12月17日、宝生能楽堂で催された第8回能楽祭のプログラムは、
舞囃子 喜多流「清経」 シテ香川靖嗣
独吟 観世流「大原御幸」 シテ観世銕之丞
一調一管 金剛流「龍田」 種田道一 笛 松田弘之 太鼓 桜井均
仕舞 金春流「昭君」 シテ櫻間金記
狂言 和泉流「棒縛」 シテ野村萬斎
能 宝生流「竹雪」 シテ今井泰行
狂言の「棒縛」は、非常にポピュラーで、歌舞伎でも見る機会が多くて、結構、楽しい舞台で、主が、留守中に、倉の酒を飲まれては困るので、太郎冠者は、左右に伸ばした両手を棒に縛り付け、次郎冠者は後ろ手に縛り付けて外出するのだが、二人で、上手く工夫して酒をたらふく飲み、機嫌が良くなって騒いでいるところに、主が帰って来て叱ると言う話。
歌舞伎では、主が大名になって、音曲入りの派手な松羽目物の舞台になっていて、たのしませてくれる。
この狂言、太郎冠者が、酒を杯ですくって次郎冠者に飲ませ、逆に、次郎冠者の後ろ手に杯を持たせて、太郎冠者が酒を飲む仕草や、陽気に謡いながら、不自由な体でぎこちなく舞う様子など、非常にコミカルで面白い。
萬斎の棒振りは、他で観た能楽師より、非常にエネルギッシュで素早くパワーフルな演技で、それに、表情の豊かさが、観客の笑いを誘う。
萬の孫でありながら、萬斎の下で修業を続けている太一郎が、主を演じてよい味を見せている。
次郎冠者のベテラン深田博治は、萬斎との相性がよく好演。
能「竹雪」は、宝生と喜多にしかない稀曲とかで、上演機会も少なく、文化デジタルを調べても、最近では、2011年の国立能楽堂の喜多流の舞台しか出てこず、能楽講座や能を読むにも載っていないのだが、偶々、インターネットに、この関連記事と詞章が、掲載されていたので、これを読んでイメージを掴んで、能楽堂に出かけた。
「宝生の能」によると、次のようなストーリーである。
越後国の住人直井左衛門は、妻と離別し、二人の子の姉を母に、弟の月若を自分の方に置き、新たに妻を迎えた。宿願のため参籠する間、月若を後妻に頼んで出掛けたが、その留守中、継母に虐げられた月若は家を出ようと思い、暇乞いに実母を訪ねた。そこへ継母から迎えが来て仕方なく月若は家に帰り、継母は実母へ告げ口に行ったと腹を立て、月若のこそでを剥取り、薄着の月若に降り積もった竹の雪を払わる。月若は厳しい寒さの中、家にも入れて貰えず、遂に凍死する。その知らせを受けた実母と姉が、涙ながらに雪の中から月若を捜し出し、悲しみにくれていると、直井が帰宅して事の次第を知り、後妻の無情を共に嘆く。すると「竹故消ゆるみどり子を、又二度返すなり」と竹林の七賢の声がして、不思議にも月若は生き返る。親子は喜びあい、この家を改めて仏法流布の寺にする。
シテ/月若の母 今井奉行 ツレ/月若の姉 大友順 子方/月若 水上嘉
ワキ/直井左衛門 宝生欣也 アイ/継母 大藏彌太郎 同/従者 大藏教義
笛 一噌隆之 小鼓 大倉源次郎 大鼓 國川純
地謡 朝倉俊樹ほか
舞台には、竹垣に竹雪をあしらった作り物が、正先に置かれて、その後ろで、月若が倒れて雪に埋もれる。倒れた月若に大きな白布が被せられる。
詞章には、間狂言のシーンは書かれていないので、よく分からなかったが、舞台は非常にビビッドで、前半の舞台では、継母のわわしい女の、憎々しさが出色で、「腹立ちや、腹立ちや」と月若を苛め抜くシーンの連続は、劇そのものであったが、
後場では、アイの月若悲劇の通報を受けて、母と姉が、現地へ赴いて梅若を探し出すまでが、一気に、舞台がフリーズしてしまった感じで、動きの殆どない長い二人の掛合いと地謡との謡の連続で、「唐土の孟宗は、親のため雪中に入り筍をまうく、と言った故事まで引いての能の世界、
月若の亡骸を前にして悲嘆に暮れている二人の前に、直井が帰って来て、竹林の七賢のご利益で梅若が蘇生する幕切れは、簡潔でシンプル、
詞章にはなかった、囃子が舞台を去ったあと、地謡だけが残って、よく分からなかったが、越天楽であろうか、めでたい謡を謡って終わった、
詞章を数回読んだくらいでは、謡の声が良く聴き取れない上に、国立能楽堂のように字幕ディスプレィがないので、理解に苦しんだ。
しかし、シテ、ツレ、ワキのみならず、子方や二人のアイなども、舞台で、夫々、存在感ある役割を果たしていて、群像劇の面白さを楽しめた。
さて、この子供虐め、継子いじめの能が、どれ程あるのかは分からないが、今どきの児童虐待の世相の悲惨さを思うと、悲しいけれど、それ程珍しいテーマでもないのであろう。
思い出すのは、シンデレラの物語。
真っ先に得たイメージは、ディズニーのアニメ「シンデレラ」で、孫たちは、DVDで楽しんでいる。
私など、オペラで見る機会があって、ロッシーニの「チェネレントラ」を何回か観ており、
このブログのロンドン・ミラノ旅で、ミラノ・スカラ座での、ロッシーニ「シンデレラ」の観劇記を書いている。
昔、サンパウロに居た時に、サンパウロ・オペラに長女を連れて行ったのだが、チェネレントラは居丈夫な巨漢の歌手だったので、「何時まで経っても、奇麗にならないねえ」と言っていたのが印象に残っている。
能「竹雪」とシンデレラとは、何の関係もないのだが、何となく、ダブらせて、この能を鑑賞したのも、パーフォーマンス・アーツの豊かさゆえであろうか。
おとぎ話と、日本の精神史を体現した能の世界との落差の激しさが面白い。
舞囃子 喜多流「清経」 シテ香川靖嗣
独吟 観世流「大原御幸」 シテ観世銕之丞
一調一管 金剛流「龍田」 種田道一 笛 松田弘之 太鼓 桜井均
仕舞 金春流「昭君」 シテ櫻間金記
狂言 和泉流「棒縛」 シテ野村萬斎
能 宝生流「竹雪」 シテ今井泰行
狂言の「棒縛」は、非常にポピュラーで、歌舞伎でも見る機会が多くて、結構、楽しい舞台で、主が、留守中に、倉の酒を飲まれては困るので、太郎冠者は、左右に伸ばした両手を棒に縛り付け、次郎冠者は後ろ手に縛り付けて外出するのだが、二人で、上手く工夫して酒をたらふく飲み、機嫌が良くなって騒いでいるところに、主が帰って来て叱ると言う話。
歌舞伎では、主が大名になって、音曲入りの派手な松羽目物の舞台になっていて、たのしませてくれる。
この狂言、太郎冠者が、酒を杯ですくって次郎冠者に飲ませ、逆に、次郎冠者の後ろ手に杯を持たせて、太郎冠者が酒を飲む仕草や、陽気に謡いながら、不自由な体でぎこちなく舞う様子など、非常にコミカルで面白い。
萬斎の棒振りは、他で観た能楽師より、非常にエネルギッシュで素早くパワーフルな演技で、それに、表情の豊かさが、観客の笑いを誘う。
萬の孫でありながら、萬斎の下で修業を続けている太一郎が、主を演じてよい味を見せている。
次郎冠者のベテラン深田博治は、萬斎との相性がよく好演。
能「竹雪」は、宝生と喜多にしかない稀曲とかで、上演機会も少なく、文化デジタルを調べても、最近では、2011年の国立能楽堂の喜多流の舞台しか出てこず、能楽講座や能を読むにも載っていないのだが、偶々、インターネットに、この関連記事と詞章が、掲載されていたので、これを読んでイメージを掴んで、能楽堂に出かけた。
「宝生の能」によると、次のようなストーリーである。
越後国の住人直井左衛門は、妻と離別し、二人の子の姉を母に、弟の月若を自分の方に置き、新たに妻を迎えた。宿願のため参籠する間、月若を後妻に頼んで出掛けたが、その留守中、継母に虐げられた月若は家を出ようと思い、暇乞いに実母を訪ねた。そこへ継母から迎えが来て仕方なく月若は家に帰り、継母は実母へ告げ口に行ったと腹を立て、月若のこそでを剥取り、薄着の月若に降り積もった竹の雪を払わる。月若は厳しい寒さの中、家にも入れて貰えず、遂に凍死する。その知らせを受けた実母と姉が、涙ながらに雪の中から月若を捜し出し、悲しみにくれていると、直井が帰宅して事の次第を知り、後妻の無情を共に嘆く。すると「竹故消ゆるみどり子を、又二度返すなり」と竹林の七賢の声がして、不思議にも月若は生き返る。親子は喜びあい、この家を改めて仏法流布の寺にする。
シテ/月若の母 今井奉行 ツレ/月若の姉 大友順 子方/月若 水上嘉
ワキ/直井左衛門 宝生欣也 アイ/継母 大藏彌太郎 同/従者 大藏教義
笛 一噌隆之 小鼓 大倉源次郎 大鼓 國川純
地謡 朝倉俊樹ほか
舞台には、竹垣に竹雪をあしらった作り物が、正先に置かれて、その後ろで、月若が倒れて雪に埋もれる。倒れた月若に大きな白布が被せられる。
詞章には、間狂言のシーンは書かれていないので、よく分からなかったが、舞台は非常にビビッドで、前半の舞台では、継母のわわしい女の、憎々しさが出色で、「腹立ちや、腹立ちや」と月若を苛め抜くシーンの連続は、劇そのものであったが、
後場では、アイの月若悲劇の通報を受けて、母と姉が、現地へ赴いて梅若を探し出すまでが、一気に、舞台がフリーズしてしまった感じで、動きの殆どない長い二人の掛合いと地謡との謡の連続で、「唐土の孟宗は、親のため雪中に入り筍をまうく、と言った故事まで引いての能の世界、
月若の亡骸を前にして悲嘆に暮れている二人の前に、直井が帰って来て、竹林の七賢のご利益で梅若が蘇生する幕切れは、簡潔でシンプル、
詞章にはなかった、囃子が舞台を去ったあと、地謡だけが残って、よく分からなかったが、越天楽であろうか、めでたい謡を謡って終わった、
詞章を数回読んだくらいでは、謡の声が良く聴き取れない上に、国立能楽堂のように字幕ディスプレィがないので、理解に苦しんだ。
しかし、シテ、ツレ、ワキのみならず、子方や二人のアイなども、舞台で、夫々、存在感ある役割を果たしていて、群像劇の面白さを楽しめた。
さて、この子供虐め、継子いじめの能が、どれ程あるのかは分からないが、今どきの児童虐待の世相の悲惨さを思うと、悲しいけれど、それ程珍しいテーマでもないのであろう。
思い出すのは、シンデレラの物語。
真っ先に得たイメージは、ディズニーのアニメ「シンデレラ」で、孫たちは、DVDで楽しんでいる。
私など、オペラで見る機会があって、ロッシーニの「チェネレントラ」を何回か観ており、
このブログのロンドン・ミラノ旅で、ミラノ・スカラ座での、ロッシーニ「シンデレラ」の観劇記を書いている。
昔、サンパウロに居た時に、サンパウロ・オペラに長女を連れて行ったのだが、チェネレントラは居丈夫な巨漢の歌手だったので、「何時まで経っても、奇麗にならないねえ」と言っていたのが印象に残っている。
能「竹雪」とシンデレラとは、何の関係もないのだが、何となく、ダブらせて、この能を鑑賞したのも、パーフォーマンス・アーツの豊かさゆえであろうか。
おとぎ話と、日本の精神史を体現した能の世界との落差の激しさが面白い。