学生時代に、和辻哲郎の「古寺巡礼」や、亀井勝一郎の「大和古寺風物誌」に魅かれて、奈良や京都の古寺散策に明け暮れていたので、西岡常一の本は、これまで、結構読んできている。
日経に私の履歴書で掲載されたときには、ロンドンにいたので、読みそびれていたので、改めて、法隆寺や薬師寺の素晴らしい建築を思い出しながら、読んでみたのである。
”法隆寺・薬師寺復興で名を馳せた西岡常一氏唯一の自伝に、職人や仏教関係者、文化人らのインタビュー・座談会を加え、「最後の宮大工」が遺した口伝を立体的に浮かび上がらせる。”と言う本で、随分前の本だが、オリンピック会場となる国際競技場(恐らく、100年も持たずに改築されるであろう)が完成と言う時期に、1000年以上も持つと言う日本の寺院建築が、どういう意味を持つのか、考えたかったのである。
これまで読んだ常一の本で、強烈に印象に残っているのは、法隆寺の1400年前のヒノキ材をカンナで削るとヒノキの香しい香りがすると言う信じられないような話や、1000年以上の寿命を経たヒノキは1000年以上持つと言うヒノキ材が寺院建築材として如何に優れているかと言う話、
木には、陽おもてと陽うらがあって、太陽に訓練された陽おもての木は、節が多く木目は粗いが硬いので、日のさす正面の南面に置き、陽うらの木は、裏に持ってくる、「木は生育の方位のままに使う適材適所」、「堂塔の木組は木の癖組み」だと言う話など、何故、法隆寺が美しくて凄い寺院建築なのかを語り、先哲(?)の教えを開陳しながら、匠の技を語っていたことである。
木と話し合いが出来ないと本当の大工に成れないと言う祖父の、工業高校行きを勧めた父を差し置いて、「人間も草も、みんな土から育つんや。宮大工は、まず土のことを学んで、土を良く知らんといかん。土を知ってはじめて、そこから育った木のことがわかるんや。」と言う強い信念に気圧されて、農業高校に進学して、これが、後年大いに役立ったと言う。
自分の息子たちに、自分を継ぐのであれば、国公立の工学部へ行って、建築に関しては知らんことはない、ひとかどの学者になるくらい木工や土木工学に至るまで精通してこい。建築の歴史的な流れは勿論、仏教伝来から今日に至る仏教史も教養として身に着け、自分の専門分野だけではなく、もっと広く雑学までやっとけ。知識は持っとかなあかん、だけど知識人にはなるな。と言っていたと言う。
祖父から伝授された「家訓」の冒頭に、「仏教を知らずして堂塔伽藍を論ずべからず。」とあるが、知識教養に裏打ちされた理論武装も必須だと言うことである。
文化財の修理や保存、設計や工事などで、学者たちとの論争で、正式な専門教育を受けていないために、専門知識を持ち合わせていないばかりに、いくら正しい自分の確信する正論でも、論破できなかった悔しさ悲しさが、こう言わせたのであろう。
しかし、常一は、独学の人で、書架には、最新工学大辞典、世界美術全集、法華経大講座など沢山の専門書などが並んでいて、論争・衝突した学者先生のところへ夜通い詰めて本を見せて貰っていたと言う。
法隆寺金堂の再建など大修理、法輪寺三重塔再建、薬師寺金堂再建などで、建築関連法規や学者たちとの論争で、鉄筋や鉄材使用で、「木が泣いている」と、木材で通したい持論を曲げられた西岡常一だが、薬師寺管主高田好胤に建白書を書いて認めさせた西塔再建では、設計担当の金多潔京大教授が、「東塔が千年前から建ってるんですから、西岡さんの思うとおりにやってください。」と言われて、ついに、古代のままに再建ができる。と喜んだ。この西塔は、屋根が東塔より平べったいのだが、100年も経てば屋根の重みで、東塔と調和すると言う巧の技である。
私は、極論すれば、東大や京大の大学院を出て最新の建築工学を極めた大先生のほんの基礎知識さえもなかった飛鳥の大工が、なぜ、今日の建築さえも凌駕するあんなにも美しくて堅牢な素晴らしい堂塔伽藍を建て得たのか、ずっと、疑問に思っていたのだが、この本を読んで、少し分かったような気がして、嬉しくなった。
新春早々、西ノ京を、時間が許せば、斑鳩の里を、歩こうと思っている。
日経に私の履歴書で掲載されたときには、ロンドンにいたので、読みそびれていたので、改めて、法隆寺や薬師寺の素晴らしい建築を思い出しながら、読んでみたのである。
”法隆寺・薬師寺復興で名を馳せた西岡常一氏唯一の自伝に、職人や仏教関係者、文化人らのインタビュー・座談会を加え、「最後の宮大工」が遺した口伝を立体的に浮かび上がらせる。”と言う本で、随分前の本だが、オリンピック会場となる国際競技場(恐らく、100年も持たずに改築されるであろう)が完成と言う時期に、1000年以上も持つと言う日本の寺院建築が、どういう意味を持つのか、考えたかったのである。
これまで読んだ常一の本で、強烈に印象に残っているのは、法隆寺の1400年前のヒノキ材をカンナで削るとヒノキの香しい香りがすると言う信じられないような話や、1000年以上の寿命を経たヒノキは1000年以上持つと言うヒノキ材が寺院建築材として如何に優れているかと言う話、
木には、陽おもてと陽うらがあって、太陽に訓練された陽おもての木は、節が多く木目は粗いが硬いので、日のさす正面の南面に置き、陽うらの木は、裏に持ってくる、「木は生育の方位のままに使う適材適所」、「堂塔の木組は木の癖組み」だと言う話など、何故、法隆寺が美しくて凄い寺院建築なのかを語り、先哲(?)の教えを開陳しながら、匠の技を語っていたことである。
木と話し合いが出来ないと本当の大工に成れないと言う祖父の、工業高校行きを勧めた父を差し置いて、「人間も草も、みんな土から育つんや。宮大工は、まず土のことを学んで、土を良く知らんといかん。土を知ってはじめて、そこから育った木のことがわかるんや。」と言う強い信念に気圧されて、農業高校に進学して、これが、後年大いに役立ったと言う。
自分の息子たちに、自分を継ぐのであれば、国公立の工学部へ行って、建築に関しては知らんことはない、ひとかどの学者になるくらい木工や土木工学に至るまで精通してこい。建築の歴史的な流れは勿論、仏教伝来から今日に至る仏教史も教養として身に着け、自分の専門分野だけではなく、もっと広く雑学までやっとけ。知識は持っとかなあかん、だけど知識人にはなるな。と言っていたと言う。
祖父から伝授された「家訓」の冒頭に、「仏教を知らずして堂塔伽藍を論ずべからず。」とあるが、知識教養に裏打ちされた理論武装も必須だと言うことである。
文化財の修理や保存、設計や工事などで、学者たちとの論争で、正式な専門教育を受けていないために、専門知識を持ち合わせていないばかりに、いくら正しい自分の確信する正論でも、論破できなかった悔しさ悲しさが、こう言わせたのであろう。
しかし、常一は、独学の人で、書架には、最新工学大辞典、世界美術全集、法華経大講座など沢山の専門書などが並んでいて、論争・衝突した学者先生のところへ夜通い詰めて本を見せて貰っていたと言う。
法隆寺金堂の再建など大修理、法輪寺三重塔再建、薬師寺金堂再建などで、建築関連法規や学者たちとの論争で、鉄筋や鉄材使用で、「木が泣いている」と、木材で通したい持論を曲げられた西岡常一だが、薬師寺管主高田好胤に建白書を書いて認めさせた西塔再建では、設計担当の金多潔京大教授が、「東塔が千年前から建ってるんですから、西岡さんの思うとおりにやってください。」と言われて、ついに、古代のままに再建ができる。と喜んだ。この西塔は、屋根が東塔より平べったいのだが、100年も経てば屋根の重みで、東塔と調和すると言う巧の技である。
私は、極論すれば、東大や京大の大学院を出て最新の建築工学を極めた大先生のほんの基礎知識さえもなかった飛鳥の大工が、なぜ、今日の建築さえも凌駕するあんなにも美しくて堅牢な素晴らしい堂塔伽藍を建て得たのか、ずっと、疑問に思っていたのだが、この本を読んで、少し分かったような気がして、嬉しくなった。
新春早々、西ノ京を、時間が許せば、斑鳩の里を、歩こうと思っている。