リチャード三世は、まさに、暴君ではあったが、その後のマクベス以降の見解が、興味深い。
まず、マクベスだが、実際の舞台では、RSCで二回ほど、また、このブログに書いているのは、蜷川幸雄の「マクベス」、ロシアのユーゴザーパド劇場の「マクベス」、能楽堂のシェイクスピア:市川右近&笑也、藤間紫の「マクベス」の三回だが、他の舞台でも観ており、DVDや映画も観ているで、鑑賞する機会が多い。
それに、オペラでは、ロンドンで、ロイヤル・オペラとイングリッシュ・ナショナル・オペラで一回ずつ、最も最近は、5年前のロイヤル・オペラの来日公演に出かけており、私にとっては、マムベスは、結構、お馴染みのシェイクスピア劇なのである。
また、イングランドのニューキャッスルから、アザミの咲く荒野の国境を超えて、マクベスの舞台であるエジンバラなどスコットランドを一週間ほど車で走ったときには、映画のシーンを彷彿とさせる風景が随所に展開されていて、勝手に、シェイクスピア戯曲の舞台を反芻して悦に入っていた。
ところで、マクベス将軍は、ダンカン王の治世を忠実に守ってきた、仲間意識の強く信頼の厚い軍の指導者であって、リチャード三世のように、あらゆる障害を乗り越えて絶対権力を手に入れようなどとは毫も思っていなかったし、王になるなどその片鱗さえ頭にはなかった。
運命の歯車を狂わせたのは、三人の魔女たちの気味の悪い挨拶――「万歳、マクベス、やがて王となるお方!」――に驚き、恐怖に身を震わせた。その瞬間である。
ダンカン王が、不運にも、マクベスの城を訪れた時に、マクベスは、自分の中に目覚めた謀反の幻想に心を動かされるものの、忠誠を誓った主君を襲うという考えに恐れを抱くのだが、それでも男かと脅迫まがいの妻の唆しに屈して、逡巡しながら、ダンカン王を殺害して、スコットランド王位を簒奪する。
蜷川マクベスはロンドンで観たのだが、マクベス夫人を演じた栗原小巻の、強烈な偉丈夫ぶりや、発狂して夢遊病になって彷徨う狂乱の場の素晴らしい舞台が印象に残っている。
マクベスの友人バンクォーは、魔女の予言も、マクベスが汚い手で王位を得たのも知っており、また、魔女の予言「王を生みはするが、ご自身は王にならぬお方」によって、バンクォーの息子に王位が移ることを案じたマクベスは、バンクォー父子の殺害を部下に命じるのだが、息子フリーアンスは取り逃がす。結局、マクベスは、追い詰めれれて戦うも、殺される。
王位に就いたマクベスは、完璧さを求めて、しっかりした堅固さ、盤石の固さ、大気のように自由自在にどこにでも行ける浸透性、不可視性、人間的な制限から逃れることを夢見たのだが、それは、あさましくも、ありえない精神的次元の願いで、その「完璧」であろうと願うための手段は、バンクォー父子殺害だと判明したのだという。
シェイクスピア作品でずっとそうだったのは、暴君の態度は病的なナルシシズムに傾き、ほかの連中の命などどうでもよく、重要なのは、自分が「完全」で「ゆるぎない」と感じられることで、宇宙など粉々になるがいい、天地がひっくり返ってもよい。とマクベスは豪語する。
専制政治とは、今のみならず、これから生まれる世代をも永遠に潰さなければ続かない。マクベスが子供殺しとなるのは偶然ではない。暴君は、未来の敵なのだ。と言うのである。
また、シェイクスピアは、四面楚歌の暴君が、自己愛と自己嫌悪に引き裂かれる状況を活写したが、このマクベスでは、さらに深い試みとして、裏切り、空虚な言葉、あまりにも多くの無実の人の流血は、いったい何のためだったのか?マクベスは、完全な無意味さを味わうというすさまじい経験をした。と言うのである。
「リア王」では、シェイクスピアは、最初は正統な支配者であったのに、精神的不安定さのために暴君のようにふるまいだす人が引き起こす問題を語る。
そうした連中が国民に与える恐怖、ひいては自らに与える恐怖は、疾患によるもので、周りに真面な取り巻きが存在していても、狂気ゆえの専制政治に対抗するのは極めて難しく、これまでの長きに亘る忠誠や信頼ゆえに、王に唯々諾々としたがう癖がついている。
冒頭の国家分割の愛情合戦は、まさに、引退に当たっての独裁者の虚栄を満足させるに過ぎない常軌を逸した愚挙なのだが、これが、リア王悲劇の発端である。
リアの暴君的な振る舞いに反対したコーディーリアとケント伯が追放され、リアは退位し、国は崩壊の一途をたどる。
暴君となるのは、力を奪われ狂気となるリアではなくて、どのような法律にも束縛されまいとし、基本的な人間らしい振る舞いさえ無視しようとする邪悪な娘たち二人である。
正当な支配者が発狂して暴君のようにふるまい始めるというモチーフを主題にしたのが、晩年の喜劇「冬物語」。
15年前に、ロンドンのグローブ座で観て、このブログ ”文化三昧ミラノ・ロンドン旅・・・20 グローブ座のシェイクスピア、 本格的な「冬物語」”に書いているが、最も最近観たのは、2009年の彩の国さいたま芸術劇場での蜷川幸雄「冬物語」
私が、最初に感動した舞台は、エイドリアン・ノーブル演出のRSCの「冬物語」で、ロンドンと東京で2回観たのだが、視覚的にも実に美しく楽しい舞台であった。
シシリア王リオンティーズが、臨月の妻ハーマイオニが、浮気を働き、王のではない子を孕んだという確信の形をとった被害妄想に取りつかれて暴君に変身するという物語である。
9か月シシリアに滞在した王の親友ボヘミア王ポリクシニーズに疑惑が掛けられる。忠臣や侍女たちが否定するのだが、暴君には、事実や証拠などどうでもよい。自分が非難しているだけで十分で、反対する者は、嘘つきか馬鹿者である。
暴君が求める忠誠は、暴君の意見を臆面もなく直ちに承認し、暴君の命令を躊躇なく実行することである。ワンマンの被害妄想の自己愛的な支配者が、公務員と席を共にして忠誠を求めるとき、国家は危険なことになる。という。著者は、どこかの国のことを揶揄しているのであろうか。
ところで、このリオンティーズは、アポロンの神殿の神託まで真実でないと蹴って、妃を裁判にかけるのであるから処置なしである。
尤も、ハッピーエンドなので喜劇なのだが、王が被害妄想になって暴君となると如何に凄まじいかを語って面白い。
さて、最後は、「コリオレイナス」だが、殆ど、シェイクスピアの舞台は観ているはずなのだが、この演目だけは、鑑賞する機会がなかったのか、全く記憶にはない。
興味深いのだが、コメントを避けることとする。
とにかく、シェイクスピアの政治学なので、戯曲に登場する暴君についての分析なのだが、これだけ、深く追求できるのかと示されてみると、シェイクスピアの偉大さというか、尋常ではない作家としての力量に脱帽せざるを得ない。
イギリスでは、白水社の小田島雄志教授のシェイクスピア全集を一冊ずつ丹念に読んで劇場へ通った。
また、日本の古典芸術である歌舞伎の十二夜や「葉武列土倭錦絵 ハムレット」、そして、文楽の「天変斯止嵐后晴 テンペスト」や「不破留寿之太夫 ファルスタッフ」も楽しかったし、黒澤明のシェイクスピア映画の素晴らしさは、また、格別であったし、蜷川のシェイクスピアの素晴らしさは、イギリスでも折り紙付きであった。
随分、一喜一憂しながら、シェイクスピア戯曲に入れ込んできたのかと思うと感無量である。
まず、マクベスだが、実際の舞台では、RSCで二回ほど、また、このブログに書いているのは、蜷川幸雄の「マクベス」、ロシアのユーゴザーパド劇場の「マクベス」、能楽堂のシェイクスピア:市川右近&笑也、藤間紫の「マクベス」の三回だが、他の舞台でも観ており、DVDや映画も観ているで、鑑賞する機会が多い。
それに、オペラでは、ロンドンで、ロイヤル・オペラとイングリッシュ・ナショナル・オペラで一回ずつ、最も最近は、5年前のロイヤル・オペラの来日公演に出かけており、私にとっては、マムベスは、結構、お馴染みのシェイクスピア劇なのである。
また、イングランドのニューキャッスルから、アザミの咲く荒野の国境を超えて、マクベスの舞台であるエジンバラなどスコットランドを一週間ほど車で走ったときには、映画のシーンを彷彿とさせる風景が随所に展開されていて、勝手に、シェイクスピア戯曲の舞台を反芻して悦に入っていた。
ところで、マクベス将軍は、ダンカン王の治世を忠実に守ってきた、仲間意識の強く信頼の厚い軍の指導者であって、リチャード三世のように、あらゆる障害を乗り越えて絶対権力を手に入れようなどとは毫も思っていなかったし、王になるなどその片鱗さえ頭にはなかった。
運命の歯車を狂わせたのは、三人の魔女たちの気味の悪い挨拶――「万歳、マクベス、やがて王となるお方!」――に驚き、恐怖に身を震わせた。その瞬間である。
ダンカン王が、不運にも、マクベスの城を訪れた時に、マクベスは、自分の中に目覚めた謀反の幻想に心を動かされるものの、忠誠を誓った主君を襲うという考えに恐れを抱くのだが、それでも男かと脅迫まがいの妻の唆しに屈して、逡巡しながら、ダンカン王を殺害して、スコットランド王位を簒奪する。
蜷川マクベスはロンドンで観たのだが、マクベス夫人を演じた栗原小巻の、強烈な偉丈夫ぶりや、発狂して夢遊病になって彷徨う狂乱の場の素晴らしい舞台が印象に残っている。
マクベスの友人バンクォーは、魔女の予言も、マクベスが汚い手で王位を得たのも知っており、また、魔女の予言「王を生みはするが、ご自身は王にならぬお方」によって、バンクォーの息子に王位が移ることを案じたマクベスは、バンクォー父子の殺害を部下に命じるのだが、息子フリーアンスは取り逃がす。結局、マクベスは、追い詰めれれて戦うも、殺される。
王位に就いたマクベスは、完璧さを求めて、しっかりした堅固さ、盤石の固さ、大気のように自由自在にどこにでも行ける浸透性、不可視性、人間的な制限から逃れることを夢見たのだが、それは、あさましくも、ありえない精神的次元の願いで、その「完璧」であろうと願うための手段は、バンクォー父子殺害だと判明したのだという。
シェイクスピア作品でずっとそうだったのは、暴君の態度は病的なナルシシズムに傾き、ほかの連中の命などどうでもよく、重要なのは、自分が「完全」で「ゆるぎない」と感じられることで、宇宙など粉々になるがいい、天地がひっくり返ってもよい。とマクベスは豪語する。
専制政治とは、今のみならず、これから生まれる世代をも永遠に潰さなければ続かない。マクベスが子供殺しとなるのは偶然ではない。暴君は、未来の敵なのだ。と言うのである。
また、シェイクスピアは、四面楚歌の暴君が、自己愛と自己嫌悪に引き裂かれる状況を活写したが、このマクベスでは、さらに深い試みとして、裏切り、空虚な言葉、あまりにも多くの無実の人の流血は、いったい何のためだったのか?マクベスは、完全な無意味さを味わうというすさまじい経験をした。と言うのである。
「リア王」では、シェイクスピアは、最初は正統な支配者であったのに、精神的不安定さのために暴君のようにふるまいだす人が引き起こす問題を語る。
そうした連中が国民に与える恐怖、ひいては自らに与える恐怖は、疾患によるもので、周りに真面な取り巻きが存在していても、狂気ゆえの専制政治に対抗するのは極めて難しく、これまでの長きに亘る忠誠や信頼ゆえに、王に唯々諾々としたがう癖がついている。
冒頭の国家分割の愛情合戦は、まさに、引退に当たっての独裁者の虚栄を満足させるに過ぎない常軌を逸した愚挙なのだが、これが、リア王悲劇の発端である。
リアの暴君的な振る舞いに反対したコーディーリアとケント伯が追放され、リアは退位し、国は崩壊の一途をたどる。
暴君となるのは、力を奪われ狂気となるリアではなくて、どのような法律にも束縛されまいとし、基本的な人間らしい振る舞いさえ無視しようとする邪悪な娘たち二人である。
正当な支配者が発狂して暴君のようにふるまい始めるというモチーフを主題にしたのが、晩年の喜劇「冬物語」。
15年前に、ロンドンのグローブ座で観て、このブログ ”文化三昧ミラノ・ロンドン旅・・・20 グローブ座のシェイクスピア、 本格的な「冬物語」”に書いているが、最も最近観たのは、2009年の彩の国さいたま芸術劇場での蜷川幸雄「冬物語」
私が、最初に感動した舞台は、エイドリアン・ノーブル演出のRSCの「冬物語」で、ロンドンと東京で2回観たのだが、視覚的にも実に美しく楽しい舞台であった。
シシリア王リオンティーズが、臨月の妻ハーマイオニが、浮気を働き、王のではない子を孕んだという確信の形をとった被害妄想に取りつかれて暴君に変身するという物語である。
9か月シシリアに滞在した王の親友ボヘミア王ポリクシニーズに疑惑が掛けられる。忠臣や侍女たちが否定するのだが、暴君には、事実や証拠などどうでもよい。自分が非難しているだけで十分で、反対する者は、嘘つきか馬鹿者である。
暴君が求める忠誠は、暴君の意見を臆面もなく直ちに承認し、暴君の命令を躊躇なく実行することである。ワンマンの被害妄想の自己愛的な支配者が、公務員と席を共にして忠誠を求めるとき、国家は危険なことになる。という。著者は、どこかの国のことを揶揄しているのであろうか。
ところで、このリオンティーズは、アポロンの神殿の神託まで真実でないと蹴って、妃を裁判にかけるのであるから処置なしである。
尤も、ハッピーエンドなので喜劇なのだが、王が被害妄想になって暴君となると如何に凄まじいかを語って面白い。
さて、最後は、「コリオレイナス」だが、殆ど、シェイクスピアの舞台は観ているはずなのだが、この演目だけは、鑑賞する機会がなかったのか、全く記憶にはない。
興味深いのだが、コメントを避けることとする。
とにかく、シェイクスピアの政治学なので、戯曲に登場する暴君についての分析なのだが、これだけ、深く追求できるのかと示されてみると、シェイクスピアの偉大さというか、尋常ではない作家としての力量に脱帽せざるを得ない。
イギリスでは、白水社の小田島雄志教授のシェイクスピア全集を一冊ずつ丹念に読んで劇場へ通った。
また、日本の古典芸術である歌舞伎の十二夜や「葉武列土倭錦絵 ハムレット」、そして、文楽の「天変斯止嵐后晴 テンペスト」や「不破留寿之太夫 ファルスタッフ」も楽しかったし、黒澤明のシェイクスピア映画の素晴らしさは、また、格別であったし、蜷川のシェイクスピアの素晴らしさは、イギリスでも折り紙付きであった。
随分、一喜一憂しながら、シェイクスピア戯曲に入れ込んできたのかと思うと感無量である。