スティーブン・グリーンブラット教授の新著だが、東大の河合 祥一郎 教授の翻訳、
カレント・トピックスとも言うべきタイトルであり、シェイクスピア・ファンであるから、広告を見てすぐに手に取った。
尤も、シェイクスピア・ファンと言っても、最初は、戯曲なので、台詞の羅列に抵抗を感じて、観劇程度であったのだが、イギリスに赴任してから、RSCロイヤル・シェイクスピア・カンパニー (Royal Shakespeare Company)やロイヤル・ナショナル・シアターのシェイクスピアの舞台鑑賞にでかけて、5年間、通い詰めてからのことである。
当時、ロンドンのバービカン劇場にRSCの常設の劇場があって、ストラトフォード・アポン・エイボンの本拠と並行して公演を行っており、ここに通ったのだが、やはり、雰囲気のある本拠地の劇場で鑑賞したくなると、ストラトフォードに出かけた。
連続で鑑賞するときには、シェイクスピア・ホテルで宿泊し、仕事で多忙な時には、舞台がはねると、深夜に車を飛ばしてロンドンへ帰った。
大劇場よりは、古色蒼然とした木製の小劇場スワン座で鑑賞するのが好きだったのだが、時間がある時には、シェイクスピアの故地を自由気ままに歩いて、思いを馳せていた。
ケネス・ブラナーの「ハムレット」を鑑賞したのを覚えているのだが、5年間、劇場に何十回も通い続けていたのであるから、イギリスの多くの名優の舞台を楽しめたのだと思うが、殆ど記憶は残っていない。
しかし、シェイクスピアは、戯曲を読むだけではなく、これだけは、劇場に通って舞台を鑑賞しない限り、楽しめないと思っている。
シェイクスピア当時のグローブ座を現代に再現した劇場「シェイクスピアズ・グローブ」は、当時、建設中で、1997年完成したので、その後、何度か、ロンドンへの旅行途中に立ち寄って、シェイクスピア戯曲を観ており、その一部は、このブログのロンドン旅などに書いている。
この頃は、バービカンの劇場があったのかなかったのか、ロンドンでのRSCの舞台は、オールド・ヴィック劇場で上演されていて、「ウインザーの陽気な女房たち」を鑑賞した。
シェイクスピア戯曲は、観に行くと言うのではなく、聴きに行くと言うのだが、確かに、「恋に落ちたシェイクスピア」の舞台そっくりの青天井の「シェイクスピアズ・グローブ」で、ハムレットのような漆黒の闇の舞台を、太陽がカンカン照りつけたり、激しい雨に打たれて鑑賞するのであるから、まさに、観るのではなく聴きに行くべきなのである。

「ペリクリーズ」のカーテンコール

「冬物語」の舞台
さて、この本で取り上げられているシェイクスピア作品は、冒頭、紙幅の相当分を費やして語られているリチャード三世の伏線として、「ヘンリー六世第1部、第2部、第3部」「リチャード三世」「リチャード二世」「ヘンリー五世」等の史劇、「マクベス」「リア王」「ジュリアス・シーザー」「コリオレイナス」等の悲劇、そして、喜劇の「冬物語」である。
シェイクスピアが描いた暴君の筆頭は、役者にとってはハムレットと並んで最も憧れのキャラクターであるリチャード三世であろう。
「寸足らずの歪んだ出来損ないのまま生まれて、月足らずの未熟児としてこの世に放り出され」、生みの母から、「汚らしい、醜い肉の塊だ、蟇蛙だ」と罵られたリチャードは、恋を諦め、何としてでも権力を手にしてやろうとする。
際限のない自意識、法を破り、人に痛みを与えることに喜びを感じ、強烈な支配欲を持つ人物。病的にナルシストであり、この上なく傲慢だ。何だってやれると思い込み、自分には、資格があるとグロテスクに信じている。怒鳴って命令するのが好きで、命令を実行しようと手下どもが走り回るのを見るのに無上の喜びを感じる。絶対的忠誠を期待するが、自分が人に感謝することなど出来ない。他人の感情などどうでも良い。生まれついて品などないし、情もなければ礼儀も知らない。富の中に生まれ富に恵まれているので、何でも享受できるが、興奮するのは、支配の喜び、いわば、ガキ大将で、人が縮こまって震え痛みに顔をゆがめるのを観て喜ぶ。
セックスでも政治でも、やりたくて仕方なかった支配が思い通りになると、皆から嫌われていると分ってくる。そう分ると発憤して、ライバルや共謀者たちに警戒しようと燃え上がるのだが、ジワジワと参ってきて疲弊してしまう。
遅かれ早かれ、倒れるのだ。誰に愛されることも嘆かれることもなく死ぬのだ。後に残るのはがれきの山だけだ。リチャード三世など生まれなければ良かったのだ。と言う。
リチャードの悪事に気づかない人などまず居ない。その皮肉な態度や残酷さや裏切り体質は秘密でも何でもないし、人間として救われる要素など持ち合わせていないし、国を効果的に統治できると信じられる理由も一切ない。そんな人間が、そもそも、どうしてイングランドの王位に就けるのか。
そんなことが出来るのは、周りに居る人間たちがそれぞれ同じように自滅的な反応をしてしまうが故だとシェイクスピアは示唆している。こうした反応が集まると、国全体が一挙に崩壊するのだ。
著者は、リチャードの毒牙に罹って、徐々に絡み取られて、悪に加担して行く人々の心理や行動を詳細に分析して、最後に、殺害された兄のクラレンスの悪夢に託してリチャードの毒牙を語る。
暴君は、人の体を刺し貫くように、眠っている人の心の中まで入ってくる恐ろしいものだと言うことである。「リチャード三世」において、夢は単なる装飾的描写でもなければ、人の心の中を垣間見せるものでもない。暴君の力が、皆の悪夢の中に存在することを理解することが必要なのだ。暴君自体が悪夢なのであり、暴君は、悪夢を現実のものとするのである。
興味深いのは、この劇で、リチャードがのしあがれるのは、周りの連中とさまざまなレベルの共犯関係があるためだ。と言いながら、劇場では、不思議な共同作業に誘い込まれるのは、我々観客で、悪党のとんでもない行動に何度も魅了され、普通の人間としての態度などどうでもいいとする態度に魅せられて、誰も信じていないときでさえ、効果があるように思える嘘を楽しんでしまう。リチャードは、舞台上から、その嬉しそうな軽蔑を観客も一緒に味わい、おぞましいと分っている立場に立つことがどう言うことか、自分でも経験してみるように誘っている。その朗らかな邪悪さとひねくれたユーモアで、四世紀以上も観客を誘惑してきた。と言うことである。
ところで、シェイクスピアは、この戯曲で、リチャード三世を、暴君、巨悪の権化のように描いているのだが、ウィキペディアによると、
一方で、リチャード3世の悪名はテューダー朝によって着せられたものであるとして、汚名を雪ぎ「名誉回復」を図ろうとする「リカーディアン(Ricardian)」と呼ばれる歴史愛好家たちもおり、欧米には彼らの交流団体も存在する。リチャード3世を兄(エドワード4世)思いで甥殺しなどしない正義感の強い人物として描くベストセラー小説も、ジョセフィン・テイ『時の娘』(1951年)をはじめとして数多くある。と言うから、面白い。
カレント・トピックスとも言うべきタイトルであり、シェイクスピア・ファンであるから、広告を見てすぐに手に取った。
尤も、シェイクスピア・ファンと言っても、最初は、戯曲なので、台詞の羅列に抵抗を感じて、観劇程度であったのだが、イギリスに赴任してから、RSCロイヤル・シェイクスピア・カンパニー (Royal Shakespeare Company)やロイヤル・ナショナル・シアターのシェイクスピアの舞台鑑賞にでかけて、5年間、通い詰めてからのことである。
当時、ロンドンのバービカン劇場にRSCの常設の劇場があって、ストラトフォード・アポン・エイボンの本拠と並行して公演を行っており、ここに通ったのだが、やはり、雰囲気のある本拠地の劇場で鑑賞したくなると、ストラトフォードに出かけた。
連続で鑑賞するときには、シェイクスピア・ホテルで宿泊し、仕事で多忙な時には、舞台がはねると、深夜に車を飛ばしてロンドンへ帰った。
大劇場よりは、古色蒼然とした木製の小劇場スワン座で鑑賞するのが好きだったのだが、時間がある時には、シェイクスピアの故地を自由気ままに歩いて、思いを馳せていた。
ケネス・ブラナーの「ハムレット」を鑑賞したのを覚えているのだが、5年間、劇場に何十回も通い続けていたのであるから、イギリスの多くの名優の舞台を楽しめたのだと思うが、殆ど記憶は残っていない。
しかし、シェイクスピアは、戯曲を読むだけではなく、これだけは、劇場に通って舞台を鑑賞しない限り、楽しめないと思っている。
シェイクスピア当時のグローブ座を現代に再現した劇場「シェイクスピアズ・グローブ」は、当時、建設中で、1997年完成したので、その後、何度か、ロンドンへの旅行途中に立ち寄って、シェイクスピア戯曲を観ており、その一部は、このブログのロンドン旅などに書いている。
この頃は、バービカンの劇場があったのかなかったのか、ロンドンでのRSCの舞台は、オールド・ヴィック劇場で上演されていて、「ウインザーの陽気な女房たち」を鑑賞した。
シェイクスピア戯曲は、観に行くと言うのではなく、聴きに行くと言うのだが、確かに、「恋に落ちたシェイクスピア」の舞台そっくりの青天井の「シェイクスピアズ・グローブ」で、ハムレットのような漆黒の闇の舞台を、太陽がカンカン照りつけたり、激しい雨に打たれて鑑賞するのであるから、まさに、観るのではなく聴きに行くべきなのである。

「ペリクリーズ」のカーテンコール

「冬物語」の舞台
さて、この本で取り上げられているシェイクスピア作品は、冒頭、紙幅の相当分を費やして語られているリチャード三世の伏線として、「ヘンリー六世第1部、第2部、第3部」「リチャード三世」「リチャード二世」「ヘンリー五世」等の史劇、「マクベス」「リア王」「ジュリアス・シーザー」「コリオレイナス」等の悲劇、そして、喜劇の「冬物語」である。
シェイクスピアが描いた暴君の筆頭は、役者にとってはハムレットと並んで最も憧れのキャラクターであるリチャード三世であろう。
「寸足らずの歪んだ出来損ないのまま生まれて、月足らずの未熟児としてこの世に放り出され」、生みの母から、「汚らしい、醜い肉の塊だ、蟇蛙だ」と罵られたリチャードは、恋を諦め、何としてでも権力を手にしてやろうとする。
際限のない自意識、法を破り、人に痛みを与えることに喜びを感じ、強烈な支配欲を持つ人物。病的にナルシストであり、この上なく傲慢だ。何だってやれると思い込み、自分には、資格があるとグロテスクに信じている。怒鳴って命令するのが好きで、命令を実行しようと手下どもが走り回るのを見るのに無上の喜びを感じる。絶対的忠誠を期待するが、自分が人に感謝することなど出来ない。他人の感情などどうでも良い。生まれついて品などないし、情もなければ礼儀も知らない。富の中に生まれ富に恵まれているので、何でも享受できるが、興奮するのは、支配の喜び、いわば、ガキ大将で、人が縮こまって震え痛みに顔をゆがめるのを観て喜ぶ。
セックスでも政治でも、やりたくて仕方なかった支配が思い通りになると、皆から嫌われていると分ってくる。そう分ると発憤して、ライバルや共謀者たちに警戒しようと燃え上がるのだが、ジワジワと参ってきて疲弊してしまう。
遅かれ早かれ、倒れるのだ。誰に愛されることも嘆かれることもなく死ぬのだ。後に残るのはがれきの山だけだ。リチャード三世など生まれなければ良かったのだ。と言う。
リチャードの悪事に気づかない人などまず居ない。その皮肉な態度や残酷さや裏切り体質は秘密でも何でもないし、人間として救われる要素など持ち合わせていないし、国を効果的に統治できると信じられる理由も一切ない。そんな人間が、そもそも、どうしてイングランドの王位に就けるのか。
そんなことが出来るのは、周りに居る人間たちがそれぞれ同じように自滅的な反応をしてしまうが故だとシェイクスピアは示唆している。こうした反応が集まると、国全体が一挙に崩壊するのだ。
著者は、リチャードの毒牙に罹って、徐々に絡み取られて、悪に加担して行く人々の心理や行動を詳細に分析して、最後に、殺害された兄のクラレンスの悪夢に託してリチャードの毒牙を語る。
暴君は、人の体を刺し貫くように、眠っている人の心の中まで入ってくる恐ろしいものだと言うことである。「リチャード三世」において、夢は単なる装飾的描写でもなければ、人の心の中を垣間見せるものでもない。暴君の力が、皆の悪夢の中に存在することを理解することが必要なのだ。暴君自体が悪夢なのであり、暴君は、悪夢を現実のものとするのである。
興味深いのは、この劇で、リチャードがのしあがれるのは、周りの連中とさまざまなレベルの共犯関係があるためだ。と言いながら、劇場では、不思議な共同作業に誘い込まれるのは、我々観客で、悪党のとんでもない行動に何度も魅了され、普通の人間としての態度などどうでもいいとする態度に魅せられて、誰も信じていないときでさえ、効果があるように思える嘘を楽しんでしまう。リチャードは、舞台上から、その嬉しそうな軽蔑を観客も一緒に味わい、おぞましいと分っている立場に立つことがどう言うことか、自分でも経験してみるように誘っている。その朗らかな邪悪さとひねくれたユーモアで、四世紀以上も観客を誘惑してきた。と言うことである。
ところで、シェイクスピアは、この戯曲で、リチャード三世を、暴君、巨悪の権化のように描いているのだが、ウィキペディアによると、
一方で、リチャード3世の悪名はテューダー朝によって着せられたものであるとして、汚名を雪ぎ「名誉回復」を図ろうとする「リカーディアン(Ricardian)」と呼ばれる歴史愛好家たちもおり、欧米には彼らの交流団体も存在する。リチャード3世を兄(エドワード4世)思いで甥殺しなどしない正義感の強い人物として描くベストセラー小説も、ジョセフィン・テイ『時の娘』(1951年)をはじめとして数多くある。と言うから、面白い。