熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

鎌倉便り・・・義経・腰越状ゆかりの万福寺

2017年02月14日 | 鎌倉・湘南日記
   稲村ケ崎から湘南街道に出て、海岸通りの歩道を、七里ガ浜を経て腰越に向かって歩いた。
   腰越の万福寺に行きたいと思ったのである。
   この街道を歩くのは初めてであったが、江の島と鎌倉の間を歩く観光客も、結構いて、海沿いに並ぶレストランや海鮮料理店が賑わっている。
   途中に、鈴木大拙などが建立したと言う晩年をここで過ごした西田幾多郎記念碑が立っていた。
   波が適当なのか、波乗りに興ずる若者たちもいた。
   
   
   
   

   腰越は、江の島が目と鼻の先の小さな漁港で、しらすが上がるので、鎌倉の名物のようになっている。
   万福寺と言えば、宇治にある中国ムード濃厚な禅寺黄檗山万福寺の方が有名で、学生の頃、教養部の宇治分校に通って居たので、何度も訪れているのだが、この腰越の万福寺は、真言宗大覚寺派の寺で、正式名は龍護山医王院満福寺で、744年に、聖武天皇の勅命で行基が建立した古刹だと言う。
   小動の交差点からはすぐで、御霊神社でも書いたが、この寺の参道も、江ノ電が横切っていて、入山する石段のすぐ下を、電車が走っている。
   
   

   石段を上がり、山門を潜ると、正面に本堂が現れ、左手の庫裡入口の手前に、義経と弁慶の腰越状作成シーンの彫像が立っている。
   左端に、弁慶の腰掛石があるのが、愛嬌であろうか。
   
   
   
   

   1185年に義経が兄頼朝から、鎌倉入りを許されず、この寺に逗留時に、頼朝に心情を訴える腰越状を書いたのだが、拝観入り口を入ると、玄関ホールの奥右手に、幸いにも、「不顧為敵亡命」の6文字が抜けたために残っている、弁慶が書いた腰越状の下書きとされる書状が、展示されている。
   寺の資料によると、この手紙は、起請文であり、兄上の恨みをかっているのは兄弟の前世の報いなのか、本心を述べたいので、兄上の慈悲にすがり、鎌倉入りを許してほしいと心情を吐露し、幼児の頃の哀話から父・義朝没後の経緯、挙兵の軍功のことなども語られていて、さながら、「義経物語」で貴重な資料だと言う。
   義経は、結局、鎌倉入りが出来ずに、涙を呑んで、ここから、京に帰ったのである。
   
   

   さて、私が興味を持ったのは、新しい作品なのだが、義経ゆかりの寺として、義経の歩んだ人生を、寺の本堂に、鎌倉彫の技法を取り入れて漆画で彩った、裏・表三十二面に、襖絵が、嵌め込まれていることであった。
   当然のことととして、歌舞伎や文楽、能の舞台を連想しながらの絵画鑑賞なのだが、手に取るように、劇的な舞台が脳裏を駆け巡って、しばし、感慨に耽っていた。
   まず、目に入ったのが、矢を受けて仁王立ちに立つ弁慶の最期。
   義経と静の別れ、悄然と去り行く静、しづやしづと舞を舞う静、義経と弁慶の平泉への旅立ち、矢を受ける馬上の義経、幼子を取り上げられる静・男の子であったので由比ヶ浜に沈められたという。
   客間のピアノの後ろには、この寺のテーマである腰越状作成シーンの劇的な襖絵がある。
    
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   

   帰途、殆ど正面に位置する、海側の小動神社に行った。
   新田義貞ゆかりの神社とかで、境内の高台から、腰越漁港越しに、江の島が良く見える。
   
   
   
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする