の身代わりに船に乗って都へ向かう成経の妻千鳥が助けたので、清盛は熊手で千鳥を引き上げて頭を踏み砕く。俊寛を迎えに来ていた有王が、清盛の軍平を蹴散らして、千鳥から法皇を受け取って逃げ去る。千鳥の死骸から怨念の業火が上がって清盛の頭上にとりつくので、恐れをなした清盛は都へ逃げ帰る。
この文楽も、近松門左衛門の浄瑠璃から、かなり脚色もされているようだが、それはともかく、「平家物語」や、それを基にした能などと、筋が大きく変わっているのが興味深い。
大きく違っているのは、あずまやと有王の描き方で、「平家物語」では、
あづまやは、命を懸けて操を守り抜いたのではなく、鞍馬の奥に移り住み、鬼界が島に連れて行けと俊寛に纏わりついた幼女を亡くして悲嘆にくれて亡くなっており、
「有王島下り」の章で、俊寛が可愛がっていた侍童・有王が、鬼界が島を訪れて、俊寛にこの話をすると、妻子にもう一度会いたいばっかりに生きながらえて来たのだが、たどたどしい文を書いてよこした12歳の娘を一人残すのは不憫だけれど、これ以上苦労をかけるのも身勝手であろうと、俊寛は、絶食して弥陀の名号を唱えながら息を引き取る。
有王は、俊寛の遺骨を抱いて京に帰り、高野山に上って高野聖になって遺骨を首にかけ俊寛の菩提を弔い、
この娘も、法華寺にて仏門に入って俊寛の菩提を弔うのである。
この段の最後は、”か様に人の思ひ嘆きのつもりぬる平家のすゑこそおそろしけれ。”
「足摺」の俊寛の哀れさも、筆舌に尽くし難いが、この段の諸行無常も格別で、私は、あの「俊寛」の舞台も素晴らしいのだが、この段の平家物語の語りに涙を催した。
さて、もちろん、平家物語でも、妻への思いのみが俊寛の生きがいであったことを語っており、近松門左衛門の浄瑠璃をベースにした文楽や歌舞伎では、妻あづまやが清盛に殺されてこの世に居ないと使いの瀬尾太郎兼康に憎憎しく毒づかれ、一挙に、千鳥乗船の決意が固まり瀬尾を殺して罪人となって、鬼界が島に残る。
千鳥は、この俊寛の都に残した妻への限りなき愛を思っての近松の創作であろうし、この千鳥のロマンが欠落して居れば、この「足摺の段」は、単なる清盛の気まぐれで、俊寛が置いてけぼりを食った悲劇だけで終わってしまう。
尤も、能「俊寛」は、平家物語通り、それだけで、終わっていて、名曲になっているのだから、それで、良いのかも知れないのだが。
蛇足ながら、菊池寛の「俊寛」では、鰤を獲っているのをじっと眺めていた土人の長の娘と恋に落ち、結婚して5人も子供をもうけて幸せに暮らしていて、
訪ねてきた有王が、俊寛が、南蛮の女と契るなど嘆かわしい、平家に対する謀反の第一番であるから、鎌倉が疎かには思う筈はないので帰ろうと説得するのだが、人には死んだと言ってくれと言って島に残る。
芥川龍之介の「俊寛」は、鬼界が島を訪ねてきた有王が語るストーリーになっていて興味深い。
ただ、一点だけを記しておくと、最愛の妻であった筈のあずまやについて、
「有王。おれはこの島に渡って以来、何が嬉しかったか知っているか? それはあのやかましい女房のやつに、毎日小言を云われずとも、暮されるようになった事じゃよ。」
駄文ばかりを書き綴ってしまったが、この文楽を観る最大の楽しみは、「鬼界が島の段」だけだったが、簑助の遣う蜑千鳥の凄さ素晴らしさであり、これだけ観るだけでも、国立小劇場に足を運ぶべきであったであろう。
録画されているのであろうが、これだけは、実際の、悲嘆に暮れて非情さに慟哭してのたうつ人形の哀れ極まりない、しかし、実に美しい姿を、目に焼き付けない限り、その凄さを鑑賞できないと思う。