熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

エコノミストの見る日本(その1)・・・陽はまた昇る、本当か?

2005年10月14日 | 政治・経済・社会
   近代国家で、世界的な賞賛を浴びながら、一気にその人気が奈落の底に突き落とされた国は、日本を置いて他にない。
そんな書き出しで始まるロンドン・エコノミストのビル・エモットの日本特集「The sun also rises」は、日本の景気回復は本物であると、報告している。
   日本の奇跡的な経済成長が永続すると皆が信じて疑わなかった時期、1989年に、ビル・エモットは、日本経済の黄昏を予見して「The sun also sets」を出版したのであるが、今回は、自分勝手ながら、太陽は、また昇る、今から、昇るのだと言うことで、この表題にして日本をサーベイしたと言う。

   しかし、この楽観主義は、小泉首相の勝利が急激な変化の先触れであるとか、郵政民営化が 日本経済を成長路線に導くとかいった理由ではなく、この小泉の勝利が、長期に渡って蓄積されてきた多くの変化の絶頂期に齎され、かつ、この変化が、後戻りせずに持続すると確信できる事実を歓迎したからである、と言う。
   小泉首相の路線、小さな政府構想が今後の自民党政府に継承されて、政府の規模や役割が縮小してくるにつれて、今まで負んぶに抱っこであった政府の財政負担も徐々に軽減されるであろうと見ている。

   ビル・エモットの指摘で面白いのは次の点である。
   日本は革命を経験していないし、マーガレット・サッチャーの改革や中欧の改革のようなショック療法さえ経験していないように、急激な改革を嫌う傾向がある。
しかし、一度合意に達するとそのコースを忠実に、しっかりと遂行する。
これまでの日本の改革は、新しいコースと行動規範を決めて小さな改革を少しづつ積み重ねてきた過程で実現されてきたものである。
即ち、政治改革、金融政策、金融市場、商法改正、企業環境、世論、等々の変化や改革である。

   ビル・エモットは、他の変化や改革を含めて、「A very stealthy revolution 非常にこっそりと誰にも気付かれない革命?」と呼んでいるこの失われた15年間の日本の経済社会の変化を克明にレポートしている。   

   問題点は二つあるとして、一つは、このプロセスが永続するのかどうか、二つ目は、過去の負債、デフレ、違法行為、労働保護等の過去の重荷が、改革によって達成されたベネフィットを帳消しにしてしまうのか、或いは、日本が普通の国として成長と発展の過程に入るのかどうかであると言う。
   第一の答えは、先の衆議院選挙の結果で出ているとしている。

   この変化が継続可能かどうかを可なり適切に示すデータがあるとして、日本の労働市場と賃金の動向について詳しく触れている。
   終身雇用制の日本が、不況とともに臨時雇用労働者に比重が移り、最近では常用労働者が増えてきている事情、そして、賃金が上がっても当分目減りした貯蓄の回復に回って景気の動向を左右する消費には向きそうにない。
   しかし、債務、設備、労働の3つの過剰負債から開放された今、輸出や財政に頼よる経済ではなく、個人消費と企業支出に支えられた経済に移行すれば安泰だと言う。

   第2章の「Capitarism with Japanese characteristics」で、突然、株主が問題にし始めたとして、最近の日本企業を取り巻く環境について、ホリエモンのニッポン放送買収に始まるM&A、企業不祥事、商法や証取法や独禁法の改正、等々日本の資本主義の変化・変質を克明に報告している。
   しかし、コーポレート・ガバナンスにしても、独占禁止法の運用等にしても欧米水準から行けば、まだまだ甘いとも指摘している。

   このレポートの最初の経済的な面だけに触れただけだが、別な視点から見た日本が垣間見えて面白かった。
   しかし、ジャーナリスティックすぎて、日本の表層的な変化は分かるが、根本的な日本の社会主義的だった資本主義の大きな変化や、グローバルの熾烈な競争社会の中で企業が如何に競争力を回復して来たのか、或いは、中国ばかりに目が行っているが、グローばる経済社会の中での遥かに豊かで技術力と実質的なパワーのある日本経済の本質的な位置づけ等々触れて欲しい面が無視されていて、消化不良を感じた。
   古い体制が、ガラガラ音を立てて崩れ始めて、新しい体制がいつの間にか普通になりつつある、そんな動きをし始めた日本の政治経済社会の変化をもう少し本質的に見て欲しかった、という思いである。
   要するに、今度の経済回復は本物だと見ていることは分るが、十分に納得できない、そんなレポートであったような気がしている。

   
   
   
   
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散策の楽しみ・・・佐倉城址、そして、歴博、くらしの植物苑

2005年10月13日 | 生活随想・趣味
   最近は時間があると佐倉城址を歩く。
   印旛沼に程近い佐倉市の町外れの小高い丘が佐倉城址で、豊かな緑に囲まれている。
   四季の季節の変化を感じさせてくれる植物や花木が色々あって、特に、桜の季節など実に豪華絢爛と咲いてくれる。
八重桜の大木が沢山あって、遅くまで桜を愛でることが出来る。
   それに、もう少しすると紅葉が美しくなる。
   丘陵のくぼ地に池があって、今、はすの花が咲いている。

   この城址には、国立歴史民族博物館がある。
   日本でも屈指の博物館で、日本文化のあけぼのから、縄文人の生活から歴史を紐解いて現在まで、日本民族の文化と生活に視点をあてて、その移り変わりを素晴しい模型や資料をふんだんに駆使して展示していて、何度行っても新鮮な発見があって楽しい。

   散歩道と言うと語弊があるが、佐倉城址公園の散策とミックスすると結構楽しい。
   不満を言えば、もう少し気の利いた喫茶コーナーがあればと思っている。
   立派な博物館や美術館には、素晴しい庭園や緑の空間があるのだから、更に知的好奇心を満足させ、感性を高めてくれるような気持ちの良い憩いの場所を提供してもらっても良いと思っている。

   この歴博には、立派な研究部があり教授以下多くの先生が研究されていて、定期的にその研究の成果を、講演会やシンポジューム、セミナー等で発表されている。歴博の講堂や東京の会場に出かけて拝聴しているが、地味ながら結構面白い。

   歴博から、城址公園を通り抜けると「くらしの植物苑」がある。
   小規模だが、身近な植物を生活者の立場から栽培しているのだが、季節の変わり目の変化を含めて面白い。
   しかし、古くから人間が生活に利用している植物を、染める、織る・漉く、道具をつくる、治す、塗る・燃やす、食べる、の6つのジャンルに区分けして植栽して展示しているのだから、美しい花を求めたり、珍しい植物を見ようとして来る所ではない。
   もっとも、日頃見慣れた植物がこんなところに使われているのかと言う発見があって面白いこともある。
   先日は、沢山の種類のヒョウタンが棚からぶら下がっていた。

   その季節毎に、例えば、サクラソウ、アサガオ、キク、カエデ、等など、特別展示で盆栽や鉢植が展示される楽しみもある。
   定期的に、苑内で、花や生活に密着した植物の観察会や講演会が催されるようであるが、私はまだ参加していない。

   この佐倉城址公園には、車が入らないので、散策には素晴しい環境で、喧騒から遥かに離れていて、鳥の声や虫の音が聞こえるし、弁当を持参すれば、ピクニックを楽しめる。 
   休日でも、季節外れなら殆ど人はいない。

   少し離れた印旛沼湖畔のオランダ風車のあるチューリップ公園は、今頃はコスモスの花盛りであろうか。
   この湖畔の散策も面白いが、佐倉城址公園の散策も季節ごとにやってみるのも又楽しい。

  
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世界への旅立ち・・・憧れの新天地か?ブラジル

2005年10月12日 | 海外生活と旅
   先週NHK総合テレビで5回にわたって橋田壽賀子ドラマ「ハルとナツ 届かなかった手紙」が放映された。
   私は、放送を飛び飛びに見ながら、ビデオにも収録したが、まだ、通しては見ていない。涙が込上げて来るほど懐かしい、しかし、懐かしさと言うよりは、堪らなくて正視出来なかったのである。

   私がブラジルに赴任したのは、1974年、丁度ブラジルが、ブラジルブームに沸き、世界中から注目を浴びていた時期であった。
フィラデルフィアから、2年間の留学を終えて帰ってきて、やっと、船便が届いた日に赴任命令が出て、3ヶ月ほど日本に居ただけででサンパウロに向かった。
   当時は、お金を出せば簡単にパーマネント・ビザが貰えたし、進出企業の社員と言うことで、最初から身分が補償されていたので、殆ど苦労はなかった。
   サンパウロには、ガルボンブエノと言う日本人街があって、文句を言わなければ、日本のどこかの地方都市と殆ど変わらない雰囲気を味わえたし、日本食も食べられたし日本のものも手に入った。
   もっとも、ブラジルに移住した人々が苦労して作った品物が多かったので、多少、品質には差があり、似ても似つかないものもあったが、初めての海外生活の日本人には一番恵まれた外国であった筈である。
   

   進出企業にとって最も恵まれていたのは、優秀な日系の若い働き手の助けを借り得たことであろう。
   日本人は、いくら苦労をしても子供には教育をつけようとする民族なので、サンパウロには、日系の人口が1%程度の筈だったが、サンパウロ大学の学生数の10%以上が日系の学生であった。
   国際語と言っても英語はそれ程通用しなかったし、ポルトガル語は特殊な言葉で難しい。日本語とポルトガル語両方を駆使できる優秀な人材を確保できたのである。
   それに、日系の移住者達が、苦労しながらも頑ななほどに日本の文化と伝統に誇りを持って生活しており、それを子供達に継承していた。
厳しく躾て教育していたので、殆ど同じ考え方・感覚であり、若い2~3世の日系人とカルチュア・ショックを感じることなくコミュニケーションが出来て殆ど苦労がなかった筈である。
   全く異文化の、それも、アスタマニアーナ(何でも、またあした)とアミーゴ(友達)の日本とは雲泥の差があるブラジルで、架け橋として働いてくれたのだが、この貢献は大きいと思っている。(日系進出企業が海外で失敗するのは、総て異文化とビジネス慣行の差に足を掬われるからである。)

   ところで、ハルとナツに描かれているブラジル、すなわち、日系移民の塗炭の苦しみ、筆舌に尽くし難いほどの苦難の生活、であるが、結論から言うと日本政府の移民政策とその対応に問題の総てがあったように思う。
   戦前では、棄民政策としての対応、戦後では、欧米と比較して殆ど日系移民のサポートをしていないこと。
   ドイツ人やイタリア人の移住地を訪れたが、本国の援助で立派な学校など公共施設が整っていたし、継続的な援助は勿論、立派に立ち行くように大変な気の使いようであった。
   戦前の日本政府の棄民政策の片鱗があのテレビドラマにも垣間見えていたが、あんな生易しい程度ではなくもっと厳しく筆舌に尽くせないほどの苦難の連続であったはずである。
大切な自国民を見捨てた国がこの地球上にあったと言うことを、よくよく、肝に銘じて置くべきである。

   パラグアイへ移住した人にこんな話を聞いた。
船でサントスの港に着いたが、何日も留め置かれた後に、封印列車に乗せられて、何の説明もなく、何日もかかってパラグアイの奥地のジャングルに送り込まれた。
仮小屋に荷物を置いて仕事に出て帰ってきたら、大切に日本から持ってきたものは全部取られてなくなっていた。
徒手空拳、誰の助けもなく、熱帯雨林のジャングルとの大変な戦いが始まったが、毒蛇に噛まれても、マラリヤにかかっても、何日もジャングルを抜けて行かねばならない医者や病院などには縁がなく、苦しむ肉親を見殺しにせざるを得なかった。
よく、ここまで生きて来られたと思う。
「朝起きると、空は晴れ渡り、爽快な気分で、朝のカフェで気分を新たに・・・」政府の言ったことはここまではウソではなかったけれど、と言いながら顔をくしゃくしゃにした。

   「ジャングルの苦しい農業に耐えられずに夜逃げしてサンパウロに出て働いた人が出世している。
まだ、ブラジルのジャングルで、そのまま残っている日系人もいて、裸足で走っている女の子がいる。
農業でも先に行って成功した日系人が、新しく来た日本人移民を搾取していることもある。日本人どおしだって信用できない。」そんな話も聞いた。
   日本の文化や伝統が、移民船に乗ったその時点で凍り付いて化石化して残っている、そんな古くて懐かしい日本にブラジルで何度も出会っている。
   日本への愛国心、そして、望郷の念は、日本人より遥かに強い人が多くて、こちらの方が困った。

   1979年の末に日本に帰って、その後、10数年パーマネント・ビザを維持する為に2年ごとにブラジルに行っていたが、その後は、もう、随分ブラジルにご無沙汰している。
   テレビの最後の場面でサンパウロのパウリスタ通りを、ナツが車で走っているのを見たが、昔のままの風景で懐かしかった。

   ブラジルでは、柿のことをカキと言う。
   何にもなかったブラジルの農作物や果物を、あんなに豊かに作り出したのは、総て、日本人移民の丹精のお陰である。
   世界中で、苦労して頑張っている同胞を思いやり暖かい気持ちで接すること、これが、まず、国際化、グローバリゼーション社会での要諦ではなかろうかと思っている。
   
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ストリンガーCEO・ソニーの改革・・・CEATEC JAPAN 2005(その2)

2005年10月11日 | 経営・ビジネス
   東芝、三菱電機のトップに続いてソニーのストリンガーCEOが、「デジタル時代のコンシューマー・エレクトロニクスの将来」と言う演題で、基調講演を行った。
   先の両人は、現今のIT関連のカレントトピックスなど背景を語りながら自社の戦略等を語っていたが、ストリンガーCEOは、殆ど冒頭から、ソニーの改革について話し始めた。
   従って、語ったコンシューマー・エレクトロニクスの将来は、ソニーの将来である。

   先に新しい経営戦略について発表されていたので、目新しいものは何もなかったが、実際に、直接、ストリンガーCEOから話されると印象が違ってくる。
   メモを見ながら、慎重に、しかし、迫力のある丁寧なクイーンズ・イングリッシュなので、分かりやすく印象的であった。

   ストリンガー氏は、ソニーが、世界でも有数のイノベイション志向の革新的な会社であることを強調しながら、コモディティ化した市場での価格破壊に悪戦苦闘し業績が悪化した現状を踏まえて、如何に革新的な技術と製品を開発することによってソニーを再生するのかその方向を示そうとしていた。
   しかし、本質的には、選択と集中、コアであるコンシューマー・エレクトロニクス分野に経営資源を集中して、その中でイノベイティブな製品(チャンピオン・プロダクツ)の開発を行い、差別化によってコンシューマー・エレクトロニクス分野でのリーダーとしての地位を回復しようと言うことである。
   
   先にストレッチ・カンパニー理論を引いてソニーの再生について論じた(9月23日)。再述すると、
   「売上成長率も時価総額成長率も低いアンダーパフォーマー(停滞・不振企業)であるソニーは、最高位のバリューグロワー(価値創造成長企業)に事業再構築するためには、CEO主導の強力なビジョンと顧客重視が必須である。
   僅かな時間の余裕も許されず、変化する顧客のニーズに対応した商品を提供して信頼と人気を回復して、リストラ、利益率アップ、売上高成長に均等に重点を置いてすばやく勝利を納めて、バリューグロワーへの道を一直線に駆け上がる以外に再生の道はない。」
   正にそのとおりであろう。

   ストリンガーCEOのソニーの再生プランを纏めてみると次のとおりである。
   ソニー再生への重点施策は、
   1.個別最適化志向の”サイロ体質の解消”
   2.事業領域の絞込み
   3.ソニーならではの強みの追求   である。
   ソニーの持つハードウエア+ソフトウエア+サービスの方程式によって、チャンピオン・プロダクツを創出する。
   再生プランの基本的指針は、構造改革と成長戦略の二つの軸で推進する。
   コア・ビジネスの根幹を成すのは、セルの商品化、ソニーの創りだすHDの世界―Hi Vision Quality, デジタル携帯オーディオの推進、エンターテインメント・ゲーム事業、UMDフォーマットのサポート、デジタル技術による映画創出、である。
   構造改革の結果、
   商品化のスピードアップ、マーケットの変化への機敏な対応、在庫水準の低減、キャッシュフローの改善、販売予測精度の向上、焦点を絞ったマーケティング、
   等の成果を期待している。
   これによって再生し、世界のソニーを目指す。

   私なりに解釈すれば、とにかく、大企業病と言うか官僚化して無茶苦茶になってしまったソニー企業内部の組織管理体制を抜本的に改革・リストラ・スリム化して、機能するように再活性化する。(前述のストリンガーCEOの構造改革の成果で言っている事は、普通の会社では、当たり前にやっていることである。ソニーでは、改革と言わねばならない、寂しいことである。)
   そして、残った経営資源を、コアのコンシューマー・エレクトロニクスとゲームとエンターテインメント部門に集中して、革新的な製品を開発し、業績の回復を目指す、と言うことのようである。
   余談だが、ストリンガーCEOは、英紙ファイナンシャル・タイムズに、リストラの大ナタを振るいたかったが、社内の抵抗にあって出来なかったともらしたようだが、この話は現状のソニーを良く物語っていると思った。

   今回のCEATECのソニーのブースを訪れたが、看板の液晶薄型テレビ・ブラビアのディスプレーで、新旧のテレビを比較して、明るさや細密度、色の分離など細部にわたって説明していたが、如何に旧型ソニーテレビの質が低かったかを証明しているだけで、全く逆効果であった。
   トップのシャープとの質の差のアピールはなく、むしろシャープやパナソニック、パイオニア等競争会社のテレビの方がアピール度が高くて品質も遜色なく、ソニーらしさが全く現れていないので特にソニーを買わなければならない理由など全くない。
   もう一つの売り物デジタル携帯オーディオだが、再生プラン発表時の記者会見でソニーのトップが上下さかさまに持って写真に写っていたのだからその熱心さが分るが、ブースの客足もほどほどだし、アップルがiPod nanoを展示していなかったからこそ救われたが、全く寂しい限りである。
   ブレイクスルーを目指しているテレビはシャープに大きく差を開けられており、デジタル携帯オーディオはアップルのiPod nanoに次ぐ2番手、再生第一歩がこれでは、先が思いやられる。
   ダントツトップの製品を開発しない限り、ソニーの復活はあり得ない。

   長くなってしまったので端折るが、ソニーの今回の改革は、あくまで、攻撃型前向きの成長戦略志向ではなくて、終戦処理のリストラ重視、体制立て直しの選択と集中の改革である。
   これは、セリジオ・ジーマンの言うリノベーションである。
   ジーマンは、リノベーションの場合、重要なのは、コア・エッセンスの活用だと言う。
   iPodの成功は、アップルのコア・エッセンス(クリエイティブなハイテクによる楽しさ)の理論的延長線上にあったからだと言う。
コア・コンピタンシー(音楽ファイルを保存する方法など)は買収して資産を整備しただけで、既存のアイデアを活用したアップルのリノベーションだと言う。
   ソニーのコア・エッセンスは、何であろうか。例えば、ハイテクで誰にも真似の出来ないようなワクワクさせるコンシューマーエレクトロニクスの開発、であろうか。
   世界のソニーフアンが買いたがっている製品(正にソニーのソニーたるチャンピオン・プロダクツ)を開発・生産して、ソニーの成長戦略と直結させる、それ以外にソニーの未来はないように思うがどうであろうか。
   
   

  
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芸術祭十月大歌舞伎・・・双蝶々曲輪日記「引窓」

2005年10月10日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   京都と大阪の間、木津、桂、宇治の三川が合流して淀川になる京都盆地の切れ目にある八幡、岩清水八幡宮の側がこの芝居の舞台である。
   京阪電車の車窓から小高い岡の上に八幡宮が仰げる。この辺りからがらりと気候が変わる。
   
   5歳で里子に出した力士濡髪長五郎(市川左團治)が、殺人を犯して逃亡中死ぬ覚悟で実母・お幸(澤村田之助)に暇乞いに来るが、本当のことを言い出せない。
   そこへ、亡夫と先妻の子・南与兵衛のちに南方十次兵衛(尾上菊五郎)が、浪々の身で町人になっていたが代官に取り立てられて侍姿で帰って来る。母お幸と女房お早(中村魁春)は喜ぶ。
   一緒に来た侍から、長五郎が、殺人で追われる身である事を聞かされて、お幸とお早は動転する。
   何も知らない十次兵衛は、庭の手水鉢に写る2階にいる長五郎の顔を見て、気色ばむが、母お幸が手配の人相書きを、爪に灯を燈して永代供養の為に貯めた金子で買いたいと伏し拝むのを見て総てを悟る。
   気を利かせた十次兵衛が見回りにと言って出た後、お幸は、出てきた長五郎に逃げるよう説得するが亡夫に義理が立たないだろうと言われて非に気付き引窓の紐で縛って十次兵衛に引き渡す。
   十次兵衛は引窓の紐を切り、射し込む月明かりに夜が明けたと言って、自分の詮議の役目は夜のみなので放生会に事寄せて長五郎を逃がす。

   この段のポイントは、やはり引窓が舞台の展開に重要な役割を果たしていることである。
   今でも、奈良や京都の古い文化財的な日本の民家を訪れると見られるが、本来は、竈の上の煙逃しで、換気用であるとともに明り取りでもある。
   この段では、手水鉢に写った長五郎の顔を隠す為に、お早が、咄嗟に引窓を閉めるが、夜は十次兵衛の役回りと気付いてすぐに引き上げる。
   次は、お幸が、長五郎を縛る時に引窓の紐を使う。
   この紐を切って、十次兵衛が、月明かりを入れて夜が明けた、自分の役割は夜だけと言って長五郎を逃す。
   十次兵衛の長五郎詮議の役割を夜に限っていたことと、この引窓から差し込む光を夜昼に見立てた所にこの段の眼目がある。

   しかし、これ等はあくまで舞台設定の為の仕掛けにすぎず、主題は、義理人情の機微、特に、親子の情愛が痛いほど胸を打つ。
   母親お幸への3人三様の思いやりと愛情、そして、お幸の義理と実の子への愛情が、実に繊細に描かれている。
   正に、このお幸の役は、人間国宝・田之助の独壇場で、実子長五郎が訪ねて来た時のイソイソトした喜びようと、与兵衛の代官任官を聞いた時の家族としてのシミジミ胸に染むような喜びようを微妙に使い分けながら、長五郎がお尋ね者でその詮議が与兵衛・十次兵衛の初仕事であることを知った時の動転と、まっさかさまに突き落とされて地獄の責め苦に呻吟する時の狼狽振りなど、実に上手い。
   なけなしの金子を差し出して人相書きを売ってくれと拝むお幸には、実子長五郎の幸せしか目に入っていない、5歳で手元から手放した実子が不憫で仕方なく罪の意識が一生お幸の胸を苦しめてきたのであろう、血の騒ぎかやはり実子が可愛い。
   長五郎に、死の覚悟は出来ている、自分を逃せば亡夫への義理が立たないのではないかと諭されて、始めて自分の非を悟って長五郎を縛るが、このあたりの心の微妙な変化が流石に上手いと思って見ていた。

   義理の息子・与兵衛を演じるこれも人間国宝・尾上菊五郎だが、町人と武士の使い分けが絶妙で、7月のNINAGAWA十二夜の舞台を思い出した。
   花道から登場した時は正に揉み手の町人姿で、玄関口に入ると、「ただ今立ち帰った」と時代めいた武士姿になる、昼は町人夜は長五郎詮議と使い分け、時代狂言と世話狂言が綯交ぜになったこの舞台を器用に繋いでいるのがこの菊五郎である。
   「母者人、何故物をお隠しなされます」と狼狽するお幸に語りかける菊五郎・与兵衛の本当の優しさが胸を打つ。これからが、もう人間与兵衛の死を懸けた全く迷いのない義理の母への限りなき愛が全開する、義理の弟への思いやりが「狐川を左へ取り」と河内への抜け道を二階に聞こえるように語る。
   菊五郎は、人間の肺腑を抉るような芝居も上手いが、このような人間性の機微に触れるような芝居を感動的に演じる舞台も素晴しい。

   濡髪長五郎を演じる左團治は、正に適役で、極めて洒落気のあるコミカルな性格に加えて、豪快な立ち役か悪人が多いが、このような表情を抑えたしかし強い心棒の通った役には向いているように思う。
   殆ど演技をしていないような演技が、田之助の実母役と上手く呼応していて面白い。
   死ぬ覚悟で暇乞いに来て、痛いほど十次兵衛と母の情けが身に沁みた長五郎は、喜んでお縄にかかる心準備が出来ているが、周りの愛情に支えられて最後は落ちてゆく、そんな悲しみを左團治はジッと噛み締めているようであった。

   お早の魁春は、やはり実に感動的で上手い。普通の町人の女房でありながら、元の遊里の香りか中々の色気と華やかさを醸し出しながら、義母を思いやる切ないほどの優しい振る舞いが新鮮で清清しい。
   引窓を引いて長五郎を隠そうとする機転、何だかんだと理由をつけて夫与兵衛に長五郎詮議を諦めさせようとする女の浅知恵等、義母を慮る愛情を上手く表現している。

   岩清水八幡宮で有名な「宝生会」、即ち、仏教の不殺生の思想に基づいて捕らえられた生類を放しやる儀式の前日を舞台に取り込んだこの「引窓」、中々、乙なものである。
   流石に、三大狂言の戯作者トリオ竹田出雲、三好松洛、並木千柳の合作だけはある。
   
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秋の香りキンモクセイ・・・庭造りの難しさ

2005年10月09日 | 花鳥風月・日本の文化風物・日本の旅紀行
   彼岸花が終わる頃、庭のキンモクセイが一斉に、少しオレンジがかった黄金色の小花をビッシリつけて咲きはじめた。
   甘い香りが一面に広がって、秋の香りを周りに振りまいている。
   もう少しすると、キンモクセイの花が落ちて、黄金色の粉を振り掛けたように、落ち花で地面が装飾される。

   本来は、雌雄異株のようだが、日本には、雄花が多いので結実しないという。
   庭に咲く花木で、他に香りのするのは、沈丁花とクチナシ、それに、港の曙と言う香りツバキだけであるが、これ等が咲き始めると季節の移り変わりが良く分かる。

  私の庭の門被りは、年を経て苔のついた槙の木、その横の副木は、散らし玉作りに仕立てたイヌツゲの木であるが、少しはなれて隣との境界にキンモクセイが植わっている。
   反対側の隣家との境界には、伽羅とモッコクが植わっており、道路側には、玉作りのツゲが並んでいる。
   ここまでは、家を建てたときに植木屋に頼んで木を植えてもらった。

   ところが、その後、自分の好みに応じて、我流で庭木を植え始めた。
   もう、20年になるので、庭には結構色々な木が植わっていて、この間に消えていった木も沢山ある。
   美しい花を咲かせてくれた八重桜や白樺、薔薇、色々な花木が消えて行った。
   しかし、消えずに残っている楠木やハナミズキ、ヤマモモ等切り戻してはいるものの、大きくなりすぎた木には閉口している。
   大体、狭い庭に、楠木や桜を植えるなど、本来なら正気の沙汰ではない筈だが、20年前には、植えてしまったのである。

   門へのアプローチには、黒松と散らし玉作りのツゲと皐月で恰好はついているが、庭の方は、真ん中の空間は高麗芝で小さな空地になっているものの、その周りは雑木で雑然としている。
   庭造りについての本を沢山読んだが、殆ど十分な知識なしにガーデニングを始めた悲しさで、こうなってしまったのだが、木の1本1本に愛着が出てしまって切れなくなり、間引いたり植え替えたりして今日に到っている。
   友人の植木屋さんに頼んで庭を再生しようかと思っているが、木を切られると思うとその勇気がない。

   園芸店に行って欲しくなると新しい花木の苗を買って来て植えるのであるから、庭の中は、必然的に木で混みあうことになる。
   植栽と最低限の庭造りの知識を得て作庭を行うべきで、この木がどれくらいの間にどのくらいの大きさになるのかと言った全く初歩的な知識さえ十分になくて、写真と自分のイメージだけで始めるととんでもないことになると反省しているが、後の祭りである。
   
   庭で一番多い木は、やはり、ツバキであるが、庭の美観を気にしなければ、秋から晩春まで、入れ替わり立ち代り咲いてくれるのが、実に有難くて嬉しい。
   それに、萩やヤマブキ、ムラサキシキブ、アジサイ等の一寸した花木が、季節に彩を添えてくれるのも、堪らなく有難い。
   ピラカンサやブルーベリー、イチジク等の実を求めて、多くの鳥や昆虫、蝶等が訪れてくれる。
   鶯さえ庭に来て、ホーホケキョと囀ってくれるし、見慣れない鳥や蝶も来てくれる、雑然とした庭だが、自然が愛でてくれるなら、それでも良いかと自己満足している今日この頃である。

   私がよく通ったロイヤル・ボタニカル・キュー・ガーデンには、大英帝国の富と誇りにかけて、プラント・ハンターによって世界中から数限りない植物が集めれていて、栽培され研究されている。
   それに、江戸時代には、好事家が、金に糸目をつけずに珍しい花木を集めて、多くの園芸品種を作出して来たと言う。
   私の庭植えの花木は、恐らくその殆どは栽培植物で、人間が創り出した、自然界にはなかった花木である。
   粗末に扱ってはならないと思っているが、もう少し、大切に手をかけて育てなければならないと反省もしている。
   後悔しているのは、折角、長い間花の国オランダに住み、ガーデニングの国イギリスで、それも、世界有数のキューガーデンの側に住んでいながら、この方面の勉強を少しもせずに帰ってきてしまったことである。
   
   
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恋ぶみ屋一葉・・・シラノ・ド・ベルジュラックの世界

2005年10月08日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   久しぶりに楽しい舞台「恋ぶみ屋一葉」を新橋演舞場で見た。
   杉村春子の当たり役だったが、11年ぶりに、江守徹演出、浅丘ルリ子主演で蘇った。
   樋口一葉の弟子で、下谷龍泉寺町で、恋ぶみの代筆業を営んでいて「恋ぶみ屋一葉」と呼ばれていた前田奈津を主人公に仕立てた舞台で、エドモン・ロスタンの名作「シラノ・ド・ベルジュラック」から発想を借りて、明治のオツな恋物語にしている。

   同じ尾崎紅葉の門下で流行作家の涼月(高橋英樹)は、若い頃芸者小菊(光本幸子)と大恋愛だったが、師紅葉に引き裂かれ、傷心の小菊は田舎に嫁ぎ、その後なくなる。
   涼月に新入りの弟子・羽生(滝川英治)が入門する、これを田舎から連れ戻しに母が来るが、これが死んだ筈の小菊。奈津の心が揺れる。
   先輩に吉原に連れて行かれた羽生は、芸者桃太郎(大川内奈々子)に恋する。
   桃太郎の恋文を奈津が代筆、これを見た涼月が、本当の恋文を知らないと言って奈津を非難し、本当の恋文は、これだと言って昔小菊から貰った恋文を見せる。
   これを見て奈津が絶句、涼月は、手紙の主は奈津だと悟る。
   小菊の話から、羽生が涼月の子供であることが分る。
   21年ぶりに涼月と小菊は再開するが、昔の恋は儚く消えている。
   涼月は奈津への恋に目覚めて幕。

   心に秘めた激しい恋心を他人の恋文に託して書き続けていた恋ぶみ屋一葉、その恋文に恋焦がれていた涼月。
激しい恋心を抱きながら鼻が大きい為に、他人の為に、自分の恋の対象ロクサーヌへのラブレターの代筆と恋の指南をしたシラノ・ド・ベルジュラックとは違った展開だが、最後にハッピーエンドのこのお芝居、「言えない思い、言わない心――明治の日本の、やさしい恋。」にうまく仕立て直している。
   浅丘・高橋の大人の恋と大川内・滝川の初々しい恋とを絡ませた気の利いた恋物語である。

   浅丘は、正に地そのもので素直に演じており当たり役、小菊が現れてからの心の揺れを巧みに表現、実に新鮮で上手い。杉村の舞台は知らないが、古さを感じさせない現代的な恋ぶみ屋一葉で、芸を比べるなら、まだ、20年間も余裕がある。
   高橋は、私には、テレビの時代劇や日活映画の青春ものの印象が強いが、中々、明治の文豪役も板についていて、コミカルな演技は秀逸である。
   最後の花道を下がる時に、浅丘に寄り添いながら、一葉縁のかんざしの向きを変えるあたり、芸が細かいが、同じ日活の青春映画で築いた仲、呼吸はピッタリで清々しい。

   光本は、流石にベテラン、寅さんの一番最初のマドンナ・御前さまの娘役、すこし、ふっくらと豊かになっているが、舞台を引き締めている存在感は流石である。
   一番人気の高い最後の寅さんのマドンナ・リリーの浅丘との共演だが、掛け合いが非常に自然で楽しませてくれた。
   若い二人・滝川と大川内の魅力は言うまでもない。
   それに、紅貴代の花魁は極めて印象的、上手いと思った。

   観客は、大半が中年の婦人達、中年男性客はちらほら、可なり空席があったが、私には、久しぶりに肩の凝らない楽しい舞台であった。
   それに、不謹慎かもしれないが、やはり、歌舞伎を見慣れた私には、本当の美しい女優さんの魅力も又格別であった。
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芸術祭十月大歌舞伎・・・「河庄」中村鴈治郎の紙屋治兵衛

2005年10月07日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   12月に、京都南座で坂田藤十郎の襲名披露を行う人間国宝・中村鴈治郎最後の舞台「心中天網島」の「河庄」の段が、今、歌舞伎座で演じられている。
   大正11年10月に初代中村鴈治郎が、原作どおり演じて、その後、鴈治郎の18番になり、戦後も、殆ど、昭和時代は2代目鴈治郎、平成時代は、現在の鴈治郎によって、紙屋治兵衛が演じられている。
   今の鴈治郎は、昭和26年から小春を演じているのであるから、この河庄には、殆ど出ずっぱりで、治兵衛は18回目だとか、正にお家芸である。

   今回は、粉屋孫右衛門を関西歌舞伎の重鎮我當が演じており、二人の大阪弁にによる絶妙な駆け引きと話術の巧みさが、近松の絶望的な悲劇を際立たせている。
   悲劇の頂点で、どこか間の抜けた関西漫才の雰囲気を醸し出しながら、どうしようもないどん底の命の鬩ぎ合いを鴈治郎と我當が紡ぎ出している。
   やはり、近松の世界は、大阪弁と言う言葉もそうだが、骨の髄まで大阪どっぷりの世界で、関西歌舞伎の重鎮が演じる舞台は一味違うと思う。

   妻子がありながら商売はそっちのけで恋に溺れた治兵衛、恥も外聞も忘れて別れてくれと手紙を書く妻おさん、妻の切実な思いに胸を抉られる思いで死を覚悟する小春、思い切れず行き詰まった果ての心中。
   人間の愚かさ、はかなさ、慟哭の悲しさを描ききった近松門左衛門の晩年最後の心中もので、近松の諦観が色濃く出た作品である。

   この「河庄」の段は、小春がおさんからの手紙を受け取る所から始まる。
河庄へ、小春の客として、小春の本心を聞き出すために侍姿に身を変えて来た治兵衛の実兄・孫右衛門に、治兵衛との死の約束は義理の為死ぬ気はないとウソをつく。
それを、外で聞いていた治兵衛が、小春の本音と誤解して逆上し、格子戸の外から刀を突き出すが、逆に、格子戸に手を縛り付けられる。
これを助けたのが実の兄と分る。河庄の座敷に入って兄に謝る治兵衛に駆け寄る小春、足蹴にする治兵衛を兄が制する。
兄の説得に折れて、別れる証拠として二人で交わした起請文を兄に差し出す治兵衛、しかし、小春は拒否するので胸倉に手を入れて引き出した起請文の間におさんの手紙を発見、一部始終を知った兄は、小春に手を合わせて、治兵衛を連れ帰る。
誰からの手紙か気にしながら、治兵衛は、泣き崩れている小春を後にする。

   「魂抜けてとぼとぼうかうか、身を焦がす」・・・前途の希望を絶たれ総てを失ったしょぼくれた中年、ただ小春への恋焦がれと意地だけで生きているもぬけの殻のような治兵衛・鴈治郎が、頬被り姿で花道からとぼとぼと、もうそれだけで近松の心中ものの世界である。

   舞台は佳境に入り、河庄の座敷で語る治兵衛の恋路の話。
   兄に意見されながら、最初は、小春の心変わりに逆上していたが、次第に二人の恋路の話にのめり込み心情を吐露、朴念仁の兄に恋の話を語り始める。
   小春への未練と裏切りへの怒りが錯綜、正気に戻ったり熱に浮かされたり。
   自分の言い分は言うが、兄の説得には上の空。次から次に浅知恵が働く。
兄への対応に、その場を繕う言い訳に普段の大阪弁の会話が飛び出し、時には漫談口調に。
   とにかく、大阪商人でありながら、バカボンが顔をの覗かせる和事の世界、柔らかい大阪弁を駆使しながら、絶妙な間合いとタイミングで言い訳しながら心情を語る治兵衛を鴈治郎は実に上手く演じている。
   「小春にウツツを抜かして何であきまへんねん。兄さん、あんさんには分らへんと思いますけど、私かて一所懸命ですねんで。」・・・世間の常識や後先を一切考えずに自分の生きたいように生きて泥沼にのめり込んで、それから這い出せない馬鹿を、鴈治郎は、しょうがないやおまへんかと開き直って丁寧に演じている、そう思った。

   2代目鴈治郎の頃は、13代目片岡仁左衛門が、孫右衛門を演じていた。
   口調も仕種や表情も良く似ている実子我當が演じており、昔は、かくありなんと思って見ていた。
   俄か侍なので、大刀を忘れて部屋を移り取り戻しに帰る時の微苦笑、治兵衛の理由にもならない言い訳や口実に対する受け答え、手紙を見てからの治兵衛と小春の人間の落差を知ってからの小春への思い等々、暖かくて人間味の豊かな我當の演技を観ていて、何故か、近松の息遣いのようなものを感じて嬉しかった。

   小春を演じる人間国宝・雀右衛門であるが、紙屋の丁稚三五郎が届けたおさんの手紙を受け取ってから、心に重い痛手を受けて沈み込みながら、しかし、何かが吹っ切れたように死を覚悟した強さをあの小さな身体一身に受け止めている様な演技が痛々しかった。
   人間の業と言うか、宿命と言うか、避けられない人間の悲しさ苦しさを、あの憂愁に満ちた身体全体で表現していた雀右衛門の至芸に感激しながら、治兵衛に足蹴にされ、言われなき中傷と悪口に泣崩れる姿をジッと見ていた。
   舞台の大詰め、誰からの手紙か聞きに帰って来た治兵衛が、大きな音を立てて玄関口を開ける瞬間、泣き崩れていた小春が、あらぬ期待でハッと起き上がる、この時の仕種と表情に、雀右衛門の万感の思いが凝縮されているような気がした。
   しかし、残念ながら、ご高齢、台詞と動作が揺れているのが少し寂しい。晩年の歌右衛門の舞台を思い出した。

   賢くて潔い、運命に翻弄されながらも慫慂とそれを受け入れ、優しく健気に生きる女と、身勝手でどうしようもないアカンタレの優男とが織り成す浮世を描いた近松門左衛門の世界。
   3年前に観た玉男の治兵衛、簔助の小春の素晴しい文楽「心中天網島」を思い出しながら、やはり、この世界は、大阪の世界だとつくづく思っている。

(追記)10月11日より、中村雀右衛門が体調不良の為に休演となり、代役は、中村翫雀。ご回復をお祈り致したい。
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栽培植物は文化財・・・ジャガイモは綺麗な花の高山植物

2005年10月06日 | 生活随想・趣味
   民博や歴博等の人間文化研究機構が主催する素晴らしいシンポジューム「人が創った植物たち」が、有楽町の朝日ホールで開かれたので、聴講した。

   山本紀夫教授の「栽培植物の源流―トウモロコシ・トウガラシ・ジャガイモ」
   辻誠一郎教授の「海を渡った植物たちの日本史」
   小笠原亮氏の「江戸時代の園芸文化」
   鷲谷いづみ教授の「”身近な”絶滅危惧植物サクラソウの保全生態学」
   最後は、佐藤陽一郎の司会で、4氏によるパネル・ディスカッションが行われた。

   夫々、大変興味深い話題を、懇切丁寧に講義されていたが、山本氏の栽培植物についてまず考えさせられたので、感想を書いて見たい。

   人類にとって極めて大切なトウモロコシ、トウガラシ、ジャガイモは、南米原産で、ここで、栽培が始められ栽培植物となったものは実に多いと言う。
   今から、1~3万年前に、我々と同じ祖先を持つインディオが、大型動物を追ってベーリング海峡を渡って南下し南米に達した。
   しかし、動物が急速に絶滅したために、植物性食料に異存せざるを得ず、有用な植物を採集するだけではなく、それを身近なところで栽培するようになった。

   栽培植物とは、単に栽培されていると言う意味ではない。人間が栽培の過程で都合よく改変した結果、野生の植物とはすっかり違ったものになった植物で、 人間が創り出した自然界には存在しない植物、すなわち、人類の貴重な文化財だと言う。
   人類が、何百年、いや、何千年、自然と格闘しながら創り上げた植物なのである。

   トウモロコシの原種テオシュトは、稲の原種のように一列に小さな実のなる熟すればすぐに種が落ちる雑草だが、これが、栽培化の過程で実が大きくなり何列にも付き皮で覆われた今日のトウモロコシになった。
   ジャガイモは、アンデスの山懐チチカカ湖の畔に自生する高山植物で、当地には、何千種類ものジャガイモがあると言う。
   インカのカミソリの刃も入らないくらいの石垣の溝に紫の花を付けたジャガイモの原種が自生している写真を見せてもらったが、根には小さな芋が付いていた。
   このジャガイモも、最初から今のような素晴しいジャガイモになったのではなく、形もまちまち、毒気の強いジャガイモもあって、何千年のインディオ達の弛まぬ自然に対する挑戦の結果生まれたのである。

   コロンブスのアメリカの発見により、このジャガイモがヨーロッパにもたらされたが、見栄えと形が悪いので食べ物としてではなく観賞用の花として入ったのだと言う。
   しかし、ジャガイモによって、アイルランド人が、危機から救われた、いや、ヨーロッパ人全体が、食料危機や飢饉から救われたのである。
   中南米のインディオは、スペイン人に征服されたが、多くの栽培植物は、逆に、文明社会ヨーロッパに限りなく恩恵を与えたのである。

   さて、こんなにして、創り出されて来た多くの栽培植物が、不要になると、絶滅危惧種として、地球から抹殺されようとしている。
栽培植物として栽培されたジャガイモは沢山あったが、今栽培されているのは、アンデスにはまだ6種残っているものの、文明国ではたった1種だけだという。
   米にしても、恐らく残るのはコシヒカリだけ、いや、それも怪しいという。
   粟や稗やキビはどうなるのか、消えてしまうであろう。
   遺伝子組み換え植物が増えればどうなるのか。
   とにかく、自然界には全くなかった栽培植物を人間は創り出して来たが、生産性の高い、現在珍重されている種類のみしか維持されず、他は総て捨てさられようとしている。
   これで、人類は幸せなのであろうか、シンポジュームの先生方は、大きな問題を提起していた。
   自然に挑戦して文化文明を築いてきた人類だが、しかし、自然に対して傍若無人に振る舞っていると、そのしっぺ返しは大きい筈である。

   何故、サクラソウを保存しなければならないのかと、質問されて、鷲谷教授は、サクラソウは一つのシンボル、生態系の輪を破壊することが人類にとって如何に悲劇的なことなのかを学ぼうとしているのだと答えていた。

   私は、湖畔に立って何度か雪山を仰いだチチカカ湖のインディオの貧しい村を思い出していた。
   何千年もかかってインディオ達が創り上げたジャガイモ、それは、壮大な人間ドラマの中の貴重な文化遺産なのである。
   貴重な人類の結びつきがあのアンデスの麓、そして、マチュピチュの段々畑のトウモロコシとも繋がっている。
   アンデスの空は、濃いコバルト・ブルー、真っ青であった。夜は漆黒の闇に、星が降っていた。
   人工衛星から見ると、夜の地球は、アンデスは真っ暗、文明社会の欧米や日本は、光り輝いて見える筈。どちらが、文明を創り出したのであろうか。
   

     
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芸術祭十月大歌舞伎・・・玉三郎の人形・清姫

2005年10月05日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   今日、歌舞伎座で、芸術祭十月大歌舞伎の夜の部を観てきた。凄い盛況で、素晴しい舞台の連続であった。
   菊五郎、田之助、左団次、魁春等の「引窓」、玉三郎、菊之助の「日高川入相花王」、それに、鴈治郎、雀右衛門、我當、田之助等の「河庄」である。
久しぶりに熱の入った大歌舞伎であった。

   まず、興味を引いたのは「日高川入相花王」で、「坂東玉三郎人形振りにて相勤め申し候」と言う如く、玉三郎が人形としての清姫を演じ、人形遣いの主遣いとして尾上菊之助が清姫を操る。
   文楽のように3人の人形遣いが、玉三郎の人形を操るのだが、主遣いの菊之助は羽織袴だが、左遣いと足遣いは、文楽のように黒衣を身に着けている。
   花道を静々と登場する玉三郎・清姫にピッタリ寄り添って菊之助が付いている。
   
   恋い慕う安珍が小田巻姫と逃げたと知った清姫は、二人を追って日高川まで来たものの、安珍に乗せるなと頼まれている船頭は清姫の乗船を拒否する。怒り心頭に徹した清姫は、蛇になって川を泳ぎ渡る。
   この壮絶な清姫の心の葛藤と嫉妬、怒り、そして、蛇体への変態を、情念を籠めて、激しく、そして美しいほど狂おしく玉三郎が演じる。

   文楽ならもっと流麗に、そして、簔助なら、もっと、華麗に人形を遣うかもしれない。玉三郎の動きは、本当の人形のようにぎこちないのである。
   しかし、玉三郎は、文楽の人形のように演じればそれ以上に上手く演じられるであろうし、歌舞伎の舞台での人間清姫なら、もっと人間らしく素晴しく演じたであろう、いや、実際に演じてきている。
   生身の人間の人形としてしか演じられない人形を玉三郎は追及して、その究極を清姫に託して演じようとしていたのである。
   人形と人間とのその皮膜の境、即ち、人形にしか出せない、そして、人間にしか出せない、そんな嫉妬や怒りではなく、それを越えたもっと深い悲しみと嫉妬、怒り、人智を超えた情念の様なものを、人形の姿を借りて表現しようとしていたのだと思う。
   舞台の最後、日高川を渡りきって岸辺に立つ清姫・玉三郎のあのモナ・リザのような妖艶で神秘的な微笑が総てをもの語っている。
   それ程、玉三郎は、狂おしくも美しい清姫を創り出していたのである。

   一度だけ、玉三郎は華麗な「上手うしろぶり」を見せた、実に優雅で美しかった、本当の人形遣いのように右手を腰に当てる菊之助の芸が細かい。
   私は、演目を忘れてしまったが、玉三郎が、あの菱川師宣の「見返り美人」のポーズをとったのを見たことがあるが、本当に美しかった、あんなに美しい女姿を見たことがなかったので感激したのを思い出す。   

   私は、メトロポリタン・オペラのセンティニアルの玉三郎の舞台・鷺娘をビデオで見て圧倒された。
   その後、もう10数年前のことだが、幸いに、ロンドンのジャパン・フェスティバルで、実際の玉三郎の鷺娘を見てその美しさに感嘆してしまった。一緒にいたイギリス人達も感激一入であった。
   それから、ずっと、玉三郎の舞台を見続けているが、いつも、色々な発見をして、その芸の豊かさと素晴しさに感激している。

   菊之助は、文楽の主遣いとしては、当然素人演技であろうが、しかし、玉三郎との呼吸がよく実に上手い。
   それより、ピッタリ玉三郎について演技をしており、卓越した先輩から学んだことは限りなく多いであろうと思う。
   末筆ながら、襲名披露の薪車は、文楽人形そっくりの演技であったが、爽やかな立ち居振る舞いが美しく、玉三郎の清姫に華を添えていた。

   何故か、帰りの電車の中で、オッヘンバックのオペラ「ホフマン物語」の人形オランピアを歌ったジョーン・サザーランドのゼンマイ仕掛けの様な人形の仕種を思い出した。
   これは、当然、マリオネットの人形ではあるが、あの大オペラ歌手が人形を演じながら歌ったのである。もちろん、大根ではなかった。
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ITとエレクトロニクスの饗宴・・・CEATEC JAPAN 2005(その1)

2005年10月04日 | 経営・ビジネス
   今日から8日まで、幕張メッセで、アジア最大級のIT&エレクトロニクスの祭典CEATEC JAPAN 2005が開かれている。
   映像・情報・通信と言ったITとエレクトロニクス分野の最先端技術や最新の製品・サービスが、巨大な展示場に一堂に会して展示され、国際会議場では、ソニーのストリンガーCEO等IT&エレクトロニクス関連企業のトップが、基調講演やセミナーを行っている。

   初日から大変な熱気で、最新の携帯電話や薄型テレビ、DVD等人気商品の前には人だかりである。
   デジタル家電やモバイル端末、カーエレクトロニクス関連のデジタルネットワークステージ部門も、コンシューマー関連だけではなく、企業ビジネス向けの「ビジネス&ソサエティ」カテゴリーも活況を呈している。
   しかし、展示場の過半を占めているのは、電子部品・デバイス&装置ステージ部門で、半導体や各種電子部品、材料・素材関連のほか、計測機器・試験機器などが展示されている。

   今回、私は、基調講演の聴講で予定を埋めていたので、展示場で過ごす時間は殆どなかったが、しかし、新しい技術と新製品に出会う喜びがあり、やはり、楽しい。
   私は、BOSE のブースで、シアター・システムを聞く機会を得た。
   最近手を抜いているが、かっては、結構オーディオに力を入れたほうで、DVDやCD,それに、古いレーザーディスク等が可なりあるので、ゆっくり楽しみたいと思っておりシアターシステムを少し勉強しようと思っていたところなので興味深かった。

   人工知能を持ったというトータル・プレミアムオーディオシステLifestyle 48で、どんな部屋でも最適な音場に自動補正し、どんなソースでも5.1chサウンドにし、聴き続けると自分が最も気に入った音に修正し続けて、好みに合わせた曲を学習して自動選曲するという。
   煙草の箱より一寸大きいくらいのスピーカーが5つだけ、しかし、凄い迫力と素晴しいサウンドである。

   もう一つは3.2.1GSⅡシリーズで、たった2つのこれも文庫本くらいの大きさのスピーカーが、前面にあるだけで、素晴しい5.1chサウンドが部屋を振るわせる、とにかく、BOSEはナニシ負うアメリカのトップ・スピーカーメーカーである。
   配線は3本だけ、スピーカーは2個だけ、操作は一つだけ、それで、3.2.1と言うのだとか、これが10万円台の半ばの実勢価格、安いか高いか、凄いと思った。
   アップルのiPod用のスピーカーも展示されていた。

   テレビは、ソニーとパナソニックのブースに行って、新しいブラビアとビエラを見学したが、やはり、特別な展示用のソフト映像を使っているので当然美しい。
NHKのブースと違って、実際の放映中の映像を映していないので分らないが、極めて不親切だと思った。ビッグカメラやヨドバシカメラで見ている放映中の画像は必ずしも美しくはないのを知っているからである。
   ところが、ビエラの新旧の映像を見比べてみると、たった1年の差なのに、画像の質の差は歴然としている。
   やはり、技術は日進月歩、それは良いが、こんなに値が下がると、先に買ったのを後悔せざるを得ないのが寂しい。

   素晴しいと思ったのは、小さなソニーのハイビジョン映像のデジタル・ビデオ・カメラで、ここまでくれば、もうプロ級の映像が撮影できる。値段も10万円台だとか。
   随分前に、ハイエイトで映したビデオテープが沢山あり、DVDにダビングしようと思ったら、ビデオカメラが壊れてしまった。
   ベータの方は、ソフトもハードも捨ててしまったが、ハイエイトの方は、家族の映像で、いくら、写りが悪くても捨てるわけには行かない。
   レンタルで借りるか、ハイエイト用のカメラを買うか、業者にダビングを頼むか、迷っている。
   メーカーは、新しいものをドンドン開発して売りつけるが、後の面倒を見ない。カスタマーサティスファクションは、どこの国の言葉だろうか、そう思う。
   その意味では、今回のHD DVDの方が、古いDVDも使用できて互換性が利き、ブルーレイより遥かに親切である。
   
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ドラッカー・20世紀を生きて・・・(その2)危険予知の嗅覚と決断・実行力の冴え

2005年10月03日 | 経営・ビジネス
   自伝を読んでいて思うのは、やはり、ドラッカーは恵まれた人生を生きてきたと言うことである。

   まず真っ先に思うのは、世紀末の様相を呈して崩壊寸前ではあったが、オーストリー・ハンガリー二重帝国の首都ウイーンに生まれ育ったこと。
当時、ウイーンは、芸術的にも、そして、文化・学術的にも、世界の中心の一つであり、ここで、政府高官の父親のお陰で、最高のウイーンの生活と息吹を呼吸しており、また、世界最高の英知であるフロイトやシュンペーター等に会っていることである。
   その後、ドラッカーは、何を臆することもなく、ドイツやイギリス、そしてアメリカで、新生活を切り開いて生きて行くのだが、この力になったのは、やはり、ウイーンでのバックグラウンドあったればこそだと思う。

   思想家、経営学者、文筆家としてのドラッカーについては後にすることにして、私が興味を持つのは、何度かの移住に伴うドラッカーの危機予知能力と判断力の卓越さ、その嗅覚とそれに伴う決断力と行動力である。

   ウイーンの退屈なギムナジウム生活から開放されると、安易なウイーン大学進学を拒否し父の期待を裏切って、疲弊し荒んでいたウイーンを見限って、ハンブルクの貿易商社の見習いとして移住する。
   1933年、ナチスが政権をとり、フランクフルト大学にユダヤ人排斥が始まると、即刻脱出してイギリスに移住する。
   1939年、ドリス夫人と結婚すると、結婚後の女性の就業を認めないイギリスを見限って、英国より厳しい不況下にあったアメリカへ移住する。

   最後のアメリカ行きは、ドリス夫人との生活の為であるが、ナチスのオーストリー併合後、アメリカの移民受け入れ政策が緩んで、既在住都市の無犯罪証明さえあれば、入獄ビザを貰えた幸運にも恵まれている。
   しかし、知的刺激がなくなれば、或いは、自由や平和が脅かされれば、後先を考えることなく、即刻脱出を決断して生活の場を移す、ヒットラーの危険を逸早く感得したことも然りで、やはり、世紀末的な自由でリベラルなウイーンの環境で育ったドラッカー特有の嗅覚のようなものが働いたのであろうと思っている。

   興味深いのは、あれだけ思想家、文筆家として偉大なドラッカーが、学位は持っているが、全く正規な高等教育を受けていない独学の学究であること。
   ドラッカーは、毎週金曜日の夕方には、ケンブリッジ大学へ行って、ケインズの講義を聴いていたと言うが、ハンブルク大学の時も、フランクフルト大学の時も、一度も授業を受けておらず、図書館等で独学で勉強をして学位をとっている。   ドラッカーには、特に、師はいない。
   しかし、ドラッカーがケインズとともに、20世紀最高の経済学者と言う同郷のシュンペーターには、ドラッカー経営学の根幹をなすイノベーション理論の多くを負っている。
   私は、アンテルプルヌール・企業家精神を経営者の使命として経営学を説くドラッカーこそ、正に、シュンペーターの忠実な信奉者であるとずっと思っているし、これが、ウイーンでの接点でもあると感じている。

   ドラッカーが語っているケインズの授業風景で面白いのは、ケインズが数字を使わずに話し続け、ユダヤ人の数学者が数字を書き続けて3時間くらい講義が続くと言う話、授業の後は劇場に繰り出して、ケインズの妻・美しいロシア人バレリーナの演技を深夜まで楽しんでいたと言う話、とにかく、大らかな良き時代だったのである。

   ガルブレイスが留学までして憧れたが果たせなかったケインズの講義の受講、ドラッカーは何の苦労もなく楽しんでいたが、ケインジアンに成りたいとは思わなかったと言う。
   講義を聴きながら、ケインズを筆頭に経済学者は商品の動きばかりに注目しているのに対し、自分は人間や社会に関心を持っていることを知ったと言う。
   経済に興味を失い、ドラッカーが、経営学に移行する瞬間だったのかも知れない。
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ニコン東京大撮影会・・・チャーミングな乙女の笑顔に魅せられて

2005年10月02日 | 生活随想・趣味
   今日は、素晴しく良い天気で、10月の東京としては暑かった。
   朝から、横浜の遊園地「こどもの国」で、恒例のニコンの撮影会があったので出かけた。
   毎年ではないが、イギリスから帰国してからだから、結構出かけている。
   私の写真歴は、学生の頃、京都や奈良の古寺を写し始めた頃からだから結構古いが、特に勉強したわけではなく、我流でやってきたので未だに上手にはならない。

   私の写真は、主に旅の写真で、オランダのキュウケンホフのチュウリップ公園に通い始めてからは、マクロ・レンズを使って花の写真の撮影が加わった。
   人物写真は、家族の写真が大半で、海外旅行となると急に写真の量が多くなる。
   とにかく、ブラジル、アメリカ、ヨーロッパ、それから海外出張時のあっちこっちの写真を加えれば膨大な量になり、整理がつかなくてそのままになっている。
   スキャナーで、古いネガをスキャンし始めたが、今の機械の精度では時間がかかりすぎて埒が明かない。
それに、古いネガは、可なり変色していて、そのままでは使い物にはならない。
   スキャナーが、もう少し良くなれば、暇を見て写真の整理をして、世界旅の思い出を記録に残して置きたいと思っている。

   さて、ニコンの撮影会。久しぶりに、埃を被っていた銀塩カメラNIKON F100を引っ張り出して望遠ズームレンズF2.8 80-200mmを着けて出かけたが、デジカメ一眼レフ大流行の筈だが、意外に参加者の多くは、銀塩カメラを使っている人が多かった。拘ると、デジカメでは、まだ、満足出来ないのであろう。
   参加者の大半は、50歳代以降の熟年層で、今回は、若者や婦人のアマチュアカメラマンが少なかった。
   若いピチピチとしたモデルさんの動作やポーズに着いて行けなくて、「スロウ、スロウ」と叫んでいた老人がいた。
   決定的瞬間を写したと思って喜んでいたら、現像してみたら、総てタイミングがワンテンポずれていて、目を瞑っていたり、ぶれていたり、そんな経験をしているのであろう。

   私は、京都や東京の六本木、乃木坂等で有名な映画俳優に何度か会っているし、飛行機であのエマニュエル夫人にも会ったが、映画で見るほどビックリする美人だと思ったことがない。(ダイアナ妃だけは別で、とにかく、美しかった。)
   今日のモデルさんたちも、美人であることには違いないが、普段の姿で見れば、恐らくそれ程ビックリはしないと思う。
   しかし、ポーズを取ってレンズの前に現れると、素晴しく美しい表情をする。実にチャーミングなのである。
   元々美しいのであろうが、やはり、プロはプロ、流石であると思う。

   それに、私が感心するのは、やはりプロの先生方の技術の差と言うか、撮影のヒント等を教示されてレンズを覗いて見るととそれなりに写真になると言うことである。
   何の変哲もない公園の木々や花、池の水面、草生した坂道、錆びた遊具、とにかく、先生方がモデルにポーズを取らせると、総てが絵になるのである。
   我々が、子供達を立たせて移すと全く様にならない素人記念写真しか写せない舞台が急に生き返る、不思議である。
   先生に「アップ、アップ、もっと近づいて」と言われて、モデルの顔との距離が僅か数10センチ、ワイド・レンズで近づくと大変な迫力、とにかく、色々な勉強をさせてくれる。
   
   ところで撮影会だが、自分の好きな特定の先生の後ろについて回るのが本来であろうが、私は、特にそんな高尚な所まで行っていないので、先生方の所を渡り歩いて、チャーミングなモデルさんのいる所で沈没、そこで、何枚も写す事になる。
   確かに、デジカメで、同時に撮った写真を見ると、同じモデルの写真ばかりが多すぎる。
   とにかく一枚でも気に入った写真が取れていたら良いと思って矢鱈にシャッターを切っている、そんなところであろうか。
今日は汗まみれになって帰って来た。
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バイエルン国立歌劇場オペラ・・・ニュルンベルクのマイスタージンガー

2005年10月01日 | クラシック音楽・オペラ
   阪神優勝決定の29日、NHKホールで公演されたミュンヘン・オペラのリヒャルト・ワーグナーの「ニュルンベルクのマイスタージンガー」は、3階の後まで補助席の出るほど超満員、とにかく、凄い舞台であった。

   何回もミュンヘンまで行きながら、華麗なナショナル劇場で見る機会を逸している唯一の世界的オペラなので、今回は是非観たくて楽しみにしていたが、久しぶりのワーグナー・ミュージックに引き込まれてしまった。

   幸い、私の日本でのワーグナー体験は恵まれていて、最初は、ブーレーズ指揮バイロイトの「トリスタンとイゾルデ」で凄いビルギット・ニルソンのイゾルデを聴いたこと、万博公演のドイツオペラでマゼール指揮の「ローエングリン」でのピラール・ローレンガーの初々しいエルザ等昨日の様に思い出す。

   その後、リエンチまでの初期の作品を除いて、ワーグナーは総て見ているが、その多くはロンドンのロイヤル・オペラで、当時の音楽監督ベルナルド・ハイティンクの指揮であった。
   まだ、ギネス・ジョーンズやルネ・コロが絶頂期で、素晴しい舞台を楽しむことが出来た。
   何故か、観た回数の多いのは「トリスタンとイゾルデ」で、どの舞台も、ウィーラント・ワーグナーの影響か、照明を落とした暗い、非常にシンプルで抽象的な舞台であった。
   「ニュルンベルクのマイスタージンガー」の公演は、このコベントガーデンで見ているが、残念ながら、ベックメッサーを歌ったコミカルなヘルマン・プライの記憶しか残っていない。

   この「マイスタージンガー」は、ワーグナー自身が、コミック・グランド・オペラと銘打って作曲を始めて、最後にはこのタイトルを外したが、ワーグナーには珍しく喜劇性のあるオペラ・ブッファで、実際の市民生活を題材にした現実的なドイツを感じさせるオペラである。
   歌合戦に勝てばマイスタージンガーになり、美しいエヴァを花嫁に迎えられる、若い二人の恋とそれに棹差す中年男の妄執を、危機に瀕した旧弊を固守する社会への挑戦と政争を絡ませて描くのであるから面白い。
   最後は、ドイツの限りなくナショナリズムを高揚してハッピー・エンドで、歓呼の大合唱で終わるのであるから、ナチスが狂喜し、民衆が熱狂するのも、分り過ぎるほど良く分かる。

   「マイスタージンガー」は、このミュンヘンで1868年6月21日に初演されていて、今回の新演出は、昨年の6月26日だから、136年後の公演である。
   7月31日に、この「マイスタージンガー」で前のオペラ・シーズンが終わったが、舞台セットが倉庫に行かずに日本へ直行したのが今回の公演。
バイエルン・オペラの新しいオペラシーズンが、ミュンヘンではなく日本で開幕されるのは異例だと、ホームページに書いている。
 
   今回の舞台であるが、歌合戦の舞台を設営するのは、胸に「Nurunberger POESIE e.V」のマークを染め抜いたTシャツを着て野球帽を被った職人達であるから、演出は、何処にでもある現実のドイツの街角の風景。
群集の合唱団は、歌合戦のハレの場では、丁度欧米の結婚式に参列する男女の姿、即ち、背広とスーツで正装した紳士淑女姿で出ており、総勢100人を超す豪華な舞台である。
   これが、凄い歓喜の合唱をするのだから、大変な興奮を呼ぶ。
   第2幕幕切れで、市民達の大乱闘が始まるが、コーラスのハーモニーがびくともぶれないのだから凄い。

   今回の舞台で光っていたのは、やはり、靴職人で詩人のハンス・ザックス、秘めた情熱と心情を吐露して噛み締めるように朗朗と歌っていたバリトンのヤン=ヘンドリック・ロータリングで、巨漢ながら威厳があって流石であった。
   それに、嫌味なく表情豊かに歌っていたベックメッサーのアイム・ヴァイルム・シュルテの巧みさも秀逸で、短躯でダンディを装おうとする表情がいかにもコミカルで芸が細かく上手い。
   ヴァルターを歌ったテノールのペーター・ザイフェルトの歌合戦の優勝の歌「朝は薔薇色に輝いて」は流石に上手い、ハンス・フォン・ビューローから、リストの娘コジマを奪って妻にしたワーグナーだから、このエヴァに捧げた歌の素晴しさも格別である。
   エヴァを歌ったソプラノのペトラ=マリア・シュニツアーの歌合戦に出かける前の「おお、ザックス、わが友」は涙が出るほど美しくて感激、その後の5重唱が素晴しかった。

   最後の、優勝しながら、マイスタージンガーの称号を得ながら拒否するヴァルターに向かって、営々と築き上げてきた芸術家達の伝統と蓄積が如何に大切かを諭して切々と説くザックスの歌う「国が滅びても、神聖なドイツの芸術は永遠に残る」に感動して国民魂の発露に歓喜した大群衆の歓呼の中でクライマックスを迎えて終幕に突入する。

   性格が違うが、自由と平和と民主主義の到来を祝って歓喜するベートーヴェンの唯一のオペラ「フィデリオ」を思い出して感激新たであった。
   イースター音楽祭のベルリン・フィル、ロイヤル・オペラの舞台、新日本フィルの「レオノーレ」、どれも凄かった、何故これほどまでに人間の崇高さをベートーヴェンは歌い上げようとしたのか。
   ワーグナーも凄いと思うし、やはり、ドイツの芸術は永遠である。

   余談だが、最後に、カーテンコールに現れた指揮者ズービン・メータ、ビバリーヒルズのマダムに人気絶頂だった若くてダンディな頃のロサンゼルス・フィルから聴き続けているが、随分年を取ったなあと思った。

     
コメント (1)
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