熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

国立能楽堂・・・組踊「銘苅子」: 能「羽衣」

2019年12月03日 | 能・狂言
   11月の国立能楽堂企画公演は、本年玉城朝薫が創始上演してから300周年を迎える組踊に注目して、朝薫が作った組踊とその基となった能を同時に、二日間、上演することになった。
   第1日目のタイトルは、
組踊上演300周年記念実行委員会共催事業
◎組踊上演300周年記念 能と組踊
演目: 組踊 銘苅子 (めかるしー) 宮城 能鳳
    能  羽衣(はごろも) 和合之舞(わごうのまい)  坂井 音重(観世流)

   この組み合わせで、私が最初に鑑賞したのは、2016年1月に、横浜能楽堂で、組踊も初めて観たのだが、優雅でおおらかな雰囲気が気に入って、ファンになった舞台である。
  組踊の天女は、今回と同じく、人間国宝の宮城能鳳であったが、能は、同じ観世流で、シテ(天人)は、浅見真州であった。

   さて、能「羽衣」は、
   春の日に、漁師・白龍(ワキ)は、三保浦で一枚の美しい衣を拾うのだが、天女(シテ)が自分の大切な衣だから返してくれと言うので、天人の羽衣と知った白龍は渋る。衣が無くては天界へ帰れないと嘆き、月の都を懐かしんで涙する天女の姿に同情した白龍は、名高き“天人の舞楽”を舞うことを条件に衣を返す。天女は、羽衣を身にまとい、富士山を背に、緑美しい三保浦で天人の舞を舞い戯れ、天の舞楽を人間界へと伝えて、数々の宝を地上に降らせて、天に帰って行く。
   実に、美しい舞台である。

   しかし、羽衣伝説は、他の動物譚と同じように、バリエーションがあって、
   組踊「銘苅子」では、天女は、衣を返してもらえず、仕方なく 銘苅子の妻となって二人の子供を儲けるも、羽衣を見つけて、子供たちを残して天に帰って行くと言うストーリーになっている。

   文化デジタルライブラリを要約すると、ストーリーは、
   農夫の銘苅子は、泉の周辺全体が明るくなってよい匂いがするので、様子を見ていると、美しい天女が現れ、髪を洗い出したすきに、羽衣を取ってしまう。天女は羽衣を取られ、天に帰ることもできないので、仕方なく銘苅子の妻となる。
   2人は女の子と男の子に恵まれたのだが、ある日、天女[母]は、子どもが歌う子守歌から、羽衣が米蔵の中に隠されていることを知り、羽衣が見つかったからには天界へ戻らなければならないと決心する。天女は、子ども達を寝かしつけ、羽衣を身にまとって天に昇り、子ども達は目が覚めて母がいなくなったことを知って、泣き叫び、飛天する母を追う。姉弟は毎日母を捜し歩くのだが、銘苅子は「母はこの世の人ではないから諦めるように」と諭す。
   そこへ首里王府の使者がやって来て、使者は「銘苅子の妻である天女が2人の子ども達を残して天に昇ってしまったという噂が首里城まで届いた。それを聞いた王は、姉は城内で養育し、弟は成長したら取り立て、銘苅子には士族の位を与えることにした」と伝達する。それを聞いた銘苅子親子は喜ぶ。

   ストーリーとしては、この方が面白いのだが、私は、どうしても、芦屋道満大内鑑の葛の葉の子別れの舞台を思い出して、切ない。
   大府からの有難いお達しだけれど、しかし、これが、ハッピーエンドと言えるのかどうか、やや、俗っぽい結末に、世相を感じるのである。

   口絵写真は、母が二人の子供を寝かせつけているシーンで、次の写真は、天に上る母を子供たちが見上げるシーンだが、能楽堂では、立体的な舞台が取れず、天女の飛翔は、橋掛かりが利用されている。
   

   組踊は、せりふ、音楽、踊りの3つの要素で構成される歌舞劇で、日本の古典芸能と違った、むしろ、オペラに近い独特なパーフォーマンス・アーツである。
  
   組踊の立方の唱えるせりふは、沖縄の古語や日本の古い言葉も使われていて殆ど分からないのだが、能楽堂の字幕ディスプレィでは、現代語訳なので助かる。
   せりふは、8音・6音で構成された沖縄独自のリズムがある詞章で表現され、緊迫した場面では、7音・5音で構成された詞章を使って、心情の変化を表現すると言うのだが、歌うように抑揚をつけて語るサウンドは、やはり、沖縄のオペラである。

   楽器は、能狂言や歌舞伎と違って、沖縄独特で、三線、箏、胡弓、笛、太鼓で、三人で奏する三線の演奏者は、地謡に似た役割も兼ねて、歌も担当するので「歌・三線」。

   随所に登場する立方の踊りは、琉球舞踊の型が基本と言うことだが、この琉球舞踊だけの舞台を観ても、日本舞踊とは違った趣があって大いに楽しめる。

   この「銘苅子」で胸を打つのは、飛天する母を追う子供たちの「やあ、母上よ、母上よ」悲痛な叫びに、天女が、顔を曇らせて、「これ迄よと思ば 飛びも飛ばれらぬ、産い子振別れの 百の苦れしや。」と抑えきれないやるせなさを吐露するシーン。
   人間国宝宮城能鳳の迫真の演技、余人をもって代えがたい舞台なのであろう。

   能「羽衣」も、白龍は、天女の舞との交換条件で、簡単に、羽衣を返すが、この「銘苅子」の方も、天女は、「羽衣を取られて、もはや、自由にならない。御意のままになりましょう。」と応え、銘苅子も、「ああ、天の引き合わせ、神の引き合わせよ、今日から一緒に契る嬉しさ。」と、いとも簡単に夫婦になる。
   浮世では、切った張ったどろどろした世界の筈だが、美しい物語は、シンプルであるべきなのであろうか。

   組踊の舞台展開で面白いのは、とんとんと、ストーリーが変わるごとに、演者が舞台から退場して、また、新しく登場することである。
   舞台展開が多いシェイクスピア戯曲では、RSCなど、同じ舞台上で、スポットライトを移しながら舞台を変えていたのと比べると、組踊は、能狂言のように、小劇場向きかも知れない。
   シェイクスピア戯曲でも、こじんまりとした木造の古い芝居小屋のようなクラシックな雰囲気の、ストラトフォード・アポン・エイボンの「スワン・シアター」で聴くと、格別な感興を覚えるのである。
コメント
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