熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

新日本フィル定期・・・井上道義と安倍圭子の華麗な饗宴

2006年10月14日 | クラシック音楽・オペラ
   今月は井上道義の華麗な演奏だが、私は安倍圭子のマリンバに注目していた。
   マリンバについては、TVやラジオで昔から平岡養一が奏でる素晴らしい日本の音楽に慣れ親しんできた。
   しかし、実際にコンサートに出かけて聴いたのはずっと後で、ロンドンで、シティ・フェスティバルの時、古風で優雅なギルド・ホールでのイブリン・グレニーの演奏会であった。昔の貴族の館の様な華麗なホールで奏でられる何とも言えない温かくて柔らかな、それでいて時には激しい華麗な音色を聴いて幸せであった。
   耳に障害があり体全体で音をキャッチして演奏する偉大なパーカッショニスト・グレニーの華麗で懐かしいマリンバの音色、、それに踊るような美しい姿も印象的であった。

   休憩前の伊福部昭作曲「ラウダ・コンチェルタータ~オーケストラとマリンバのための(1976)」のマリンバ独奏が安倍圭子。
   小柄な安倍が、肩パットを三角に高く尖らせた白いゆったりとした流れるようなドレス姿で登場し、時には優雅にやわらかく、時には天使が飛ぶように華麗に舞台を舞う。

   グレニーの時にはどうだったのか忘れてしまったが、安倍の奏でるマリンバは実に堂々としていて立派な楽器である。
   マリンバは、アフリカ原産のようで、板を並べてその下にひょうたんをぶら下げて共鳴管にしていたようだが、19世紀にグアテマラで改良され、更に、シカゴのディーカン社が木製パイプを金属製パイプに代えて今日に至っていると言う。
   しかし、安倍圭子がアメリカ製のマリンバを東京文化会館で奏でた時に、作曲者から「フォルテッシモの低音はドブ板のような音、ピアニッシモはホールの後まで聞こえない」と言われてショックを受けて、ヤマハと独自の楽器を開発することにした。
   4オクターブしかなかったマリンバを5オクターブに改良し、立派な独立したソロ楽器として完成させたのも安倍圭子の貢献あってこそだと言う。

   安倍のLPがアメリカの教授の注目を浴びて招聘されて渡米したが、あまりにも華麗で激しい音色に男性奏者と間違われてプログラムにMRと書かれていたとか。
   40歳を過ぎてからの安倍の海外行脚が始まるのだが、多くの演奏の他にマスタークラスでのレッスンを行い、日本の文化を教材に現地のミュージシャンに最高のマリンバ音楽を教えマリンバの普及に努めているのだと言う。

   マリンバは、安倍の心を語る手段であり、マリンバと語りながら生きてきて即興から始まって作曲がスタートしたのだと言っているが、マリンバが好きで打ち込んできた安倍のマリンバ修行が、多くの弟子達を育て裾野を広げてきた。
   ピアノに近い筈のマリンバが、大学では音程なしの打楽器科にあるらしいが、まだまだ道は遠いようだ。
   あの胸に響く華麗で懐かしいマリンバの音色は、やはり、人間の生み出した素晴らしい楽器である。

   ところで、伊福部の「ラウダ・コンチェルタータ」であるが、荘重な大地の底から響いてくるような導入部が長く続いて、マリンバの第一音は激しく打ち落とされる。
   私は、このマリンバと大管弦楽との協奏曲を、奈良の風景を懐かしく思い出しながら聴いていた。
   古くてどこか雅な日本の風景、決して京都ではない、広々として低い起伏のある大らかで明るい、大和の風景である。
   マリンバの低音がどことなく銅鐸の音色に聞こえ、オーケストラが荘重な雅楽の雰囲気を奏で、そして、日本人には懐かしい心の故郷を呼び起こしてくれるような音色が、時には静かに優しく、時にはうねる様に激しく駆け回る。

   この音楽は平岡養一の為に作曲されたようだが、安倍圭子の為に独奏パートを加筆して1979年に初演されたのだと言う。
   このソロパートが実に美しいし、それに、丁度安倍のコスチュームが、飛ぶように演奏する姿に合わせて、大和時代の巫女か天女のように華麗に靡いて素晴らしい。

   ところで、井上道義指揮の他の演目は、ロシアの作曲家シチェドリンの「お茶目なチャストゥーシュカ」とバルトークの「弦楽器、打楽器、チェレスタのための音楽」で、夫々、それなりに楽しませてくれた。
   余談だが、夫君岩城宏之氏を亡くしたバルトークで出演していたピアニストの木村かをりさんは元気な姿を見せていた。
   

   
   
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ハローウィンの思い出・・・フィラデルフィア

2006年10月13日 | 海外生活と旅
   ガーデニング・ショップや植木店に行くと、今、ハローウィンの飾り付けで賑わっている。
   今年は、珍しく、何時も行く園芸店で黄色いパンプキンを見つけたので、買ってきて孫の為にJack-o'-lanternを作った。
   昨年は、黄色いかぼちゃがなかったので、普通の濃緑色のかぼちゃで間に合わせたのだが、堅くて目鼻を開けるのに困った上に、やはり、肝心の感じがもうひとつ出なかった。
   口絵写真は、今年私が作ったJack-o'-lanternであるが、中にローソクの灯を灯すとオレンジ色の温かい光がパンプキンの皮を通して揺らぎ、秋の風情が漂って来て実に懐かしい。

   この季節になって、ハロウィーンの飾り付けを見ると、懐かしいフィラデルフィアでの大学院生活を思い出す。
   もう30年以上も前になるが、娘が地元のナーサリースクールに通っていた頃で、住んでいたペンシルバニア大学の院生用のハイライズ・アパートメントの主婦達が、ハローウィン当日、子供達の為に催し物を用意したのである。
   子供達は、思い思いにお化けの格好をして、部屋部屋を一戸づつ、TRICK OR TREAT(騙されたくなかったらお菓子をくれ)と口々に可愛い声で叫びながら回り歩いた。
   夫々に黄色いカボチャ型の籠を持っているので、その中にお菓子やキャンディを入れてやると、又、次の子供達の家に向かう。
   わが娘も、ニコニコしながら、インターナショナルな子供達の仲間に入って、嬉しそうに沢山の子供達と一緒に我が家にも回って来た。
   疲れて帰って来た時には、籠の中に沢山のお菓子が入っていたのを見せてくれた。

   確か、大学のキャンパスのショップで売っていた娘の衣装や飾り付けを買ってきたと思うのだが、鮮明に覚えているのは、大きな黄色いパンプキンを買ってきて、Jack-o'-lanternを作ったことである。
   この黄色いパンプキンは、少し堅いけれど加工がし易くて、それに、美しくて秋の収穫の喜びを味わわせてくれるので、私は好きなのだが、残念ながら、日本では見かけることが少ない。
   店にはプラスティック製のJack-o'-lanternが所狭しと並べて売られているが、この楽しさと季節感は、ささやかだが、黄色く色づいて熟成したパンプキンに包丁を入れて、プーンとした匂いを感じながら作らないと分からない。

   このハローウィン(HALLOWEEN)は、10月31日で、古いドルイド教徒ケルト人の聖夜で大晦日のこと。翌11月1日は、新年なのである。
   この日の一晩だけは、地上を彷徨う悪霊たちを総て動物に変えて追い払うことが出来ると信じられていたので、ケルトの若者達はお化けに変装して町中を歩き回って騒ぎなぎながらご馳走を楽しんだのである。
   丁度キリスト教ではこの日は万聖節(HALLOWMASS)で、ハローウィンは前夜祭となるのだが、このケルトの古い風習をキリスト教文化に取り入れて祭として定着している。
   アメリカに移ってからは、子供達のお祭となって、大いに騒ぎ、ご馳走を食べて収穫を祝う晩秋の楽しい一日となっているのである。
   
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21世紀の人類の課題と科学の可能性・・・ノーベル賞学者大いに語る

2006年10月12日 | 政治・経済・社会
   10月11日、東大の安田講堂で、読売新聞とNHKの主催で科学フォーラム東京「21世紀の人類の課題と科学の可能性」が開かれて、ノーベル賞受賞科学者の李遠哲台湾中央研究院院長と利根川進MIT教授が基調講演を行い、その後、ノーベル賞学者のウォルター・コーンUCA名誉教授と小宮山宏東大学長が参加し、チャーミングな大島まり東大教授の司会でパネルディスカッションが持たれた。
   非常に程度と格調の高い講演会で、正に、標題のこれからの人類の課題と科学の可能性について真剣に討論されていて、久しぶりに知的満足を味わって夕闇迫る銀杏並木を歩いて帰ってきた。

   李博士は、中途半端にグローバル化したあまりにも巨大化した現在の経済社会において、緊急問題は、地球温暖化問題、エネルギーの需給ギャップの拡大、鳥インフルエンザ等の感染症の蔓延等々深刻な問題に直面していることで、人類はこれらを科学と技術の力で解決すべきであると問題提起し、必ず出来る筈だと言う。
   しかし、持続可能な人類の将来の発展の為には、一国で対応できるような問題ではなく、全人類が英知を結集して一致協力して当たるべきで、科学者も科学調査や研究での国際協力だけではなく、これらのグローバルな問題を解決する為に国境を越えて一致団結して先頭に立って協力すべきである、と結んだ。

   利根川教授は、もっと長期的なスパンで考えて見たいと言って、生命科学、脳科学の立場から、「Memory, Mental glue for your past, present & future」について、自身のMITでの研究を通じて語った。
   原理主義の宗教グループや選ばれた一部の政治家などが戦争を起こして人を殺戮することをなんとも思っていない。このようなことは普通の状態では決して起こり得ない筈だが、ある条件下で起こる。
   このような行動の意思決定は脳の中で行われているのだが、精神的な心の活動について最高の高等動物ホモサピエンスの脳の中でどんなことが起こっているのか、心の機能を自然科学を使って解明して見たいと言う。
   人間の脳がどうなっているのか分からなければ人間自身が分からない。
   しかし、現実に、人間の脳の機能については殆ど何も解明されていないし分かっていないのだと言う。

   Memory 記憶は、過去、現在、未来を連結させる機能で、重要な精神現象だが、アルツハイマー病患者はこの記憶を欠落している。
   ネズミの脳の海馬の特殊な細胞を取り去ると、記憶機能が完全に欠落してしまって、陸が分からず水中を彷徨い泳ぐのだが、その姿を画面に映しながら、Memoryについて説明した。

   このようなmutant mouseを使って記憶はどのように脳に溜め込まれるのかを研究中のようだが、面白かったのは、映画「レインマン」のキム・リークの話。
   本を1ページ分10秒で全部覚え込む能力があり、12000冊の本を読んで中身を全部記憶していた程記憶力が抜群であったが、覚えているだけで、その記憶・知識を総合したりルール化したり、兎に角、活用することは一切出来なかった。
   9.11事件で強烈な経験をした人々は記憶が強烈過ぎて、一部のベトナム兵がそうであるように同じ様なエモーショナルで精神不安定になって困っている。
   東大生を含めて、記憶力が良いことが果たして幸せかどうか分からない、と茶化すと場内から爆笑が起こった。

   話は飛ぶが、どんなシチュエーションで言われたのか忘れたが、利根川教授は、人類の将来について言及して「人類は必ず滅びる、そうでなければダーウィンが正しくないことになる」と言っていたのが妙に記憶に残っている。

   大学の使命について議論が移った時に、利根川教授は、
   特にエリート大学は、リーダーを養成すべきであると強調した。
   MITのプロのアドミッション・オフイサーが学生を選考する時に一番重視するのはこのリーダーとしての素質であると説明しながら、受験生を選考する時にボランティア活動等でどのようなメンタリティでリーダーシップを発揮したか等クライテリアに加えるべきだと言っていた。
   余談だが、学業成績の良くなかったケネディ大統領がハーバード大学に入学できたのはリーダーシップの素養を認められたからだと言うのは有名な話である。
   もう一点は、哲学を教えるべきだと言うこと。
   専門教育だけではなく、ブロードな教養に力を入れるべきだと言う指摘で、このブログでも書いたが、要するに、日本のリーダーに欠落しているリベラル・アーツ方面の教養の涵養である。
   この教育と大学の目的については他のノーベル賞学者や小宮山東大学長の傾聴すべき議論があったが今回は割愛する。

   ところで、この複雑怪奇な人間の脳が、知識を知恵に転換して、果たして人類の未来に対して崇高な目的を感知して導いてゆく能力があるのかどうかは分からない、と利根川先生は言っていた。
   あの世があるのかどうか、人間の命とは何なのか、
   科学が少しづつ宗教や哲学の領域に踏み込み始めたと言うことであろうか。
   
   
   
   
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「安野光雅の世界」展

2006年10月11日 | 展覧会・展示会
   日本橋高島屋で「安野光雅の世界」展が開かれていて、人気を集めている。
   私も何度か安野光雅の絵画展には出かけているが、今回は、安野氏の故郷津和野に建設された町立安野光雅美術館の創立5周年記念の為の絵画展で、同美術館から作品160余点が来ており、初期の作品から多方面に亘った作品が展示されているので、体系的に総観出来て楽しい。

   津和野は、森鴎外や西周の故郷でもあり、非常に美しい小京都の風情のあるシックな山間の町で、何時行っても落ち着いた日本のふるさとを感じさせてくれる懐かしい田舎町である。

   館内に入場すると、最初に目に入る絵は、はじめての字のない絵本「ふしぎなえ」の挿絵で、3次元を2次元の平面に描いた不思議なだまし絵である。
   平面に描くのだから、離れたところで壁が床に変り、天井が床に変ると、人が横に歩いたり、逆さまに歩いたりしていても、その部分だけ見ていれば少しも不思議ではない。
   駐車場など、出口では総て一階になっていたり、迷路を人が逆さに歩いたりと、兎に角面白い。1968年と1971年の作品である。
   
   旅の絵本やヨーロッパの旅、即興詩人などの絵は、大半ヨーロッパの風景を中心とした作品なので、私自身のヨーロッパ生活の場であったところや旅をしたところが多いので、雰囲気が伝わってきて懐かしかった。
   それに、日本の原風景では、まだ最近まで残っていた奈良や京都の懐かしい風景や旅の徒然に訪れた地方の原風景が描かれいて、これも実に旅情を誘う。
   明日香、大原、耳成山など、確かに、あのような田舎道を学生時代に何度も歩いて歴史散歩を楽しんだ。

   もう一つ興味をそそるのは、花の絵である。
   「野の花と小人たち」は、全面に丁寧に描かれた野の花の中に、妖精のような小人たちが息づいている絵で、彩色が実に美しい。
   ほたるぶくろでは、小人の乙女が花を籠のように頭にのせて歩いていたり、どくだみでは、少年の小人が小便をしてる。
   「みちの辺の花」は、白紙に、すいせんやすずらん等を描いた清楚な絵で、花を育てたり写真を撮って楽しんでいるので、見るのが楽しい。

   絵本「シェイクスピア劇場」の絵は、昔、講談社の広報誌「本」で、松岡和子さんのエッセイに添えられて描かれていた絵で、夫々の戯曲の面白いシーンを絵にしていて毎月楽しみながら見ていた。
   ハムレットなどは、旅劇団が父王殺害を演出した劇中劇の場面を描いており、リア王は、息絶えたコーディーリアを抱いて戦場の跡を彷徨うリアを描いている。
   とにかく、劇中のシーンを豊かな着想で自在に描いていて、シェイクスピア・ファンには興味が尽きないと思う。

   何と言っても圧巻は、ずらりと並んだ絵本「平家物語」の原画である。
   これらの絵を描く為に、現地を踏査したと言うが、日本の絵巻を意識してか、絵のトーンが丁寧に描かれた歴史画の様な雰囲気で、夫々の場面に応じて実に克明に物語を追っている。
   私自身、平家の舞台を訪ねて昔よく京都や奈良近辺を歩いたので、小督や横笛などの絵の雰囲気が実に懐かしい。

   会場を出た所で、安野光雅氏が、図録や著書のサインをしていたので、図録にサインを貰って、この口絵の写真を写させて貰った。
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つくばスタイル・シンポジューム・・・典型的なトカイナカ(?)

2006年10月10日 | 政治・経済・社会
   日経主催、茨城県協賛、UR都市機構協力で、日経カルティベーション倶楽部「つくばスタイル~都心へ45分、見つけた!新しいまちづくり~シンポジューム」が日経ホールで開催された。
   つくばエクスプレスの開業で、秋葉原から終点のつくば駅まで最短45分で行けるようになって、一挙に、つくば学園都市が身近になった。

   この7月で廃刊になったシルバー世代を狙った日経「マスターズ」が、昨年だったか、田舎でありながら都会へのアクセスが便利な地方都市をトカイナカと言う田舎+都市を表す新造語で特集していたが、この典型がつくばであった。
   夏休みに、電車の好きな孫のお供をして秋葉原からつくば間をつくばエクスプレスで往復し、小一時間ほどつくばターミナル駅ビルで過ごした。
   沿線は全くの田舎であったが、つくば駅近辺はかなり都会化した清潔な街づくりで、便利な感じであった。
   
   ところが、シンポジューム第二部のパネルディスカッション「”つくばスタイル新しいライフスタイルの提案」で、茨城県麦島健志企画部長が、都市、自然、知をミックスした10万都市の開発計画を語ったので、これは、時代の流れで多少良くなるとしても、今までの都市化構想と変らないスプロール現象の延長の感じがして気が重くなった。

   ところで、前述の「マスターズ」だが、初期から購読していたが、高齢化社会の読者を当て込んで日経が創刊した雑誌だったが、確かに視点が斬新で面白い企画もあったものの、内容が総花的で焦点が定ならず、日経にしては珍しいくらい面白くないので5分くらい見ただけでつん読、兎に角、資料にもならないくらい雑な雑誌であった。
   日経は、シニアに人気のある小学館の『サライ』の上を行く雑誌を作れなかったのであるが、編集が問題だっただけで、団塊世代が退場して行く老齢化社会なのだから、必ず需要があることは間違いないので、再度挑戦する価値はあると思っている。

   このシンポジュームの基調講演は、エッセイスト・画家の玉村豊男氏の「自然都市生活の楽しさ、つくばの魅力」であった。
   何故、田舎に住み始めたのか、偶然のイタズラで軽井沢生活を始めて8年、そして、1991年に長野県上田郊外に移住してワイナリーを始めるまでの今までの田舎生活を苦労話を交えながら面白く語っていた。

   翻訳の仕事で先輩のカメラマンの軽井沢の住まい・喫茶店の離れを借りて翻訳をしたのが縁で、お世辞でこんな所に住みたいと言ったら、先輩が気を利かせて別荘地を探してくれた。
   嫌々見たが、誕生祝は勿論何も買ってやった事のない妻(籍を入れていない)が、この土地を買ってくれといったので、辛苦の末やっと金を借りて土地を買い家を建てた。 
   しめて3750万円、しかし、床がはれなくて最初土間の半分は砂床、客は砂の土間に座って座談していると砂を掘り始めて砂埃が立ってオーディオなど無茶苦茶になった。
   地元の主婦連中とテニスに凝って、何故だか、肝炎になって、トケツ―ユケツ―ゲケツの3血の為に、転地療養で、上田の近くの今の田舎に移り住んで桑畑を切り開いた。

   面白かったのは、田舎に住んで商売の東京の出版社へ原稿をどう届けるかと言う話。
   1983年にやっと出始めたFAXをプリンター、ワープロ付きで250万円で買ったが、相手側にFAXなどなくてFAXそのもを良く知らない。
   ワープロなど、ディスプレィはたった2行で、文字の変換が無理で、法要の案内が、抱擁になってしまって埒が明かない。
   インターネットで、どこにいても瞬時に必要な情報が集められて、何でもインターネットで買えて、全く場所を選ばない今日の便利さとは今昔の感、としみじみと語っていた。

   田舎生活は、言うならば、職住同居。産業革命以前の生活に戻るのと同じである。
   団塊の世代には、定年後田舎生活をしたいと言う人が結構多いが、第一の関門は良きパートナーが絶対必須だと言うことらしい。
   三食昼寝付きに慣れ、買い物と友人との付き合いが好きな主婦が、田舎まで出かけて更に今まで以上に夫の世話をする気など更々ない筈で、「頑張ってね、野菜でも取れたら送ってね」と言われるのが関の山だと笑っていた。

   ところで、つくば程度の田舎は田舎ではなくトカイナカで、生活は大都市の郊外と変らないが、適当に自然が豊かで田舎の雰囲気を味わえて、東京でのコンサートや同窓会にも簡単に出かけて都会生活も楽しめる、そんなところが現代人には無難かも知れない。
   もっとも、この辺りも、寅さんの映画で、マドンナ大原麗子の夫がアラカワオキからの通勤地獄で家出した話があった筈。都会に直結しすぎることが良いことなのかどうか問題でもある。
   友人のイギリス人達は、週末はロンドンのアパートに住んで仕事をして、週末毎に住居のある田舎へ帰って田園生活をエンジョイしていた。

   ところで、満足出来るようなトカイナカに住めば住むほど、やはり気になるのは交通費。通勤定期がある時は良いが、年金生活を始めれば東京等都心への往復が問題で、奈良に住んでいる友人は、定年後真っ先に近鉄の株を買って優待定期券を取得した。このくらいの周到さが必要なのかも知れない。

   
   
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IT時代の最先端を行く文明国

2006年10月09日 | 政治・経済・社会
   IT時代に入ってから、特に、インターネットが普及し出してからは、世界の文明地図は完全に塗り替えられてしまった。
   匠の国ドイツのマイスターの世界も、日本やアメリカの大量工業生産方式の時代も、遥かに遠くになってしまって、今では、バーチャルか現実か混在して分からなくなってしまった世界、人類はIT時代の真っ只中にいる。

   今でも、日本は世界第2位の経済大国なので、日本を世界でもトップクラスの優秀な国だと思っている人が多いが、多くの世界水準の文明指標では、日本の地位は非常に低くなっている。
   大変なバブル景気で、一時は世界第一の大国になりアメリカを凌駕する日も近いと言ったJapan as No.1論が世界を駆け巡ったが、浮かれ過ぎて罰が当たって(?)永い永い大不況に陥ってしまった。しかし、その間に、眠っていただけではなく、古い前世紀の経済社会制度を変えることなく温存してしまって、上手く時代の趨勢に乗れなかったので、大きく世界の潮流から遅れを取ってしまった。

   大前氏は、グローバル・エコノミーの特徴を、ボーダーレスで、目に見えない、サイバー技術でつながっていて、企業はマルチプルで測られるとしている。
   とりもなおさず、このグローバル・ステージの到来は、その多くをインターネットを中心としたIT革命に負っている。

   氷に閉ざされて交易さえままならなかったアイスランドでは、隣の住人との接触さえ1日がかりであったが、インターネットの接続のお陰で、今日では、全国内がネットで統合されて瞬時に対応できる単一の経済社会として機能している。
   情報産業化社会においては、地理的物理的な障害が、最早、経済発展を阻害する要因ではなくなったのである。

   フィンランドは、税負担は非常に高いが、元々北欧の福祉国家が充実しており教育水準が非常に高く、それに、フィン語が特殊なので英語の普及率が高いので、IT革命の潮流に乗って、今日では、世界最高水準の生産性と競争力を誇る最も豊かな国に仲間入りをしている。
   フィンランドは、ノキアの本国だが、携帯電話の普及率が90%に達しており、ネットワークの接続性、柔軟性はトップランクで、ITとeビジネスへの対応の良さは世界最高水準だと言う。

   私がフィンランドを訪問したのは、90年代の初期で、ベルリンの壁が崩壊した直後であった為に、ソ連経済に連動していたフィンランド経済は非常に悪化していて苦しい時期であった。
   最初はプライベート旅行、次は、経済ミッションでの旅であったが、当時のフィンランドは、経済悪化でソ連市場に期待出来なくなったので、中国などアジア市場の開拓等を模索していた。
   美しい清潔な国であったが、産業に乏しい普通の国で、訪問した企業なども日本のTQCを一生懸命真似ていたようで、今日の偉大なIT国家になる片鱗さえ見せていなかった。
   ムーミンとサンタクロースの国で、キッチン、木製品や繊維製品などが質が良く、アラビアの陶磁器など面白いので今でもいくらか手元に置いて愛用している。
   もっとも、バルト海を航行する観光船は素晴らしかったし、今でも世界最高の内装の豪華船を建造するなど生活の質に対するこだわりなど民度は極めて高い国であった。

   ノキアの国内市場はたったの1%で、世界を相手にしないと生きてゆけないグローバル・エコノミー真っ只中の経済国家がフィンランドで、リナックスのライナス・トーヴァルスが生まれ出るのは当然なのかも知れない。

   かっては歴史の流れがゆっくりしていて、大国になって世界の中心になるためには、大変なリードタイムが必要で、経済力軍事力などは勿論、地政学上などあらゆる条件が揃わなければならなかった。中国、ローマ、イギリス、アメリカ、然りである。
   しかし、今日のITで裏打ちされたグローバル・エコノミーの舞台では、そのような古い経済社会を律してきた地理的物理的条件が消滅して、如何に小国であっても、知的武装を行いIT技術を駆使すれば一挙に文明社会の前面に躍り出ることが出来る。そんなことを、フィンランドやアイルランドの発展が教えてくれている。
   
   15年程前だが、イギリスに長い間住んでいながら、もう一つのIT先進国アイルランドには行けなかったのが残念である。
   英国の北アイルランドには仕事で出かけたが、確かに民度の高い教育に力を入れた素晴らしい地方であったが、残念ながら、IRA等過激派の活動が活発で、繁華街にも戦車が常駐しておりビルへの入場チェックが極めて厳しかったので、事業での進出は怯まざるを得なかった。
   アイルランドは、国土の疲弊が激しくアメリカへ大挙して移民を送り出した貧しい国だったが優秀な人材を輩出した偉大な国でもある。
   そのアイルランドだが、やはりフィンランドのように教育水準が非常に高くて英語は母国語、技術立国の国で、今や世界の最先端を行くIT国家だと言う。

   日本は天然資源の乏しい貧しい国だが、優秀な人的資源があると言われて世界一の工業大国に上り詰めてきた。
   大きくなりすぎて、総身に知恵が回らず制度疲労を起こしてしまったが、IT時代のグローバル・エコノミーでの次の舞台でどんな役割を演じることが出来るのであろうか。

   
   

   
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芸術祭十月大歌舞伎・・・「仮名手本忠臣蔵五段目&六段目」

2006年10月08日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   今月の「夜の部」は、前半は、仁左衛門の早野勘平と菊之助のお軽、後半は、幸四郎の髪結新三と言う中々魅力的なパンチの効いた歌舞伎で面白かった。

   注目すべきは仁左衛門の勘平で、とにかく、悲哀を絵に描いたような美しい悲劇の主人公で、特に、自宅に戻って着替えた浅葱色の紋服で死を迎えるまでの流れるような姿は感激的でさえある。
   「片岡仁左衛門 美の世界」と言うブランド名で着物をデザインしているくらいだから、舞台で着る自分の衣装には格別愛着を持って選んでいる。
   まして、日頃から、「みんなと同じスーツを着ていても、人込みの中を同じ歩調で歩いていながら、それでも目を引けるようなそんな役者になりたいなあ」と言っているのだから、この浅葱の紋服は江戸風のようだが如何に勘平の悲劇にマッチした衣装であるかを知り尽くしての舞台である。

   魁春の一文字屋お才に見せられた縞の財布に虚を衝かれ胸騒ぎがして、背を向けて座り込む。受け取った財布を左手の畳上において、煙管を持つ右手の袂で隠しながら、左手で懐を弄って財布の頭を引き出して眺めて動転する。
   心の動揺を隠す為に、お軽に茶を所望して口に当てるが熱くて咽てお軽をビックリさせる。
   自分が誤って鉄砲で射止めた人物が義父の与市兵衛(松太郎)であり、お軽を身売りして得た半金の50両の財布を奪ったと勘違いした瞬間で、その後、勘平の切腹までの悲劇が一挙に拍車をかけて展開する。
   やや右手に顔を傾けて下を向いて微動だにしない座姿の哀愁に満ちた仁左衛門の彫りの深い横顔が、強烈なバックグラウンド・ミュージックを聞いているように舞台の悲劇性を増幅して行く。
   しかし、輪廻転生があるなら死は自然の摂理だと死に対して恐怖も嫌悪感も感じないと言う仁左衛門には、勘平は満足して死んでいったのであって、大切なのは行き場のない運命に翻弄された二枚目の死に対する思い入れである。

   この五段目と六段目だが、本来関西歌舞伎の出身の仁左衛門なので演出がミックスしていると言いながらも、たとえば、二つ玉の場なども、一つ玉で演じられていて、普通勘平はいのししを追って駆け出してくるのだが、仁左衛門の勘平は火縄をくるくる回しながら花道を登場してくる。

   刀を腹に突き当て瀕死の重症で自分の失態を二人の同僚武士に申し開く件で、「色に耽ったばっかりに」と言って血染めの右手で右頬に血を滲ませながら、微かに顔の表情を緩める何とも言えない仁左衛門の表情は、この勘平の過酷な運命を総て物語って余りある。

   何故勘平の死が鉄砲なのかと高野澄氏が面白い議論を展開している。
   秀吉の刀狩以降厳しく武器の保有は規制されていたはずだが、当時は庶民間、そして、農家などの集落にもかなりの鉄砲が流布していたらしい。
   鳥獣の被害除去の為の鉄砲なので収穫拡大の名目で限られた農民に許されていたようだが、綱吉の「生類あわれみ令」によって取締りが厳しくなり農民から鉄砲が取り上げられて武士に移った。
   従って、武士である勘平の死の引き金は、名刀などではなくて鉄砲であるべきであったと言うのである。時代を色濃く映し出している。

   勘平の持っていた鉄砲は、当然以前には与市兵衛のものであって彼はかなり有力な顔役の百姓であったので、そのため、勘平が軍資金の融通を頼めると考えたのであろう。
   十二両三人扶持の下級武士であった勘平とは違うが、しかし、そんな蓄えはある筈もなく、結局、お軽の身売りで調達することになった。

   ところで、女房お軽の菊之助だが、実に初々しくて匂い立つように魅力的で美しい。田舎のただの女房ではなく、鄙にも稀な品格を漂わせた宮仕えのお軽の風情を残しているのが中々素晴らしい。
   籠に揺られて花道を連れて行かれる所を追っかけて源六が駕籠屋に「今からそんなに振ることを覚えたらあかんがな」とか意味深なことを言うが、色気十二分の良い女ぶりである。
   特に、最後の勘平との別れは感動的で、仁左衛門勘平との絵のようなシーンが印象的である。

   もう一つ特筆すべきは、海老蔵の斧定九郎で、たった台詞は「五十両」と言う一言だけだが、歌舞伎の見得などヒットシーンを繋ぎ合わせたような良い格好を東西一の美男子役者が演じるのであるから、全編絵になっている。
   文楽での「二つ玉の段」は、下手小幕から与市兵衛を定九郎が追っかけてでて来て、この段の殆どが、二人の金のやり取りの争いであるが、歌舞伎では、稲村から定九郎の手がニューッと伸びて与市兵衛の財布を奪って一刀の下に切り捨てる。
   暗闇(?)の中で、定九郎は、金を確認し与市兵衛を谷底に投げ落とし勘平の鉄砲に撃たれて倒れるまでを、スローモーション映画の画面のように優雅に格好良くパントマイムを演じ続ける。
   黒い紋付に破れ傘、鉄砲に撃たれて口から流れる鮮血が真っ白な足を真っ赤に染めて行くリアルさ。歌舞伎ならの芸であり、海老蔵の進境が著しい。

   一文字屋お才の魁春は、目立たない抑えた演技で好感を持ったが、私にとっては面白かったのは、大阪弁を鉄砲玉のように繰り出して吉本喜劇調で判人源六を演じていた松之助である。忠臣蔵らしからぬ舞台が面白い。
   母おかやを演じた家橘であるが、少し若さを感じてしまったが非常に器用で、勘平をぐいぐい追い詰めて行くあたり中々上手いと思って見ていた。
   千崎弥五郎の権十郎と不破数右衛門の弥十郎だが、勿論、芸達者なので重要な脇役を無難にこなしていた。

   私の印象に残っている勘平は、菊五郎の舞台で、あの時は、お軽が菊之助だから親子で演じていたのだが、素晴らしい舞台であった。
   このお軽と勘平の物語は、言うならば、ごく下っ端の男女の悲劇で、まして、主君がお家断絶と言う重大事件を引き起こしていた時に、お供で登城しておりながら逢引していて居合わせなかったことから発生した全く些細な話なのだが、仮名手本忠臣蔵の最も重要な舞台の一つとなって聴衆を釘付にしてきた。
   不思議な、しかし、中々良く出来た芝居であると思って何時も楽しんでいる。
   七段目の「祇園一力茶屋の段」で、お軽が由良之助と関わって来て更に面白くなる。
   

   
   
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グローバル最強企業のM&A攻撃・・・ニューズウイーク

2006年10月07日 | 経営・ビジネス
   ニューズウイーク誌10月11日号で「グローバル最強企業ランキング」が特集されている。
   日本の経済や経営誌と違って、全く異なった視点からインターナショナルなビジネス・ジャーナリストが書く記事であり、日本的なバイアスがかかっていないので面白い。

   売上高ではなく、営業利益でランク付けしているのだが、同時に、M&Aを意識してか、20位までの時価総額とお金を溜め込んでいる会社をランキングしている。
   時価総額が大きければ大きいほど、他企業を買収する能力があり、キャッシュ・リッチであればあるほど、M&Aの標的になる可能性が高いのである。
   その意味では、先般イギリスの会社が狙っているとして噂の流れた日本の超優良企業・武田薬品は、医薬・バイオ部門では第14位で、トップのファイザーやJ&J、グラクソ・スミスクライン等と比べて時価総額は勿論のこと規模がかなり小さいのだが、157億ドルと言う世界第3位の巨額なネットキャッシュを保有しており、正に、ハゲタカの格好のM&Aのターゲットになり得ると考えてもおかしくない。

   ネットバブルの後遺症で巨額の収益を内部に溜め込んきた企業が、今や積極的に、設備投資と研究開発費の増加、自社株買戻しの拡大、M&A戦略等の遂行により拡大路線に走り出している。貯蓄から投資へのシフトである。
   原油高騰による増収増益で石油産業の一人勝ちの様相を呈しているが、原油価格も沈静化の傾向にあり、積極的な他企業の成長戦略を好感して市場は、長期的に収益を伸ばすのは石油以外の業界の方が大きいと看做している。
   これからは、長期的な成長と短期の利益の正しいバランスをとって競争を勝ち抜く企業が勝者となる。
   以上が、トム・エマーソンの総括した前置きで、この視点から各業種別に面白い企業分析がなされている。

   日本企業で、営業利益が世界ランキングのトップ50位に入るのは、12位のトヨタ、26位のNTT,36位の日産自動車、37位のホンダと42位のNTTドコモだけであり、100位までには、キヤノン、新日本製鉄と東京電力が入っている。

   業種別分析で興味深いのは「自動車」部門で、タイトルが「デトロイトに勝ち目なし」。トヨタは向かうところ敵なし、アメリカ勢の完敗は時間の問題、と論じている。
   米メーカーの不振は自業自得で、トヨタはガソリン価格高騰を見越して燃費向上の技術に投資したが、アメリカ勢はガソリンを食う小型トラックやSUVに力を入れた。ガソリン価格の高騰でトラック・SUV需要は急落し、セダンは安い韓国車に敗北、退職金や年金コストの重圧で投資資金もままならず、GMなどトラックに社運を賭ける以外にないと言う。

   業種別分析の「エレクトロニクス」では、液晶のサムスンとプラズマの松下電器の攻防について書いている。42インチ以上の大型TVでも、液晶技術の向上によってプラズマに対抗出来るようになってサムスンの追い上げで松下が苦戦している、液晶の方が映像が上なので薄型TVの主役交代か、とアン・モンローが論じているが、どうであろうか。

   日本企業が論じられているもう一つの業種は「金属・鉱業」で、「新日鉄も食うか食われるか 新生ミタルと新日鉄が韓国ポスコを巡る買収合戦に追い込まれる可能性も」と論じられている。
   日本でも報じられていた様に、新日鉄は、日本の鉄鋼メーカーと株を持ち合い、ポスコとの提携拡大など買収対象にならないよう試みていると書いているが、再編成こそ鉄鋼価格を安定させる究極の方法であり、業界全体の利益につながる唯一の道であるとも論じている。
   食うか食われるか、安価な製品を供給するポスコは、新日鉄やミタルだけの買収対象ではなく、ロシアも中国も狙っているのだとも言う。
   昔、新日鉄が「鉄は国家なり」と豪語し、経団連会長の座を占め日本経済のリーダーであったのも今は昔になってしまった。
   
   何れにしろ、このニューズウイーク誌のGlobal Best 2006にランクインしている日本の企業は殆どの業種で皆無に等しいのだが、勿論、誌上で論じられてもいない。
   グローバル競争に晒されて、かなり国際競争力があると考えられている製造業でさえこの程度であるから、日本国内の規制や豊かな市場に守られてきた内需産業など熾烈な国際競争に太刀打ちできる訳がない。

   来年、愈々、外国企業が日本の子会社を通じて日本企業を買収する「三角合併」が解禁となる。
   村上ファンドの買収の比ではない程巨大なファンドや、時価総額何倍何十倍と言った巨大な同業のグローバル企業が、間違いなく日本の優良企業をターゲットにしてM&A攻勢をかけて来る。
   特に同業種の欧米企業にとって、将来性のある超有望なアジア市場を確保する為には、日本企業を傘下におさめてグローバル戦略を打つのは当然の選択肢であろう。
   イギリスのように、世界を支配するのもされるのも同じ次元で考えてウインブルドン現象を意に介さない国民ならイザ知らず、そのようなグローバライゼーションに、日本人の感覚として耐えられるのかどうか。

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                 

   
   
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ベンチャーへの心構え・・・イー・アクセス千本会長

2006年10月06日 | 経営・ビジネス
   CEATEC JAPAN 2006の基調講演の最後になって、イー・アクセスの千本会長は、1分だけ言いたいと言って、若いベンチャーを志す人に対して、ベンチャーへの大切な心構えについて語った。
   電電公社からベンチャーを志して独立して6つの会社を立ち上げ、慶応大学で経営学も教えていたのであるから、いわば、エキスパートから見たベンチャー経営論である。

   ① 大きな時代の流れを見ること。そして早くから対応すること。
   ② アグレッシブにトライすること。しかし、周到な準備が必須。
   ③ ヘジテイトせず、大胆にリスクを取る。
   ④ 一人ではことを成せない。良いパートナーを見つけること。トップの良きチームワークが大切。
   ⑤ 中途半端な目標は駄目であり、最大の目標を立てること。
   ⑥ 一旦始めた事業は絶対に諦めないこと。
   ⑥ リスクを取り続けるばかりでは失敗するので、真面目に慎重に。

   暗闇でメモを取ったので、後先矛盾しているような記述になってしまったが、印象に残っているところをもう一度整理してみたい。

   目先の世の中の動きに惑わされずに、大きな流れ、世界や経済社会の動向がどの方向に向かって動いているのか、大局的な見地からの洞察力を涵養して、絶えずウオッチして準備しておくこと。
   千本会長は、NTTが長距離電話料金を高くして儲けていたのをおかしいと思ってDDIを設立し、インターネット料金の異常な高さを粉砕すべくイー・アクセスで切り込み、そして、ITユビキタス時代には携帯端末が一番重要になると考えて、eMobileを立ち上げて、モバイル・ブロードバンド革命を起こそうとしている。

   ベンチャーは、大胆にリスクを取って果敢にアグレッシブに事業を推進することだと思われているが、そうではなく、既存のエスタブリッシュされた大企業の経営者よりも遥かに、それ以上に用意周到な準備をして、慎重に慎重を重ねて事業に当たらなければならない。
   このことは、最近のホリエモンや村上ファンド事件を思い出せば分かることで、行け行けドンドンで、周到さと慎重さに欠けた経営を強引に推し進めた結果の付けを払わされた形になってしまった。

   自分ひとりでは何にも出来ない。良きパートナーを見つけて、立派なチームワークで事業を行うことが必須であり、特に、良きトップ集団を形成して経営を行うことが大切である。
   イー・アクセスの取締役構成だが、欧米亜の優秀な人物やIT関連のトップエリート等を社外取締役にしてこれが過半数を占めており、社内取締役は信頼できる良きパートナーを起用して、コーポレートガバナンスの徹底を期そうとしているのもその現れであろうか。

   一度決めた事業目標は絶対に諦めずに遂行することである。失敗とは諦めることと同義であって、諦めずに努力し続ければ必ず成功する。
   これは、松下幸之助に教えられたことのようだが、言うは易し行なうは難しで、大変な執念と努力を要し、凡人では成しえない。
   昔、賭けをする時には、負ければ次にはその倍を賭けて、勝つまで賭け続ければ必ず勝つ筈だと教えられたことがある。確かにそうだが、凡人は資金が続かないので、この闘いは途中で諦めざるを得ない。

   安倍総理は、再チャレンジできる美しい日本を作るのだと言っているが、さて、豊かな生活に慣れ親しみ人生をエンジョイしている太平天国の住人日本人には、イノベーションに果敢に取り組む若々しいエネルギーが残っているのであろうか。

   ところで、最近でも、アメリカとは違ってベンチャーを起こすのではなくて、やはり、大企業や人気企業への就職を目指す若者が多いようだが、ベンチャーを起こした相当多くの人々は、今も昔も、自分の仕事関係で得た経験や知識を活用して起業している場合が多い。
   不況の頃には就職出来ずにフリーターとなった人が多く、今では、内定を5社から貰う恵まれた人もいるが、これと同じ様に自分の遭遇した運命、すなわち、スタートの時点での運不運が色濃く人生を決めてしまうので、この運命を如何にバネとして活用して飛躍を図るか、難しいところである。
   ベンチャーと言えども、いくら千本会長の言に従っても、降って湧いた様な新規な事業の起業は無理だと言うことであろうと思う。
   
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CEATEC JAPAN 2006・・・異常に高い携帯電話業界を創造的破壊?

2006年10月05日 | 経営・ビジネス
   イー・アクセスのCEO千本倖生会長の「来年から始まるモバイル・ブロードバンド革命の衝撃」を聞いたが、実に面白かった。
   KDDIの前身を立ち上げて固定式長距離電話の料金を大幅に引き下げ、イー・アクセスを設立して、孫さんのYAHOO BBと激烈な競争をしてADSLでインターネット料金を大幅にダウンさせて、世界で最も早くて最も安いブロードバンド国日本の建設に多大な貢献をして来た。

   今回は最後のご奉公と言うことで、イー・アクセスの傘下にEB(eMobile)を立ち上げて、異常に高い携帯電話市場に参入して、大規模なブロードバンド時代を現出させて革命を起こそうとしているのである。
   本来のベンチャーは小規模から始めるのであるが、このEBはゴールドマン・ザックス等から資本金を1432億円集めて、その上に、銀行から2500億円以上のデット資金を調達して、世界初の大規模なベンチャーとしてスタートした。

   固定式ブロードバンド市場に比べて、移動体通信市場は9兆円と言う10倍以上の規模があるにも拘らず、たった3社の寡占状態で、日本の携帯電話料金は、6300円で、香港や台湾の2000円台を筆頭に世界水準から言って非常に高い。
   ブロードバンド時代に突入して、電話料金やインターネットの料金が近年非常にダウンしたにも拘わらず、携帯電話料金は、1999年には7450円、2006年には6380円と殆ど下がっていない。
   1分あたりのコストは、日本が45円なのに、米国は10円、香港は8円等で格差が大きすぎる。従って、利用時間も米国の5分の1程度で、平均的に低い。

   日本の携帯電話メーカーは、シャープを除いて総て赤字であるが、モトローラなど30%以上の利益を上げており、日本の全メーカーの生産台数の総計よりも多くの台数を台湾のコンパル一社で生産している。
   日本の携帯電話は、ドコモなどの要求で、グリコのオマケと一緒で肝心のグリコの味を良くするのではなくおまけばかり、要するに付加的な機能ばかりに力を入れており、そして、日本だけでしか使えないシロモノである。

   eMobileは、携帯電話機(3.5G)は、エリクソンと中国のHuawei社から調達する。
   兎に角、ブロードバンド体制を確立して、肝心の通話料金を下げて革命的破壊を起こすのだと言うのである。

   ユビキタス、ユビキタス、と言いながら電機や通信関係の会社のトップは、携帯電話の機能が、メール、写真から始まって、音楽配信、お財布携帯、ワンセグTV等々多彩な用途を糾合した携帯IT端末であることを吹聴して豊かな生活空間の創造を語っている。
   携帯電話が、最も重要な生活道具であり用品であることには疑いの余地がないのであるなら、使用料金を徹底的に下げる努力をして、電気や湯水のように完全にコモディティ化を図るべきであろう。
   世界最速・最安のインターネットのブロードバンドシステムを構築したのであるから、携帯電話の利用料金を下げることなど難しいことではないと思うのだが。
   
   千本会長のことだから、絶対にやるであろう。来年から始まる「モバイル・ブロードバンド革命の衝撃」を大いに期待したいと思っている。
   月額2~3000円くらいで使い放題の携帯電話が実現するのであろうか。

   ところで、パソコンやオーディオ・ビジュアル機器などIT生活にどっぷり浸かっている毎日だが、家族の中で私だけ携帯電話を持っていない。
   天然記念物のように言われているが、別に理由がないのだが、何となく抵抗があって持ちそびれていると言うだけである。
   しかし、現実には、最近街頭には殆ど公衆電話がなくなってしまったので何時も困っているのも事実である。
   心の底のどこかに、文明生活に抵抗したい気持ちが残っている、と言うことでもある。
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真似した電器からイノベーターへ・・・CEATEC JAPAN 2006

2006年10月04日 | 経営・ビジネス
   CEATEC JAPAN 2006の基調講演で、松下電器の大坪文雄社長が『「モノづくり」を機軸としたくらし価値創造への挑戦』と言うテーマで松下電器の経営について語った。
   ブラックボックス技術の創造、最先端のモノづくりを目指して、「モノづくり立社」の実現などの松下電器の経営戦略が、当然ながら、先日サンディ・プロジェクトで、田原総一郎氏の質問に対して、松下電器の中村邦雄会長が語っていたのに呼応していて、興味深く聞いていた。

   あの時、田原氏の「真似した電器」に関する質問に対して、中村会長は、真似した電器から脱却して誰も真似の出来ない新製品を生み出せと発破をかけたら喜び勇んだのは開発技術者だったと語っていた。
   電気製品がアナログからデジタルに変ったので、後発では駄目になり、先発者、即ち、新技術と新製品を開発した創業者だけしか利益を得られなくなってしまって、製造業自体がデジタル化によってウイナー・テイクス・オール化してしまったのである。

   その後、松下電器は戦略を大転換して、ブラックボックス、即ち、中身が見えなくて何処の国も何処の会社も、そして誰も真似の出来ないような製品を開発することを社是とし、このブラックボックス戦略を根幹スピリットとして新製品開発の為のイノベーションに邁進してきた。
   その結果生まれ出たのが、プラズマTVのビエラであり、デジカメのルミックスであり、DVDレコーダーのディーガであったのだが、今や、イノベーターの本家であったソニーを凌駕してしまっている。

   昔、松下幸之助が、ソニーの盛田昭夫に「うちには、ソニーと言う研究所が東京にありましてなぁ。ソニーさんがね、何か新しいものをやってね、こらエエなぁとなったら、我々はそれからやりゃいい。」と笑ったと盛田の「Made in Japan」に書いてあるが、真似した電器の面目躍如たるもので、ソニーが先発して散々苦労して市場を開拓した製品を追っかけて作って利益を掻っ攫っていたのである。

   このことを、大宅壮一が、ソニーが開発したトランジスターを東芝が後発で市場を奪ったことに触れて「ソニーモルモット論」を展開した。
   ソニーは苦渋を舐め続けたのだが、結局、結果的には、クリステンセンが連続して複数のイノベーションを連発し続けた唯一のイノベーターと賞賛したソニーが、トップ企業として躍り出たのである。
   もっとも、そのソニーも大企業病にかかって歌を忘れたカナリアになってしまって苦渋を舐めている。

   更に、田原氏に「他社はインターネットなどITを活用して金融など他の事業を行っているが松下はどうか」と聞かれて、中村会長が強調したのは、創業者の築き上げた遺伝子にはもの造りのDNAしかないので、モノづくり以外は絶対にやらない。やれば火中に飛び込むようなもので必ず失敗する。このことは、社員が一番良く知っている、と言うことであった。
   この経営戦略は、住宅や他部門の事業に比較的意欲的で金融部門で利益の10%を弾き出しているトヨタの戦略とは大分違うし、勿論、GEなどとは根本的に違う。超巨大企業である松下電器がモノづくりだけで生きて行けるのかどうか、あるいは、それが唯一の正しい道なのかどうか、要は経営そのものにかかっていると思うのだが、「モノづくり立社」実現の経営戦略の将来が非常に興味深い。
   最近まで、総合電機メーカーが集中と選択の戦略を怠った為に経営悪化を経験して来たし、大前研一氏もANDの経営ではなくORの経営を提唱しているのだが、モノづくりと言っても、事業分野が無尽蔵にあることもまた事実である。

   ところで、CEATEC JAPANの一番人気は、やはり、この松下電器で、大坪社長の講演には多くの聴衆が詰め掛けて、私も、早く入場した筈だったが席がなく、1時間立って聞いていた。
   ブースは、あの103インチのフル・ハイヴィジョンのプラズマTVが場内を圧倒、とにかく、人々でごった返していた。
   やはり、メーカーは「最先端の技術」を開発し、消費者をワクワクさせるような商品を生み出すべきだと言うことであろう。
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CEATEC JAPAN 2006・・・日本の凄いIT・エレクトロニクス技術

2006年10月03日 | 政治・経済・社会
   「デジタルコンバージェンスが変える、社会・生活・ビジネス」をテーマとする先端IT/エレクトロニクス総合展「CEATEC JAPAN 2006」が幕張メッセで開催された。
   毎年、エレクトロニクス企業のトップが行う基調講演を聞きたくて出かけて行き、休憩を利用して総合展を見る、と言うのが趣旨だが、とにかく、日本を代表する企業の凄いIT/エレクトロニクス関連の新しい技術や製品が展示されるので、この方が魅力的でセミナーをサボることになることが多い。

   私の場合は、専門知識を欠くので、半導体や材料・電池・電源、計測・試験・製造装置、受動部品等の電子部品・デバイス&装置ステージの方は苦手で、テレビやビデオ、携帯電話などのあるデジタルネットワークステージの方を中心に見ることになる。

   ところで、一番多くの聴衆を集めていたのは、村田製作所のコーナーで、自転車型ロボット「ムラタセイサク君」が、ゆっくりとS字型平均台の上を倒れずに走行するのを多くの人がじっと眺めていた。
   とにかく、実際の自転車の場合には、慣れればじっと倒れずに一箇所に静止して立ってはいられるが、ゆっくりと進むにはどうしてもギコチナク左右にバランスを取りながらハンドルを操作しなければならないけれど、このムラタセイサク君は、全く左右にブレルことなくゆっくりと進み静止する。
   胸についた超音波センサで障害物を確認し、サドル下のフレームにはめ込まれたジャイロセンサが車体の傾きを検出して、お腹の中央にある円盤を回転させることによってバランスを取っている、と言うのだが、凄いコントロール技術である。

   基調講演でインテルのエリック・キム上席副社長の「融合するデジタル世界の実現に向けて」で語っていたが、今回のCEATECの大きなテーマの一つは、映像、情報、通信の融合で、最早、TVとパソコンの差など殆どなくなっているし、携帯電話など立派な多機能の情報端末であり最早「携帯電話」と言うこと自体が可笑しくなってしまっている。   
   
   今日のウォール・ストリート・ジャーナルのアジア版に、香港では、人々はCNNやHBO,ESPNなどテレビ番組を楽しんでいるが、それは、サテライトやケーブルなどではなく、総て電話線で繋がっているIPTV(Internat Protocol Television)だと言うことを紹介している。
   現に、今日のブロードバンド時代では、パソコンから無尽蔵に動画をダウンロードして楽しむことが出来る。
   NHKのチャネル数を減らすことが国策だと馬鹿なことを言う時代ではなくなっているのである。

   ところで、今回は、ハイビジョン関係の展示が活気を帯びていたが、HD DVDとブルーレイの対立が鮮明になってきた。
   面白いのは、情報通信ネットワーク産業協会の会長である西田厚聰東芝会長が、「Real HDワールドから始まるデジタルライフ・イノベーション」と言うタイトルの基調講演で、敵対しているブルーレイには一切言及せずに、HD DVDがデジタルライフ・イノベーションの総てであるかのように語っていた。東芝の代表に徹していたのである。
   私自身としては、今のDVDシステムとの互換性の利くHD DVDの方が都合が良いが、使用している他のエレクトロニクス機器がソニーやパナソニックなどブルーレイ陣営のモノばかりなので、正直なところ困っている。

   来月のWPCも面白いが、兎に角、CEATECは、技術と生活環境の変化を直に感じられる機会を与えてくれるので勉強になる。

   
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ローマ歌劇場・・・素晴らしいダニエラ・デッシーの「トスカ」

2006年10月02日 | クラシック音楽・オペラ
   ローマ歌劇場日本公演の最終日のプッチーニの「トスカ」をNHKホールで観て聴いた。
   ダニエラ・デッシーのトスカを鑑賞する為に出かけたのであるが、噂に違えず圧倒的な素晴らしい舞台であった。

   このオペラは、サルドゥがサラ・ベルナールの為に書いた芝居が題材だが、ナポレオン時代の王統派と共和国派との対立がバックに流れる男と女の物語で、プッチーニが素晴らしい劇的なオペラに仕立てた。

   私は、これまでに随分「トスカ」の舞台を観てきた。MET,パリオペラ座、ロイヤル・オペラ。その度毎に、感激を新たにしているのだが、ルチアーノ・パバロッティの涙を一杯溜めて歌っていた「星も光ぬ」、ヒルデガルト・ベーレンスの胸も張り裂けんばかりの悲痛な「歌に生き、愛に生き」、凄い迫力のルッジェロ・ライモンディやシェリル・ミルンズのスカルピア、等など断片的にしか覚えていない。

   始めてみて強烈な印象を受けたのは映画の方で、まず、ビデオとレーダー・ディスクで見たライナ・カバイバンスカのトスカとプラシド・ドミンゴのカヴァラドッシ、の古い映画であり何回も見て楽しんだ。
   10年以上前に、イギリスにいた時、BBCで、トスカの実際のローマの現地を舞台にして、オペラと同じ時間帯にオペラを演じる画期的な試みがなされたが、第3幕のサンタンジェロ城の処刑の場は、朝の4時頃だったが、起きて見ていた。ズビン・メータ指揮、キャサリン・マルフィターノのトスカ、ドミンゴのカヴァラドッシ、ライモンディのスカルピア。前述のビデオも映画なのでロケだが、この方は、同じ時間帯に3度に分けての実況放映であるから迫力が違っていた。

   私は、残念ながらドミンゴのトスカの舞台を観ていないが、幸いにも、ケンウッドの夏のロイヤル・オペラのコンサート形式の野外オペラで、ドミンゴのカヴァラドッシを聴いた。トスカはマリア・ユーイング、スカラピアはユスティアス・ディアスであった。
   ロンドンの夏の涼風は心地よく、素晴らしい星空の下でドミンゴの「星も光ぬ」を聴いた。
   野外劇場の広い芝生の上は立錐の余地もないほど観客で溢れていたが、何も見えないのに公園外の緑地にも幾重にも人の波が取り囲んで耳を澄ませていた。

   しばしば来日しているのだが、トスカのダニエラ・デッシーもカヴァラドッシのファビオ・アルミリアートの舞台も、私は始めてであった。

   デッシーの第一声を聴いて、私はマリア・カラスを思い出した。カラスは一度フェアウエル・コンサートの舞台しか聴いていないが、カラスはファンに「私の声は好きではないでしょう」と言ったことがあるが、決して美しくて心地よい声ではないと言うことのようだが、私の好きなキャサリン・バトルやシルビア・マックネールの天使のような美しいソプラノとは違うが、圧倒的な説得力と心の琴線に触れて引きずり込む強烈な魔力がある、そんなソプラノである。

   デッシーのアリアを双眼鏡で追って克明に表情を追いながら聴いていたが、「歌に生き、恋に生き」は実に感動的であった。
   表情全体がトスカに成り切っていて心の底から迸り出るような悲痛を歌い上げ、歌い終わった時には放心状態で、万来の拍手の中でしばらく微動だにせず、静かに、指揮者に感謝を示し、大分経ってから微笑を見せた。
   第2幕のカーテン・コールの時には、憔悴しきった表情で出て来たが、あのアリアに全神経を集中させたのか悲劇のヒロインに成り切っていたのか。
   昔、イボ・ビンコが、妻のフィオレンツァ・コッソットのことを、「役になりきってしばらく元に戻らないのだ」と言っていたが、イル・トロバトーレのアズツェーナを歌った後のカーテン・コールのコッソットは、正にアズツェーナそのものであった。

   ファビオ・アルミリアートだが、自分でWebsiteを作り上げるくらいコンピューターに強い歌手なのでウエブ・テノールと呼ばれているが、遅咲きの歌手でもあり、1990年代後半のMetでの「アイーダ」のラダメス以来脚光を浴びている。
   Metで来日し、カバラドッシを歌っているようだが、最近、BS2でマドリード・レアル劇場でのデッシーとの「トスカ」を放映していて聞いたのだが、スマートな容姿に似合わず素晴らしくパンチの効いた美声で、今回も凄い舞台を楽しませてもらった。
   「星も光ぬ」では、サンタンジェロ城の壁面に腰掛けてトスカに手紙をしたためた後、静かに歌い始めて、立ち上がって中央に進み出て跪いて歌い終えるが、切々と歌う誠実な美しいテノールが胸を打つ。
   ところで、最後の処刑で撃たれて倒れるところは実に優雅だったが、1995年のナポリの野外公演で、鉄砲の不発弾が数発右足に命中して怪我をして数ヶ月舞台に立てなかったことがある。

   このデッシー・アルミリアートの夫婦コンビの名演は、同じくおしどり夫婦で素晴らしいオペラ映画「トスカ」を残しているゲオルギューとアラーニアとの関係を思い出させる。
   ところで、デッシーのホームページを開くと蝶々夫人のアリアが聞こえてくるが、一度是非マダムバタフライを観たいと思った。

   スカラピアを歌ったジョルジョ・スーリアンだが、若くて中々の美男子で、憎憎しさには欠けるが、やはり悪人でもナポリ王国のローマの警視総監、それなりの威厳と品格を示して好演、朗々と響き渡るバリトンが素晴らしい。

   指揮はベテランのジャンルージ・ジェルメッティ、ローマ歌劇場管弦楽団の素晴らしく美しいサウンドに感激しているのだが、更に優雅に歌わせていて本当のプッチーニ節を堪能出来て満足であった。

   このトスカの演出で良かったのは、主役がアリアを歌う時には、邪魔な他人を隠して主役だけを引き立てることで、「歌に生き、恋に生き」では、スカラピアを後に下がらせて暗くし、「星は光ぬ」では、背後の歩哨兵などを消していた。
   舞台は、クラシックで実際に似せた設定だが、私の観た多くの舞台に比べて少し貧弱な感じがした。一幕の教会の内部やニ幕のスカラピアの居室など、ゼフレッリまで行かなくてももう少し良くしてもと言う気がしている。

   終演後のカーテン・コールは、もう、お祭騒ぎの賑やかさで、華やかな舞台には出演者や関係者全員が上がって、客席前方に駆け寄った観客と一体になって何時までも感激に酔っていた。イタリアの三色旗が最後には正面に出て来た。
   リカルド・ムーティがスカラ座公演で「オテロ」を振った時も、このNHKホールに最終日に来たが、やはり千秋楽は何事も楽しいのかも知れない。   
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人はどんな手紙を書いてきたか・・・人間文化研究機構

2006年10月01日 | 生活随想・趣味
   人間文化研究機構が、一橋記念ホールで「人はどんな手紙を書いてきたか 近代日本とコミュニケーション」と言う興味深いシンポジュームを開いた。
   手紙を書く人が飛躍的に増加した19世紀以降の日本の社会や文化を対象に、手紙を手がかりに、コミュニケーションをめぐる近代の言説を再検討しようと言う試みである。
   江戸時代の候文からマッカーサーへの手紙など戦後にかけての手紙を主人公にした日本の社会や文化の推移が実に面白い。
   余程好きだとか専門で興味があるといった人しか聴講しないのであろうか、老若男女取り混ぜて多くの人が来ていたが、やはり、学者や文学を専門にしているような先生風の聴講者が多かった。

   冒頭、五味文彦氏が、日本人の手紙は身体の延長でもあり、強靭でしなやかな和紙と言う素材が、折り紙や巻紙、或いは挿したり、反故を張り継いで経を書写するなど独特の特性を持ちながら推移してきたこと、そして、返事が重要な意味を持ち、往来する、ことなどを語りスタートした。

   十川信介教授は、「候文の優勢と言文一致体の台頭」について語り、あらたまった正式な手紙として候文が優勢を続けたが、明治に入ってからは、漱石や鴎外など名だたる文学者も、妻や子供、弟子達には、言文一致体の手紙を出すようになったが、借金の時だけは、何時までも候文であったことなど語っていた。

   面白かったのは、谷川恵一教授の「手紙の時代」で、手紙雑誌が発刊されて、日露戦争でなくなった広瀬中佐に対して実際は妻がいないのに「広瀬中佐夫人によせる文」と言うタイトルで懸賞募集があって、審査員は幸田露伴、賞金は10万円であった話、絵葉書雑誌に出た夫人名の絵葉書交換希望公告に硬軟取り混ぜて多くの投稿があり、怪しげなハガキが多かった話とか、大らかな時代があったこと。
   出版社が絵葉書交換会を主催し、読者から宛名を抜いて切手を貼ったハガキを集めて適当に読者の住所を書いて送り、交際の場を提供したとも言う。

   そう言えば、我々の中高生時代には、雑誌や新聞に文通欄があって、ペンパル募集の記事が出ていたし、外国の子供達との文通も盛んであった。
   あの当時は、コミュニケーションは専ら手紙でありハガキであったのだが、差し詰めIT時代の今ならこの代替手段はインターネットである、時代は変わっても人間のやることは同じなのであろう。

   ロバート・キャンベル助教授は、「漢字で綴られた日本の手紙」と言う難しい話をしたが、貧しい学生時代にアメリカへの電話代が払えず、家族との通信の為に貰った手紙を大切に箱に詰めて保管していたら飼い猫が砂箱と間違って粗相をしてしまい、人のいない時を見計らってコンビニに通いつめてコピーしたとユーモアを交えて語っていた。

   宮路正人名誉教授の「政治家の手紙―平田国学者を糸口として―」は、風雲急を告げていた幕末の政治経済の勃興と混乱期に、如何に通信手段としての手紙が重要であったかを、ペルー来航や明治維新の政治活動や政治的見解、風説止め等々を交えて語っていた。手紙の時代から新聞や雑誌の時代への移行前の話である。

   最後は、安田常雄教授の「マッカーサーへの手紙」。
   総数50万通の手紙がマッカーサー宛に送られたようで、マッカーサー記念館などに保管されているようだが、「マッカーサーの子供を生みたい」と言った夫人達の手紙から、政治的要求の手紙、贈り物の手紙、式典への招待状等々色々あって興味深いが、整理して分析すれば、当時の日本の現状なり日本人が何をどう考えて生きていたのか、戦争を挟んだ日本の現代史が浮き彫りになって面白いのではないかと感じた。
   それにしても、天皇制や占領政策等にたいする政策提言、反共主義等々きな臭いテーマの手紙があるなど、敗戦国と言えども、日本人は案外毅然として占領下をものともせず生きていたのかも知れない。
   
   ところで、期せずして、江戸後期から戦争直後までの手紙の変遷や社会への興味深い影響などを勉強したわけだが、この頃は不精をしてe-mailで済ませてしまって、真面目で丁寧な手紙文化を失ってしまった。
   これも、貴重なものをなくしてしまう文化の退廃なのかも知れない。
   美しい日本語を大切にしようと言う最近の出版物の氾濫もその反動なのであろうか。
   
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