熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

白石加代子の「源氏物語」~空蝉、朝顔、玉蔓

2010年10月07日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   場所を移して、新しい日経ホールで上演された白石加代子の「源氏物語」だが、今回は、あの絶世の色男でドンファンの光源氏を振った女特集と言うわけで、サブタイトルも、「届かなかった恋の数々 白石加代子がお届けする極上のエンターテインメント」と思わせぶりで、いつもの七色の声で老若男女取り混ぜて器用に演じ分ける天性の役者白石加代子の一人芝居が更に冴えわたって非常に面白かった。
   いつもは、かたい経済や経営、政治などの講演会やセミナーで通っている日経ホールなので、ガラリと変わった夜の演芸の舞台には一寸違和感があったが、音響効果はともかく、比較的どの席からも良く舞台が展望できるこじんまりとした良い劇場だと思う。

   さて、この白石加代子の源氏物語だが、単なる瀬戸内寂聴の現代語訳源氏物語の朗読ではなく、沢山の扇を、大道具や小道具、あるいは、舞台のバックシーンなどとして使用しているので、黒衣の後見役浜恵美さんたちが、ストーリーの展開に応じて移動させ、朗読の白石も、源氏物語の女になったような衣装を器用に使い分けながら、役者として色々な役どころを演じて見せるので、一人芝居に近い。
   ナレーションのパートは、朗読だが、源氏や女主人公などの台詞になると、中村メイコばりの七つの声で豊かなキャラクターを実にビビッドに演じ分け、それに、たとえば、艶めかしい濡れ場などになると、源氏の良くやる”女人にに近々と身を寄せて添い臥しする”様子なども上品に演じてみせるなど、実に表情豊かな舞台を見せてくれる。
   とにかく、源氏の舞台は、源氏が女人に近づいてものにするラブ物語がメインテーマであるから、全編、艶めかしいのだが、今回は、空蝉の巻で、若い源氏が方違えで空蝉のいる紀伊守宅に逗留するのだが、源氏が、”閨のほうのご馳走はどうなっているの”と夜の接待を催促するところの貝の話などは、白石も意味深に語っていたが、蜷川の「夏の世の夢」で演じていた女王タイターニアのように、結構色っぽくてエロチックなのだが、いずれにしろ、白石の色物語は、非常に品の良いオブラートに包んだ上品な香りがして、そのニュアンスが素晴らしいと思っている。

   後半の玉蔓などは、若い田舎娘からの登場なので髪の長いおかっぱ頭で登場するのだが、それ以外に、玉蔓の巻で、源氏が新年の祝いに女たちに、夫々衣装を見立てて与えるところでは、衣装の色や文様などを扇型にえがいた大型の正方形のパネルを使用したり、オカメ顔の近江の君は、黒子に顔を描いた扇を顔につけさせて舞台や客席を移動させたりするなど、多少演出に工夫を加えてはいるが、ムードのある音楽や豊かなバリエーションに富んだ照明が活躍して、舞台に奥行と幅を持たせており、シンプルだが、新しいパーフォーマンス・アートとしての魅力と冴えは、流石である。
   玉蔓と兵部卿宮との逢う瀬の最中に、源氏が忍び寄って来て、蛍を沢山薄衣に包んで光が漏れないよう隠して置いたものをいきなりぱっと放つシーンがあるのだが、この舞台では実に幻想的で美しい舞台を現出していて面白かった。

   ところで、まず、空蝉だが、前述した紀伊守宅で17歳の源氏に忍び込まれて契るのだが、その後は、何度もモーションをかけてくる源氏を徹底して拒み続けて、一度は薄衣だけを残して逃げ去るので、空蝉と言う名前で呼ばれている。
   美人ではないのだが非常に学があって聡明かつ上品で慎ましやかで、それに、しがない老年の伊予守の後妻と言う立場だが、私は、その境遇が良く似ているので、この空蝉は、紫式部の分身ではないかと思っている。
   そうすると、天海祐希主演の”ひかる源氏物語 千年の恋”で、吉永小百合の紫式部が、せまってくる渡辺謙の道長を拒み続けるシーンとダブって見えてくるのだが、この源氏物語は、紫式部が家庭教師をしている中宮彰子の父親道長も読んでいる筈であり、かつ、この巻が源氏物語の冒頭に近い部分でもあるので、紫式部と道長とに関係があれば別だが、一寸、辻褄が合わない気がするのだが、などとつまらないことを考えてしまった。

   同じ源氏を振っても、空蝉は、一度は関係を持ったので、少しニュアンスが違って来るのだが、朝顔と玉蔓は、完全に源氏を拒否(?)し続けて、一度も、源氏は、その思いを遂げていない。
   玉蔓に至っては、頭中将と夕顔の子供なのだが、秘して自分の娘として引き取って育てながら、紫の上に匹敵する魅力的な美女に変身して来たので、親でありながら、「あなたのお母さんとの見境がついついつかなくなってしまって」とか何とか口から出まかせを言って不埒にも迫りに迫るのだが、結局は、玉蔓は、弁のおもとの手引きで忍び込んだ一番嫌っていた髭黒右大将にさらわれてしまう。この玉蔓には、実の弟である柏木が、それを知らずに恋文を送り続けるなど、玉蔓、螢、藤袴等々、結構多くの巻に話が展開されていて興味深いのである。
   朝顔は、光源氏の従妹と言う高貴の姫君であり、源氏も思いを寄せ、朝顔も源氏を思っていたが、葵上に先を越されて、その後は、光源氏の女遍歴があまりにも酷いので、拒み続けてプラトニックラブを押し通して独身のまま仏門に入ったと言う。
   先の空蝉も、最後は出家して源氏が面倒を見るのだけれど、寂聴さんが言うように、宗教心があったとは思えないが、仏門に入った女性には、いくら好色な源氏でも一切アタックしなかったと言うので、源氏の恋も、ここで終わっている。
   また、恐れ多くも、義母であり天皇の后・中宮藤壺との間に不義の子・後の冷泉帝をもうけて、尚且つ、迫り続けるので、とうとう耐えかねた藤壺も出家すると言うのであるから、光源氏のドンファンぶりは、フィクションと謂えども古今東西群を抜いている。

   いずれにしろ、源氏物語、そして、白石加代子の語り演じる物語は、実に面白くて楽しい。

(追記)口絵写真は、ビラから転写借用。
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マーケティングの極意は商品を品薄にして顧客を焦らすこと

2010年10月05日 | 経営・ビジネス
   先日、ヤンミ・ムン教授のマーケテイングについて、顧客満足など全く無視、顧客第一主義などもう古いと言った調子のアンチ顧客志向の戦略で成功している「アイデア・ブランド」について考えてみた。
   尤も、この考え方は、コトラーたちの引き起こしたモダン・マーケティング病の蔓延によって、企業が、顧客を徹底的に甘やかした顧客第一主義に基づて、新製品の開発競争に奔走し過ぎて袋小路に嵌り込んでしまったと言う批判もあり、マーケテイングが成功すればするほど、ハツカネズミのように、走り続けなければならないと言う笑えない現在資本主義の悲劇を象徴しているのかも知れない。

   私は、この現象を見ていて、何故か、もう半世紀も前に、ジョン・ケネス・ガルブレイスが著した「豊かな社会 The Affluent Society」のソーシャル・バランスの欠如の理論を思い出す。
   民間企業は、これでもかこれでもかと宣伝に努めて、欲しくないものまで買わせるマーケテイング競争に奔走し、豊かになって行くのだが、誰もが出来れば払いたくない税金で賄わなければならない公園や治安など公共サービスなどは、逆に、どんどん質が低下して行き、民と官とのソーシャル・バランスが欠如して行く、と資本主義の将来に警告を発していた。
   たった一人の人間しか乗らない車に派手な尾びれまで付けて、鉄を2トンも使う必要があるのかと、文明の象徴であったキャデラックを糾弾していたのだが、私にとっては、この本が、ガルブレイスに、そして、経済学にのめり込ませる切っ掛けとなった。

   これまで、経済学や経営学を勉強して来て、シュンペーターのイノベーション論にも傾倒して、あの発展途上にあった復興期の日本においても、あるいは、成熟化して老衰期に入って呻吟する現今の日本においても、経済成長が、問題の解決と国民の福祉のためには、最も大切だと思っているのだが、心のどこかに、その成長戦略や拡張志向が、間違った方向に突っ走っているのではないかと言う危惧の念が蠢くのは、このガルブレイスの影響かも知れないと思っている。
   国家が豊かになり、企業が成長発展するためには、イノベーションを追及して新しい魅力的な商品やサービスを生み出し、マーケテイング売り込みに奔走するなど積極的な成長戦略を遂行して行くことが大切なのだが、しかし、走っても走っても前に進めないハツカネズミのように、あるいは、我々の営む経済社会をもっと悪くして行くのではないかと言う思いである。

   さて、ここで問題にしたいのは、顧客満足どころか、スティーブン・ブラウンなどは、マーケティングの究極的目的は、消費者にモノを売ることであり、それ以上でもそれ以下でもないとして、顧客無視も甚だしいアンチ顧客主義を提唱していることで、
   顧客を無視し拒むことがその欲望を増大させ、顧客を否定することがその決意を強固にさせ、顧客への商品・サービスを長い間待たせたり提供を停止したりして欲望の成就を引き伸ばせれば引き伸ばすほど、顧客は喜んで、その後のロイヤリティは保証されると言っている。
   ほんまかいな、と言うところだが、このコンセプトは、素晴らしい才能あるタレントであふれているショービジネスの興行主が使っている手で、TEASE(Trickery, Exclusivitey, Amplification, Secrecy, Entertainment)の主要原則に基づいており、そっくりそのまま、マーケティングの極意であるとも言う。

   ブラウンがその例として紹介するのは、娘が愛してやまない小さなぬいぐるみのビーニー・ベイビーで、製造販売元のタイ・インクは、電話もかからないので苦情さえ言えなければ、大型有名店を無視して小さなギフトショップや売店などで売っていて、今日はあるけれども明日はないかも知れないと言った調子で、製造量は厳しく制限されていて、新種が常に開発され、古いモデルは警告なしに容赦なく退場させられるので、あらゆる種類が特別版となり、「自分が供給したいものを供給したい先に供給する」と言った調子の傍若無人な商売であるから、品薄で手に入れるのは至難の業。
   品物も魅力的であるから、手に入れるのが難しいとなれば誰もが欲しくなり、オークションでは、タカがぬいぐるみなのに、ビーニー・ベイビーは、6000ドル(50万円)に値が吊り上り、正に「お宝」と言うべきで、ダイアナ妃追悼の「プリンセス・ベア」は特に強烈なファンの争奪戦があった言う。
   顧客志向どころか、天邪鬼志向、意地悪志向、不便志向のマーケティング戦略の面目躍如である。

   アンチ顧客志向が実行されたもう一つの例として、エルメスのバーキンをあげている。
   このバッグは、エルメスのドーマス社長が飛行機に乗り合わせていたセクシーシンガーのジェーン・バーキンからヒントを得て生まれたようで、所有者は、「仕事、美容、肉体、それらすべてに必要なもの一切合財を一つの至福のバッグに入れることができるのよ」と誇っていると言う。
   「バーキンは普通の人のものではなく、ビューティフルな人のためのビューティフルなバッグで、B級より上のセレブでないとだめで、上級階級のみのための稀で特別な名門出であるから、一般大衆は申し込み出来ません。」とかで、この希少性と特別性が売り物であり、1年近くも待たされて、法外な価格を確実にし続けていると言うことである。
   もっと、魅力に拍車をかけているのは、「順番待ちリスト」に入れて貰うための競争で、特別なルートがあれば先を越せるとか噂が頻々で、「セックス&シティ」でもこのトリックが登場するなど、とにかく、顧客志向、顧客第一では、商売にならないと言うか、顧客を徹底的に苛めて焦らせるマーケティング戦略の勝利と言うべき典型であろうか。

   マーケティング論は、専門ではないので良く分からないが、大量生産大量消費のマス工業化産業社会が終わって、知的創造性と個性が尊重されるクリエイティブな知識情報産業化時代になったのであるから、コトラー流のマス・マーケティングからの、ある意味での脱却が必要なのかも知れないと言う感じがしている。  
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ヤンミ・ムン著「ビジネスで一番、大切なこと」

2010年10月04日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   ビジネスの成功の要は、競争力にある。競争力とは、競合他社と如何に差別化できるかである。
   ところが、現実には、企業は、競争が激しすぎて、本来の競争ではない競争に入り込んで、特殊な模倣の達人となり、異質的同質性、いわば異種のクローンであふれる製品カテゴリーを作り出して、差別化どころか、その差が細かくなり過ぎて模倣品の氾濫となっている。
   このことは、たとえば、デジカメでも、薄型TVでも、パソコンでも、沢山のブランドが氾濫しているが、殆ど企業間の製品には差がなく、3Dがブームだと言えば、どの企業も3D搭載に目の色を変えているのを見ても分かるし、洗剤や歯磨き、シリアル等々の一般の日常食品・雑貨に至っては、類似性の海に埋もれてその区別さえ付かなくなり、何を買っても大差ないので、消費者は、完全にブランド音痴となっている。

   企業やマーケターは、類似品を差別化と称して製品を増殖させ、どうでも良いような違いを強調する才のみ長けてくるので、シニカル、実利一辺倒、全くの無関心等々へと消費者を追いやり、ブランドロイヤリティを削いでいる。
   このような、いわば、マーケターのジレンマから脱却するためには、どのような戦略を打つべきかを、この著者のムン教授は、存在感際立つ「アイデア・ブランド」を打ち立てて成功している革新的な成長企業を例に引きながら、製品開発のイノベーション戦略を展開している。

   興味深いのは、「アイデア・ブランド」の創出、すなわち、ブルー・オーシャン市場を目指す無消費者商品の開発と言う差別化戦略には、市場調査を無視していることである。
   ムン教授は、イノベーションは、既存の世界の延長線上にはなく、お粗末なほど不完全である市場調査から得られるデータの先にあるものを見なくてはならないし、自らの想像力を働かせなければ生まれて来ないと言うのである。

   もう一つユニークなのは、この「アイデア・ブランド」は、言ってみれば、住宅の建て替えに匹敵すると言っていることである。
   ムン教授は、夫々の商品カテゴリーで、消費者に提案されていたものを根底から覆す、発想のブレイクスルーによる独創性を発揮し、これまでにない画期的な商品をイノベ―トして、それまでの競争を無意味にするばかりではなく、カテゴリー全体をも一変するような「アイデア・ブランド」の創出を意図しているのである。
   この考え方は、このブログで、大分以前に取り上げたリノベーション論とも交錯するのだが、シュンペーターの理論そのものが広義である所為もあり、同じイノベーションでも、元々、既存のカテゴリー商品を基にしてイノベーションを追及する時には、リノベーションの色合いが強くなり、リノベーションそのものがイノベーションともなる。
   後述するが、ムン教授の列挙する「アイデア・ブランド」を生んだイノベーションの殆どは、完全に新しい破壊型イノベーションではなく、既存の商品やサービスのリノベーションから生まれているので、住宅のリフォーム、リノベーションのようなものだと言うのであろう。

   さて、ムン教授の指摘する「アイデア・ブランド」の例だが、やはり、エクセレント・カンパニーの所以だが、分類・名付けが面白い。
   トップページが検索窓しかないGoogle、組み立て運搬など総てを客にやらせるIKEYAと言った顧客の期待している拡張を意図的に断ち切る、他社がyesと言う時にnoと言う世の流れの逆を行く「リバース・ブランド」。
   反応の鈍い不完全なロボットを「遊び仲間ペット犬」に仕立てて人気を博したSonyのAIBO、高級スイス製腕時計を派手なポップアートをあしらって流行のファッションブランドにしたスウォッチと言った既存の分類を書き換える「ブレークアウェー・ブランド」。
   大型自動車全盛のアメリカ市場に打って出た超小型車ミニクーパー、吐き気を催すほど拙いエナジードリンクのレッドブルと言った文化の摩擦からエネルギーを得ている好感度に背を向ける「ホスタイル・ブランド」etc.
   アップルなどは、これらの複合体とも言うべきイノベーションの達人で、競争のもたらす同質性の海の中で、カリスマ的な違いがどのようなものかを見せつけている、と言う。

   そう、この本の原書のタイトルは、「DIFFERENT」。ムン教授は、違いの分かる会社、違いの分かる商品やサービスを生み出すイノベーションを追及しなければ、会社の将来は危ういと警告しているのである。
   このDIFFERENTは、単なる差別化ではなく、徹底した差別化、すなわち、全く市場にはなく完全に無消費者のブルーオーシャン商品やサービスでなければならないと言うことである。
   言うならば、この本は、ムン教授の専門であるコンシューマー・マーケティング戦略、戦略的マーケテイング経営、マーケテイング・イノベイティブ・テクノロジー論から説き起こしたブルー・オーシャン戦略論と言う位置づけであろうが、高度な経営学書で有りながら、家族や友人の例を引くなど語り口が実に暖かくて人間的で、優秀教授として名誉ある地位にあるのも十分に頷ける。

   さて、もう何十年も前になるが、私がウォートン・スクールで勉強していた頃から、マーケテイングと言えば、コトラーで、今でも、コトラーのマーケテイング本が書店の経営書コーナーの常連である。
   手元に、読もうと思って、コトラーの最新版「コトラーのマーケティング3.0」があるが、その前に、「顧客志向は捨ててしまえ!」とモダン・マーケティングの権威フィリップ・コトラーに敢然と挑戦を挑んだスティーブン・ブラウンの「ポストモダン・マーケテイング FREE GIFT INSIDE!!」が、ある意味では、ムン教授の理論を先取りした、もっと過激なマーケティング論を展開していて面白い。
   コトラーを読んでから、合わせて論述してみたい。
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リチャード・ヴィートー&仲條亮子著「ハーバードの「世界を動かす授業」」

2010年10月02日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   ハーバード人気No.1教授の授業を初公開!と言う帯のふれ込みなので、そのつもりで読み始めたのだが、日本から始まる世界各国の記述などは、非常に博学多識でフエアだが至って常識的で何の変哲もない授業風景で、特に、感銘を受けなかったのだが、読み進めて行く内に、ヴィートー教授の意図のユニークさに気付き始めた。
   冒頭にも書かれていたが、この授業は、マクロ経済学の講義だが、経営者がビジネスをする上で、経済の大枠を理解するだけではなくて、政府や国際経済とは切り離すことは出来ず、世界の次代を担うトップリーダーにとって、今、世界で何が起きているか、社会政策や経済はどうなっているのか、あるいは、政治、法律、グローバリゼーションの影響などはどうなのかと言ったことを公正かつ的確に理解することが必須だとの認識に基づいて立ち上げられたBGIE(Business, Goverment and International Economy)であり、
   そのために、世界全体を漏れなく展望するために、世界を8つの経済圏に分類して、その代表的な国の歴史や地政学から説き起こして詳細に現状を分析し、ケーススタディを交えながら、問題点などを浮き彫りにして、生徒たちに戦略を考えさせ、啓蒙して行くと言う趣旨なのである。
   尤も、この本では、ある一時期を切り取っただけなので、静止していて迫力に欠けるのだが、実際の授業では、豊かなケーススタディや討論でのヴィートー教授の博識と知恵に裏付けられたコメントや指摘などによって増幅されたアウトプットが生まれて、大変啓蒙的で意義深いのであろうと思う。

    ヴィートー教授のハーバードのホームページ(この口絵写真もここから借用)を見ると、国際政治経済学の教授なので、経済開発やグローバリゼーション、政府とビジネスの関係などに造詣が深いのは勿論だが、最近では、再生エネルギーなど地球温暖化や環境問題、教育などについても研究分野を広げていて、非常に間口が広い。
   本来、経済学は、政治経済学として生まれたので、ヴィートー教授の取組は不思議ではないのだが、今や、経済学も、もっと広域な文明論や歴史学、あるいは、哲学、道徳・倫理と言った価値観を内包した総合的なアプローチが必要になってきたと言うことであろうか。
   経済学にも、ドラッカーのような学者が必要になったのである。
   何十年も前の私の過ごしたウォートン時代のビジネス・スクールとは、様変わりである。

   ユニークなのは、企業にとって「競争力を持つための戦略」は必須なのだが、今日のようにグローバル化が進んで来れば、国家も戦略を持って競争力をつけて、国の発展、成長、そして存続を図ることが大切であると考えて、国家の戦略論を展開し、この本の後半に、「国の競争力とは」と言う章を設けて、国家の基本的な役割や資源戦争など政府の経済戦略等について論述していることである。
   ヴィートー教授のホームページで、この延長線上の本として、2007年に出版した「How Countries Compete」の世界経済に関する縮刷版として2010年に日本語で出版すると、この本について記述している。
   オリジナルの英語版の原本も翻訳版もなく、共著者の仲條さんににすべて任せると言うことで出来上がったそのまま日本語の本であり、日本の読者向けに書かれた感じになっているのだが、どこまでが、ヴィートー教授の指摘なのか、一寸、ニュアンスに微妙な揺れがある。

   ヴィートー教授の説く国家の成長戦略遂行の優等生は、1954年から1971年までのミラクルを現出した日本と、それに倣って快進撃を続ける最近のシンガポールであることは明確であるが、その日本ミラクル、すなわち、歌を忘れてしまった現在の日本について、同じような病苦に苦しむアメリカとともに、「巨大債務に悩む富裕国」と言う章で、問題点などを指摘しながら論じている
   しかし、日本を3回訪れ3回日本に関する論文を書いたが、1950年代、60年代から続く世界の流れの中で、なにもせずに15年間を過ごすことがなぜ可能なのかを理解しようとしたが、正直に言うと結局日本がどうしたいのかを理解できなかった、本書の中で日本が今後どういう戦略をだしてくるのかについて述べることは難しい、と言っており、
   個々の問題については、それなりにコメントできるが、日本が、何を考えてバブル崩壊後20年以上も無為無策を続けて眠り続けているのか理解に苦しむと言うわけで、殆ど、日本の国家戦略については、提言らしきものは示していない。
   しかし、日本の課題は明白だとして、
   世界がグローバル化の趨勢にあるにも拘わらず内向き志向に傾斜し、政治面ではポピュリズムに終始して、財政構造の硬直化、赤字幅の拡大、巨額な財政債務に苦しむ国になってしまったにも拘わらず、財政再建の筋道さえ示されていない。安全保障、優位な外交展開、資源・エネルギー開発、科学技術、教育、ベンチャービジネスなど、官民挙げて世界に立ち向かう成長戦略の策定と実行が課題であろう。と言う。
   
   仰ることは総てご尤もで、日本人自身、先刻十二分に承知しており肝に銘じてはいるのだが、高邁な叡智と理想とビジョンを持った強力なリーダーシップ欠如の悲しさで、企業も地方も官庁もセクショナリズムに明け暮れて、ポピュリズム一辺倒の政治の目も当てられないような迷走ぶりが災いして、ヒドラのように右往左往するだけで、何一つとして前へ進めないのが日本の現実なのである。
   名目GDPが、20年以上も同じ500兆円と言う数字のままと言うギネス級の律儀さで、仰るように「なにもせずに15年間をすごすことがなぜ可能なのか」、天然記念物のような悲しい生活を続けながら、いまだに、TVでの与野党議員たちの無能で不毛な議論を聞き続けなければならない、益々格差が拡大して貧しくなって行く国民の悲しさを分って頂けるであろうか。

   ヴィートー先生!
   お手元の小泉・竹中改革のケースに、歌を忘れた日本の没落の悲劇を、ギボンのローマ帝国衰亡史ばりのケースに仕立てて教材に加えて頂けませんでしょうか。
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DesignUK 2010 セミナー~英国大使館大使公邸

2010年10月01日 | 経営・ビジネス
   2年前に参加したことがあるのだが、英国大使館内の大使公邸で開かれたDesignUK 2010 セミナーを聴講した。
   今回は、「ビジネス・パートナーとしての英国デザイン企業――在英日本人デザイナーの活躍を通して再考察」と言うタイトルで、英国で活躍している安積伸氏やデザインコンサルタント会社タンジェリンの石原祐一氏とPDDの石川俊佑氏が、自作や英国デザイン事情などについてレポートし、最後に、日経デザイン下川一哉氏の司会でパネルディスカッションが行われた。

   私自身は、大分前に、ロンドンのシティで、ビッグバン真っ只中で、大型の金融機関向けに、歴史的重要建築物であったファイナンシャル・タイムスの旧本社ビルの再開発をやったことがあり、建築許可を取るために、アーキテクトの選定で、英国のトップ・アーキテクトであったノーマン・フォスター、リチャード・ロジャース、スターリングなどにインタビューしたこともあり、その時は、まだ、若かったサー・マイケル・ホプキンスを指名したのだが、誇り高き英国アーキテクトの権威と鼻息の荒さは良く知っている。
   日本で言う重要文化財の改築・再開発許可の取得であるから、英国世論の反対もあり、本来なら至難の業だったのだが、あらゆるメディアを通じて論陣を張って再開発反対運動を繰り広げていた保守派の大立者で急先鋒のギャビン・スタンプに、プランを見せて拍手させた時には、本当にほっとした懐かしい思い出がある。
   完工した暁には、英国のアーキテクト、建設関連協会や組織などの賞を殆ど総なめにした。   近代的な最新のハイスペックながら重要文化財故に19世紀の建築手法を取り入れた工事で大変だったが、日本人の誇りと意地、そして、日本の建設会社の実力を示せたと思っている。

   ところで、同じデザインと言っても、この工業デザインや家具調度などのデザインと言った分野には、私自身は関わりがないので、門外漢なのだが、英国での仕事も長かったし、経営コンサルタントとしての仕事上も、イノベーションの覇者とも言うべきアメリカの革新的なデザイン会社IDEOについて勉強なども続けており、デザイン会社は、クリエイティブ時代には、最も重要な機能を果たすものだと思っているので、勉強を兼ねてこのセミナーの聴講をお願いしたのである。

   素人考えでは、デザインと言えば、モダンなアメリカや、ファッション性の高いイタリアやフランスと言ったイメージが強いので、何故、イギリスのデザインだと言う疑問が湧いて来るようだが、私自身、ヨーロッパに8年、その内5年間ロンドンに住んでいた経験では、殆どのスポーツの起源がイギリスであるように、いまだに、学問芸術、文化ビジネス等々、あらゆる人間社会の営みにおいて、イギリスの占める位置・存在は突出していると思っている。
   結論から言えば、7つの海を制覇していた大英帝国の威光とその遺産によるのだが、特に重要なのは、オックスブリッジで確立されたリベラル・アーツ重視の教育文化がイギリス人の価値観や生活基盤に根付いていて脈々と受け継がれて来ていると言うことだと思っている。

   イノベーションの生まれる土壌は、あのルネサンス期のフィレンツェで花咲いたメディチ・イフェクトの発露、すなわち、異文化、異学問の集合した文化文明の十字路の出現で、あらゆる人間の営みが百花繚乱する場の存在だが、その意味では、文化芸術学問ビジネスなどあらゆる分野において、突出した高度な水準を保っている都市など稀有で、ロンドンに匹敵する都市は殆どない筈であり、
   開会挨拶に立ったデイビッド・ウォレン駐日英国大使(口絵写真)が、それ故に、その先を見越して英国が、如何に、デザイン重視の国策経済政策を推進しているかを、そして、3人のスピーカーたちも、如何に、ロンドンが、デザイナーとして活躍の場に恵まれているかを語ったのである。

   両デザインコンサルタント会社の二人が、一つのデザイン(と言うよりも、デザインを主体としたソリューション)を生み出すために、デザイナーやエンジニアは勿論、心理学者や哲学者、歴史学者など多くの違った部門のエキスパートを糾合して、調査マーケテイングを皮切りに、多くの課程を積み重ねてプロジェクトを推進して行くのだと説明していたが、それも、一国では調達不可能で、国境を越えた人材のコラボレーションが必要だと言うことであり、正に、メディチ・イフェクトの再現である。
   多くの名作を残している安積氏や、二人のデザイン会社の作品などの説明を受けて、イギリスのデザインが、如何に、存在感を示し、世界で重要な位置を占めているのかが、良く分かった。

   このセミナーの後、大使館のご厚意で、アフタヌーン・ティが振る舞われたので、久しぶりに、美味しいスコーンを頬張りながら、紅茶を楽しませて貰った。
   雨上がりの公邸裏庭の緑が目に染みて清々しかった。
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