熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

”鎌倉の美しい中秋の名月”

2020年10月01日 | 花鳥風月・日本の文化風物・日本の旅紀行
   朝は、雨模様であったが、午後から、からりと晴れた素晴らしい秋日和になった。
   いつもは殆ど忘れている十五夜だが、今年は覚えていたので、孫を相手に月見をしようと思った。

   まず、団子だが、家内が用意してくれたので、次は、ススキである。
   わが庭に、ススキの株は何株か植わっているのだが、季節が合わず、枯れススキさえない。
   こんな場合には、花屋さんなら、必ずあるので、出かけて行った。
   幸い、ススキをアレンジした花束と、ばら売りのススキがあったので、ススキを三本買った。
   丁度、ハロウィンかぼちゃが、一つ残っていたので、と言っても、この店には毎年1つか2つくらいしか売っていないのだが、買って帰った。
   今年のハロウィンは10月31日なので、少し早いとは思ったのだが、探すのは大変だし、米国留学中に娘にハロウィンかぼちゃを買って、ジャック・オー・ランタンを作り始めてから、機会があれば、ずっと作り続けており、最近も、代替わりで孫たちのためにも毎年作っているので、私の大切な年中行事なのである。
   フィラデルフィアの時には、娘は、仮装してパンプキンの籠を持って、「トリック・オア・トリート」と唱えながら、友達と家々を回って、沢山のお菓子を貰って帰ってきていたが、日本では無理であろう。
   
   ススキ(尾花)の他に、秋の七草、クズ(葛花)・ナデシコ(瞿麦)・オミナエシ(姫部志)・フジバカマ(藤袴)とキキョウ(桔梗)があれば良いのだが、あいにく、わが庭にはいずれもないので諦めた。
   秋の味覚ということだが、わが庭には、柿の木が何本かあるだけで、それも、綺麗に色づいたら、片っ端からリスにやられるので、まだ、やや色づいた程度の柿しか収穫できない。
   結局、ススキと団子だけで、済ますことにした。
   
   さて、どんな花瓶にススキを生けるか、備前焼のシックな花瓶があるのだが、少し大きいので諦めて、一寸不似合いだと思ったのだが、香蘭社の一輪挿しと、団子にも同じ香蘭社の皿を使った。
   

   さて、十五夜の満月だが、日が暮れて大分経ってから、丁度、NHKの7時のニュースの時に、鎌倉山の山の端から、綺麗な姿を現して、一気に明るくなった。
   やや、オレンジが勝った大きな月である。
   しばらく眺めていると、ぐんぐん、上って行く。
   孫たちも、庭に出て満月を仰ぎながら月見団子を食べ始めた。
   岡山の桃太郎団子のような風味で美味しかった。

   私は、カメラを持ち出して、満月にフォーカスしたが、200ミリの望遠ズームの限界であろうか、以前のカメラでは、もう少しシャープに取れたのだが、どうしてもピントが甘く、良い写真が撮れなかった。
   露出を5段階落としたが、まだ、露出過多で白っぽく飛んでしまってダメで、シャッター優先に切り替えて、ASA感度と絞りを操作して、どうにか撮れたのだが、三脚を持ち出す気もなかったし、まあ、こんなところかという言う感じである。

   私が子供の頃、宝塚の田舎では、天ノ川が横たわる素晴らしい夜空が見えて、図鑑通りに星座を確認できたし、蛍狩りに野山を駆けまわっていた。
   今住んでいる鎌倉、それも、江ノ島に近い西外れの住宅街だが、普段は、金星や北極星くらいはよく見えるが、星座を探すのは殆ど無理である。
   虫の音も少なくなって、情緒も何もなくなってしまったが、今夜の満月は、昔のように、中天を支配して明るく輝いている。

   色々なところで、夜空を眺めて過ごしてきたが、一番忘れられないのは、もう、3~40年前の話になるが、パラグアイのエンカルナシオンの漆黒の夜空である。
   車で郊外に出て夜空を見上げると、まさに、星が降ってくると言う感じで、全く光のない太古のアダムとイブの時代の夜空が如何に美しかったことか、南半球であるから北極星は見えないが、南十字星。
   ここのホタルは、目が光るので、まさに、漢字の螢なのである。
   そんなことどもを思い出しながら、煌々と輝く十五夜の月を、しばらく眺めていた。
   

(追記)ススキは、自宅の庭の株を刈りすぎて、穂が出ていないかっただけで、散歩中に、近所の草むらや林で穂が風に靡いているの見つけて、注意散漫を反省している。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする